夜。
静かな廊下を、咲(さき)は一人で歩いていた。
部屋に戻っても眠れず、ただ胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
あの庭園で感じた、蓮(れん)の手の温もり。
ほんの一瞬だったのに、ずっと離れなかった。
(どうしてこんなに――心臓が痛いの。)
足が自然に、ラウンジへ向かっていた。
淡い灯りの中、ひとりソファに座る蓮の姿が見える。
彼もまた眠れないらしい。 咲が近づくと、彼はゆっくり顔を上げて微笑んだ。
「……桐原さんも、眠れないんですね。」
「はい。なんだか、心がざわざわして。」
「分かります。僕も、同じです。」
テーブルの上に置かれた紅茶から、白い湯気が立ちのぼる。
咲が隣に腰を下ろすと、二人の距離は近くて、 ほんの少し動けば、肩が触れそうだった。
「……あの、“片想い”のことなんですけど。」
咲が口を開くと、蓮は目を伏せたまま、静かに笑った。 「僕じゃないかもしれませんよ。」
「そうかもしれません。でも――」
咲は言葉を探した。
でも胸の奥にある“確信”だけは、どうしても隠せなかった。
「それでも、あなたを見ると…… 何か、心の奥が懐かしくなるんです。 昔、すごく大切だった人を思い出すような――そんな気がして。」
蓮の指が、テーブルの上で止まる。
そして、ゆっくりと咲の方を向いた。 瞳の奥に、かすかな痛みが宿っている。
「僕も、です。 あなたの笑い方とか、声とか…… 全部、知ってる気がするんです。理由は分からないのに。」
沈黙。 でも、その沈黙さえ心地よかった。
外の霧が窓を伝い、光が滲む。 まるで二人だけを包み込む世界だった。
「――桐原さん。」
蓮がゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、咲の頬に触れる。
あたたかい。 そして、どこか懐かしい。
「こんな風に、触れたことが……前にも、ありましたよね。」
咲は息を飲んだ。
胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。
(そうだ……この感覚。私は、前にもこの人に――)
思い出す。
涙を浮かべた夜。
喧嘩のあと、謝り合って、 彼が「もう離さない」と抱きしめてくれたこと。
映像のように蘇る一瞬の記憶。 涙が頬を伝う。
「……ごめんなさい。なんで泣いてるのか分からなくて。」
蓮はその涙を指で拭った。
「泣かないでください。」
咲が顔を上げた瞬間、 二人の距離が、自然に、近づいていった。
呼吸が重なり、互いの温度が伝わる。
唇が触れるか触れないかのところで―― 蓮が、そっと止まった。
「……駄目だ。今はまだ、全部思い出せていない。」
咲の胸がきゅっと締めつけられる。
けれどその言葉には、確かな優しさがあった。
「でも、約束します。 必ず思い出します。 あなたが誰で、俺が何を失ったのか――全部。」
彼の額が咲の額に触れる。
静かな呼吸だけが響いた。
まるで“キスの代わり”のように、 心と心が重なった瞬間だった。
咲はその温もりの中で、 もうひとつの記憶を見た気がした――
“離婚届にサインをする彼の横顔” “行かないで”と叫んだ自分の声。
――彼だ。あの時の、旦那さん。
胸の奥に、やっと言葉が形を持つ。
けれどそれを伝えようとした瞬間、 外の霧が一気に窓を覆い、館の灯が一瞬、消えた。
蓮の姿が、霧に飲まれていく。
「蓮さんっ……!」
叫んだ声が、暗闇に吸い込まれた。
その瞬間、咲の中で封じられた記憶の扉が、完全に開いた。
静かな廊下を、咲(さき)は一人で歩いていた。
部屋に戻っても眠れず、ただ胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
あの庭園で感じた、蓮(れん)の手の温もり。
ほんの一瞬だったのに、ずっと離れなかった。
(どうしてこんなに――心臓が痛いの。)
足が自然に、ラウンジへ向かっていた。
淡い灯りの中、ひとりソファに座る蓮の姿が見える。
彼もまた眠れないらしい。 咲が近づくと、彼はゆっくり顔を上げて微笑んだ。
「……桐原さんも、眠れないんですね。」
「はい。なんだか、心がざわざわして。」
「分かります。僕も、同じです。」
テーブルの上に置かれた紅茶から、白い湯気が立ちのぼる。
咲が隣に腰を下ろすと、二人の距離は近くて、 ほんの少し動けば、肩が触れそうだった。
「……あの、“片想い”のことなんですけど。」
咲が口を開くと、蓮は目を伏せたまま、静かに笑った。 「僕じゃないかもしれませんよ。」
「そうかもしれません。でも――」
咲は言葉を探した。
でも胸の奥にある“確信”だけは、どうしても隠せなかった。
「それでも、あなたを見ると…… 何か、心の奥が懐かしくなるんです。 昔、すごく大切だった人を思い出すような――そんな気がして。」
蓮の指が、テーブルの上で止まる。
そして、ゆっくりと咲の方を向いた。 瞳の奥に、かすかな痛みが宿っている。
「僕も、です。 あなたの笑い方とか、声とか…… 全部、知ってる気がするんです。理由は分からないのに。」
沈黙。 でも、その沈黙さえ心地よかった。
外の霧が窓を伝い、光が滲む。 まるで二人だけを包み込む世界だった。
「――桐原さん。」
蓮がゆっくりと手を伸ばした。
その指先が、咲の頬に触れる。
あたたかい。 そして、どこか懐かしい。
「こんな風に、触れたことが……前にも、ありましたよね。」
咲は息を飲んだ。
胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。
(そうだ……この感覚。私は、前にもこの人に――)
思い出す。
涙を浮かべた夜。
喧嘩のあと、謝り合って、 彼が「もう離さない」と抱きしめてくれたこと。
映像のように蘇る一瞬の記憶。 涙が頬を伝う。
「……ごめんなさい。なんで泣いてるのか分からなくて。」
蓮はその涙を指で拭った。
「泣かないでください。」
咲が顔を上げた瞬間、 二人の距離が、自然に、近づいていった。
呼吸が重なり、互いの温度が伝わる。
唇が触れるか触れないかのところで―― 蓮が、そっと止まった。
「……駄目だ。今はまだ、全部思い出せていない。」
咲の胸がきゅっと締めつけられる。
けれどその言葉には、確かな優しさがあった。
「でも、約束します。 必ず思い出します。 あなたが誰で、俺が何を失ったのか――全部。」
彼の額が咲の額に触れる。
静かな呼吸だけが響いた。
まるで“キスの代わり”のように、 心と心が重なった瞬間だった。
咲はその温もりの中で、 もうひとつの記憶を見た気がした――
“離婚届にサインをする彼の横顔” “行かないで”と叫んだ自分の声。
――彼だ。あの時の、旦那さん。
胸の奥に、やっと言葉が形を持つ。
けれどそれを伝えようとした瞬間、 外の霧が一気に窓を覆い、館の灯が一瞬、消えた。
蓮の姿が、霧に飲まれていく。
「蓮さんっ……!」
叫んだ声が、暗闇に吸い込まれた。
その瞬間、咲の中で封じられた記憶の扉が、完全に開いた。



