朝、窓を開けても、外の景色は依然として白い霧に包まれていた。


この場所に来てから、太陽を一度も見ていない。


時間の感覚すら曖昧で、咲(さき)は夢の中を歩いているようだった。


昨夜の“結果”――片想い。


誰の想いが誰に向けられたのかは伏せられたまま。


けれどその曖昧さが、かえって心をざわつかせる。


朝食を終えたあと、咲はホテルの庭園を散歩していた。


霧の中から、ゆっくりと誰かの影が現れる。


白い息を吐きながら現れたのは、やはり――蓮(れん)だった。


「おはようございます。……眠れましたか?」


「少しだけ。あの、昨日の……」


咲が言いかけると、蓮は静かに微笑んだ。


「“片想い”のこと、気になりますか?」

その優しい言葉に、心臓が跳ねた。


「……少し、だけ。」

蓮は少しだけ視線を逸らし、ふっと笑う。


「不思議ですよね。名前も知らない人ばかりなのに、
 こうして話してると、初めてじゃない気がする。」


霧の向こうから、微かな鐘の音が聞こえた。


どこかで風が吹き抜け、咲の髪が頬にかかる。


蓮が自然に、そっとその髪に手を伸ばした。


指先が触れるか触れないかの距離で止まり――
咲の呼吸が、少しだけ速くなる。


「……ごめん。無意識に。」


「い、いえ……。」


たったそれだけの仕草なのに、胸の奥が熱くなる。


それは懐かしい安堵にも似ていて、でもどこか切なかった。


その瞬間、咲の頭に短い映像がよぎる。


――同じように、誰かが髪を撫でてくれた記憶。


優しい声で「おかえり」と囁かれた夜。
けれどその顔が、どうしても見えない。


(誰……? 誰なの、あの人……?)


「桐原さん。」


蓮の声が、現実へ引き戻す。


彼の瞳の奥に、咲は“懐かしさ”を見た。


ほんの一瞬、心が確信しかけた――
この人を、私は知ってる。


何年も前に、確かに“愛した”人だ。


その時。


「……仲良さそうだな。」


低い声が割り込む。


振り向けば、速水悠斗(はやみ ゆうと)が立っていた。


少し乱れた髪、笑っているのに、目だけが笑っていない。


「朝からデート? もう“選んだ”のかと思った。」


「別に、そういうわけじゃ――」


咲が答えるより早く、蓮が一歩前に出た。


「彼女を困らせるような言い方はやめてください。」


一瞬、空気が張りつめた。
悠斗の口角が上がる。


「……へぇ。優しいね。
 でも、忘れたのか? 前もそうやって、“守るつもりで傷つけた”じゃないか。」


その言葉に、蓮の表情が一瞬だけ曇る。


咲は息を呑んだ。


(“前も”? どういう意味……?)


悠斗はすぐに笑い、肩をすくめる。


「ま、今回はどう転ぶか、見ものだな。」


霧の中へ去っていく背中。


その姿を見送りながら、咲は心の奥がざわめいていた。


彼の言葉が、まるで“過去を知っている”ようで。


蓮が静かに咲を見た。


「……大丈夫ですか?」


「……はい。でも、あの人、何か知っている気がして。」


蓮は小さく頷き、少し躊躇したあと、咲の手を取った。


温かい掌が、咲の指を包み込む。


「もし何かあっても、俺がいます。……あなたを、放っておけない気がして。」


その言葉に、咲の胸が高鳴る。


手を離そうとしても、体が動かない。


代わりに、心が小さく囁いた。


(――もう一度、この人に恋をしてもいい?)


けれど同時に、遠くで“誰か”の声がした気がした。


子どもの笑い声。


「ママ、パパ、また喧嘩してるの?」


咲の瞳が揺れる。


彼女の中で、失われた記憶の扉がわずかに開きかけていた。