夜。
霧が深まる廊下を、咲は自分の部屋へ戻ろうとしていた。
けれど、どこか胸の奥がざわついて、足が止まる。
蓮と過ごしたあの夜の余韻。
彼の指が頬に触れた瞬間、世界が止まったように感じた。
――けれど、まだ彼は“思い出して”いない。
その現実が、胸に痛かった。
「桐原さん。」
背後から声がした。
振り向くと、悠斗(ゆうと)が立っていた。
彼は軽く笑っていたけれど、その瞳の奥には、どこか複雑な光が宿っていた。
「こんな時間に、ひとりで?」
「眠れなくて……。」
「俺も。 ここに来てから、変な夢ばかり見るんですよ。 ――誰かを失う夢ばかり。」
静かな廊下に、二人の声だけが響く。
悠斗は一歩近づいた。
その距離が、近すぎて、咲の呼吸が止まる。
「ねぇ、桐原さん。 もし“本当に大切な人”を忘れてしまって、 その人の顔がもう思い出せなかったら…… 新しい誰かを、好きになってもいいと思いますか?」
「え……?」
背中には固く冷たい感触がした。
咲は息を呑んだ。
悠斗の瞳はまっすぐで、逃げ場がなかった。
「俺は――あなたが誰かを忘れてても、 今の“あなた”に惹かれてる。 過去じゃなく、今を選びたい。」
そのまま、悠斗の指が咲の頬に触れた。
あたたかくて、優しい。
彼は、そのまま顔を近づけてきた。
その瞬間――
咲の中で、強い光が弾けた。
(……誰か、いる。私には――)
脳裏に、ひとりの男性の姿が浮かんだ。
あの静かな声。
不器用に笑う横顔。
――蓮。
そして、その後ろに、幼い笑顔。
小さな手を握る、子どもたち。
その瞬間、咲の頬を涙が伝った。
「……ごめんなさい。」
小さく首を振ると、悠斗の手が止まった。
彼もまた、すぐに気づいたように表情を緩めた。
「……そうだよね。 やっぱり、どこかにいるんだ。 君の中で、消えない人が。」
「私、誰かを忘れてしまってる。 でも、その人が――“全部”だった気がするの。」
悠斗はゆっくり手を離し、微笑んだ。
少しだけ寂しそうに。
「なら、俺は引き下がるよ。 “君を奪う”より、“君が本当の愛を取り戻す”のを見たいから。」
咲の胸がきゅっと締めつけられる。
「悠斗さん……。」
「大丈夫。俺もこの場所で、 “手放す愛”があるって気づいたから。」
そう言って、悠斗は一歩後ろへ下がった。
そして、霧の中に消えていった。
咲はその場に立ち尽くし、 胸に手を当てた。
――蓮。
――どうして、あなたの顔だけ、こんなに涙が出るの。
遠くで、鐘の音が響いた。
それは“真実の夜明け”を告げる合図のように感じられた。
霧が深まる廊下を、咲は自分の部屋へ戻ろうとしていた。
けれど、どこか胸の奥がざわついて、足が止まる。
蓮と過ごしたあの夜の余韻。
彼の指が頬に触れた瞬間、世界が止まったように感じた。
――けれど、まだ彼は“思い出して”いない。
その現実が、胸に痛かった。
「桐原さん。」
背後から声がした。
振り向くと、悠斗(ゆうと)が立っていた。
彼は軽く笑っていたけれど、その瞳の奥には、どこか複雑な光が宿っていた。
「こんな時間に、ひとりで?」
「眠れなくて……。」
「俺も。 ここに来てから、変な夢ばかり見るんですよ。 ――誰かを失う夢ばかり。」
静かな廊下に、二人の声だけが響く。
悠斗は一歩近づいた。
その距離が、近すぎて、咲の呼吸が止まる。
「ねぇ、桐原さん。 もし“本当に大切な人”を忘れてしまって、 その人の顔がもう思い出せなかったら…… 新しい誰かを、好きになってもいいと思いますか?」
「え……?」
背中には固く冷たい感触がした。
咲は息を呑んだ。
悠斗の瞳はまっすぐで、逃げ場がなかった。
「俺は――あなたが誰かを忘れてても、 今の“あなた”に惹かれてる。 過去じゃなく、今を選びたい。」
そのまま、悠斗の指が咲の頬に触れた。
あたたかくて、優しい。
彼は、そのまま顔を近づけてきた。
その瞬間――
咲の中で、強い光が弾けた。
(……誰か、いる。私には――)
脳裏に、ひとりの男性の姿が浮かんだ。
あの静かな声。
不器用に笑う横顔。
――蓮。
そして、その後ろに、幼い笑顔。
小さな手を握る、子どもたち。
その瞬間、咲の頬を涙が伝った。
「……ごめんなさい。」
小さく首を振ると、悠斗の手が止まった。
彼もまた、すぐに気づいたように表情を緩めた。
「……そうだよね。 やっぱり、どこかにいるんだ。 君の中で、消えない人が。」
「私、誰かを忘れてしまってる。 でも、その人が――“全部”だった気がするの。」
悠斗はゆっくり手を離し、微笑んだ。
少しだけ寂しそうに。
「なら、俺は引き下がるよ。 “君を奪う”より、“君が本当の愛を取り戻す”のを見たいから。」
咲の胸がきゅっと締めつけられる。
「悠斗さん……。」
「大丈夫。俺もこの場所で、 “手放す愛”があるって気づいたから。」
そう言って、悠斗は一歩後ろへ下がった。
そして、霧の中に消えていった。
咲はその場に立ち尽くし、 胸に手を当てた。
――蓮。
――どうして、あなたの顔だけ、こんなに涙が出るの。
遠くで、鐘の音が響いた。
それは“真実の夜明け”を告げる合図のように感じられた。



