即位から三週間。春の気配はまだ遠く、王都アルディナは陰鬱な灰色に包まれていた。
だが、王宮の執務室には、火が灯っていた。厳格な建築様式に則った部屋の中央には、古びた長机が一つ。周囲の壁には過去の王たちの肖像画が並び、その目が新たな主を試すように見つめていた。
その中に、一人の少女がいた。アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。王位に就いて三週間、だが正式な戴冠式は未だ行われていない。彼女は玉座に座らぬ王として、静かに国の実務に向き合っていた。
書棚から抜き出された文書の束、机の上に広げられた帳簿、財政報告、法改正の下案、兵站と軍備の見直し――彼女はそれらをひとつひとつ、自らの目で読み込んでいた。
その中でも、ひときわ注目すべき一枚があった。
“改革派筆頭・ヴィゼリ公爵提出:農村税減免提案書”
その文書は上質な羊皮紙に記され、文字は流麗で整っていた。内容は、農村部に課されている土地税を一律で10%減免するというもの。理由として、農地の荒廃、収穫率の低下、農民層の疲弊、人口流出の懸念が挙げられていた。締めにはこうあった。
「王政の信を取り戻すには、まず民の懐に安堵を」
王宮外ではこの提案に喝采が上がっていた。大広間の廊下では、若手官僚たちが「新時代の始まり」などと浮かれ、宮廷内の厨房では使用人たちが「ヴィゼリ公爵様は優しい」と噂していた。
だが、アウレリアの目は、その紙面の奥にある“沈黙”に引っかかっていた。
表層は確かに善意に満ちている。だが、それだけだろうか?
アウレリアはゆっくりと席を立ち、執務室の壁にかかる王国地図の前に歩み寄る。
農村地帯――西方アール川沿いの穀倉地帯、南の高地小作民地、北西の沼沢地帯。
これらはすべて、改革派の支持地域である。農村貴族の票と声を支えているのは、この地の富農たちであった。
アウレリアは静かに呟いた。
「……善意にしては、政治的すぎる」
彼女は再び机に戻ると、別の文書を取り寄せるよう書記官に命じた。
「財務局から、今月提出されたすべての税制案を。特に、保守派のものを急ぎで」
日が沈みきった頃、届いた一枚の文書が、アウレリアの前に置かれた。
“ド・マルト公爵提出:都市維持税および交易税の引き上げ案”
提出理由はこう記されていた。都市機能の老朽化、交易量の偏在、職人保護への支出増大。
主な対象は、王都とその周辺に住む商人・職人・中産階級。
アウレリアは黙って読み進めた。
二つの案。改革派の減税と、保守派の増税。
対象は対照的。片方は農村、片方は都市。
だが、増減の額面を比べれば、不思議とバランスが取れていた。
まるで、最初から計算されたように。
「このふたつの案は……帳尻が合っている」
アウレリアの声は低く、確信に満ちていた。
さらに追い打ちをかけるように、旧情報局の局員からの報告が届いた。
そこには、数日前に開催された密会の記録が記されていた。
参加者:ヴィゼリ公爵、ド・マルト公爵、その側近数名。
場所:王都外縁の狩猟館、夜間の非公開会合。
内容までは明かされていない。だが、これだけで充分だった。
かつては議場で舌戦を繰り広げ、互いを罵り合っていた改革派と保守派の二人。
その両名が、なぜ今、同時に補完し合うような税制案を提出しているのか。
そこには、「共通の敵」があるという前提が必要だった。
すなわち――“王権”である。
表では減税を掲げて民を味方につけ、裏では都市部から搾取し、その責任を王政に転嫁する。
そうして、王女を“民意の逆風”に晒す。
古典的だが、効果的な包囲網だった。
アウレリアは深く息を吐くと、手元の記録帳を開き、銀のペンでこう記した。
――「策謀の中で真実を語る者は、必ず寡黙である」
その筆致は力強く、端正だった。
そして少女は、蝋燭が燃え尽きるまで、次の手を静かに練りはじめた。
♦
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、ひとつひとつの会談を丁寧に進めていた。
王宮の東翼、かつて王妃たちが使っていた迎賓の間を、彼女は政務応接室として使っていた。
豪奢な調度こそ控えめだが、壁の装飾と絹張りの椅子、金の象嵌が施された長机は王政の格式を感じさせ、重臣との対話にふさわしい静寂と緊張を宿していた。
午後の陽は高窓から斜めに差し込み、書類の端に影を落としていた。アウレリアの前には王国地図が広げられ、赤と青の印が整然と打たれていた。
三日間、中立派貴族たちが一人ずつ訪れ、この小さな間で密やかに語られた。誰もが慎重でありながら、アウレリアの問いに驚くほど素直だった。彼女の姿勢は静かで揺るがず、声は抑制されながらも芯があった。だからこそ、誰もが思わず本音を漏らした。
「改革派の案は、まるで慈善のように見えますが、実態は選別的恩恵に過ぎません」
そう語ったのはメルストン子爵。首都に屋敷を持つ小領主で、政務の多くを都市部で担ってきた人物だった。彼は指先でマントの房飾りを弄びながら、慎重に言葉を紡いだ。
「農村税の減免案には、明らかに選挙地盤への露骨な利益誘導があります。王都と周辺の商人・職人層は、まったく考慮されていない」
アウレリアは黙って頷き、次の地図へと視線を移した。
農村税減免の対象地域には、赤い印が付されていた。それは西部の麦作地帯、南のブドウ農園地帯、北西の小作農村など、すべてが改革派の影響圏だった。
「ご覧のとおり、減免対象の九割以上が、改革派の支持領に集中しています」
中立派の中には、思わず地図に目を凝らす者もいた。
「さらにこちらの都市税増案、課税対象となるのは王都を中心とした自由商会、職人ギルド、工匠たち……」
アウレリアが提示したのは、別の青い印で埋め尽くされた図だった。
「票を持たぬ者から奪い、票を持つ者に与える政策、ですな」
そう呟いたのは、老年の侯爵、ダンファン。杖を軽く床に突き、諦めと怒りがない交ぜになった眼差しを地図に向けていた。
「改革とは、かくも静かに、しかし露骨に、王政を蝕むものであったか」
アウレリアは静かに目を伏せ、次の言葉を飲み込んだ。
証拠がなければ、全ては“王女の私見”として切り捨てられる。それが今の宮廷だった。
その夜、月も隠れた闇の中で、旧情報局の密使が書状を届けた。
封蝋を割り、中から取り出された羊皮紙は驚くほど丁寧な筆致で綴られていた。
“農村税案の通過を前提に、交易税の幅は修正可能とすること”
“財務局における貿易税率調整権限の移譲は、次会期にて承認を求める”
日付は、農村税案の提出よりも二日早い。
ヴィゼリとド・マルトの書記官が交わした、明確な密約だった。
「やはり……そういうことですね」
アウレリアは息をつき、目を閉じた。
それでも、彼女は口を開かなかった。怒りも、抗議も、否。
それは、ただの騒ぎに終わる。
語るべきは、その策を完全に打ち砕ける瞬間のみ。
その夜、王宮では騒ぎが起きていた。「なぜ王女陛下は沈黙を貫いているのか」
若手役人は不安を語り、一部の貴族は「無為の王」と皮肉った。
だが、アウレリアは知っていた。
自らを炎に投じることなく、相手の炎を灰に変える方法を。
やがて訪れた、貴族院の審議日。
議場は早朝から人々で満ちていた。
三方の階段席には貴族、軍人、神官が並び、中央壇上には証言台と演説席が設けられていた。
まず登壇したのはヴィゼリ公爵。白銀の礼服に身を包み、身振りも堂に入り、まるで舞台の主演のように朗々と語った。
「我々は、国の根幹たる農を救わねばならぬ!王政が新たに始まるならば、その第一歩として民の生活基盤を支えるべきであります」
議場には拍手。農村貴族の席からは歓声さえ起こる。
次に、ド・マルト公爵が登壇する。
「王都は今、成長の岐路にある。交易と都市構造の整備は、その存続の要だ」
彼は安定した声で語り、堅実さと信頼感を漂わせた。
だが、そのすべてが仮面にすぎないことを、アウレリアだけが知っていた。
演説が終わり、場が静まったそのとき。
玉座から、白銀の礼装をまとった少女が立ち上がる。
足音が、議場に吸い込まれるように響いた。
視線が集まる。誰もが、その沈黙に息を止めた。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、静かに壇上に立つ。
白銀の礼装は陽光に照らされ、まるで月光を纏ったように幽かに輝いていた。背筋はまっすぐに伸び、両手は胸の前で静かに組まれている。
静寂。
議場の空気は張り詰めていた。天井近くのステンドグラスを通して差し込む光さえも、まるで音を殺していた。
列席する貴族たちは息を止め、軍部の将官たちは目を伏せ、聖堂代表たちは掌に祈りを刻むように黙していた。
少女の唇が、わずかに動いた。
「……民に優しい減税と、言われております」
その声音は穏やかだった。だが、水面に落ちる一滴が全体を揺らすように、静かに、確実に空気を変えた。
「しかし、別の場所に倍の重荷を課すのであれば、それは“減税”ではなく、“税の移し替え”に過ぎません」
一言ごとに、議場のどこかで微かな衣擦れの音や、咳払いが起こる。
「帳簿で数字を並べ、言葉を飾り、名目を整え、正義の仮面を被せる。
その実、誰が得をし、誰が損をしているのかを隠しながら」
アウレリアはゆっくりと目を上げ、視線をまっすぐにヴィゼリとド・マルトに向けた。
その瞳には怒りも嘲りもなかった。ただ、澄んだ裁定の光だけがあった。
「名を飾り、裏で契り、帳簿で欺き、言葉で隠す。
それを“政治”と呼ぶなら、私は……その言葉を拒絶いたします」
一瞬、議場全体が凍りついた。
その言葉は、鉄槌ではなかった。だが、それ以上の重みがあった。
アウレリアは演壇の前に進み、手元の資料を机に置いた。
それは王室経理局と情報局改組班が作成した、極めて正確かつ中立的な財政資料だった。
「私は、新たな提案をいたします」
声は少しだけ低く、今度は語りかけるような口調だった。
「第一に、都市部の交易税は現行水準で据え置きといたします。
民の購買力と供給力の均衡が今の水準に保たれており、このバランスを崩すことは景気の冷え込みを招く恐れがあると判断されました」
後方に控えていた王室の側近たちが、各席に資料の束を配布し始めた。
厚手の紙に印刷されたそれは、既存案と対案の財政影響を詳細に比較したものであった。
「第二に、農村税については段階的な減免を行います。
即時の10%減免ではなく、三年間で5%ずつの減免を段階的に実施し、同時に農業投資とインフラ整備の計画と連動させて効果を検証します」
アウレリアの言葉には激情はなかった。ただ、確固たる意志と整然たる論理だけが流れていた。
「第三に、財源についてご説明します。
王宮行事費、特に儀礼・饗応・慣習的慶弔に関する予算を30%削減いたします。
また、貴族特権により長年慣習的に支給されていた各種手当および管理費については全面的に再評価を行い、非公開支出項目を透明化します」
この一言に、議場はわずかに揺れた。椅子の軋む音、眉をひそめる者、扇を落とす音……反応はさまざまだった。
だが、アウレリアは一拍置いて、再び口を開く。
「最後に、中小商工業者への直接支援を目的として、王国信託銀行と連携し、低利融資制度を新設いたします。
金利は2.3%、返済猶予は1年。対象は正式登録された商工会・職人ギルド加盟者に限定し、財務局および市民代表による選定委員会で公正に審査を行います。この制度により、都市経済の底支えを実現し、将来的な税収安定を図るとともに、自助と共助の経済基盤を整備します」
長い演説だった。
だが、誰一人として途中で耳を逸らす者はいなかった。
アウレリアは演壇に手を置き、深く一礼した。
沈黙。
議場には、まるで時間が止まったような沈黙が流れた。
だが――最初の拍手は、その沈黙の中から生まれた。
一人。
中立派の若手議員が、静かに、だが迷いなく手を打った。
その音に続くように、二人目、三人目……やがて、拍手は連なり、波紋のように広がった。
貴族院の一角で、都市貴族派の筆頭が立ち上がった。
「この提案は……理に適い、しかも誠実だ」
それは賛同の意思表示だった。
ヴィゼリ公爵の表情が硬直し、口を開きかけたが、もはや遅かった。
ド・マルト公爵は苦い顔で資料を閉じ、沈黙したまま身を引いた。
彼らは、王に“見透かされた”のだ。
アウレリアは何も言わず、壇を降りた。
その足音は石の床に吸い込まれるように響き、議場全体が彼女の背を見送った。
王冠を持たぬ少女が、その場を完全に制していた。
◆
その夜、執務室。
窓の外では春の夜風が帳を揺らしていた。ろうそくの灯だけが、部屋の空気を照らしていた。
机上には、議場で用いた財政資料が整然と積まれていた。
アウレリアは一人、革装の記録帳を開き、羽ペンを手に取った。
ページの隅に、ひとことだけ記す。
「正義は、時に静かに、時に声高に語られる。だが最も強い正義は、嘘のない数字に宿る」
その文字は、筆圧こそ控えめだが、一本の剣のように鋭く、美しかった。
ペンを置いたアウレリアは、ほんの少しだけ目を閉じた。
彼女の中で、“王座”がひとつ、かたちを持った瞬間だった。
だが、王宮の執務室には、火が灯っていた。厳格な建築様式に則った部屋の中央には、古びた長机が一つ。周囲の壁には過去の王たちの肖像画が並び、その目が新たな主を試すように見つめていた。
その中に、一人の少女がいた。アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリア。王位に就いて三週間、だが正式な戴冠式は未だ行われていない。彼女は玉座に座らぬ王として、静かに国の実務に向き合っていた。
書棚から抜き出された文書の束、机の上に広げられた帳簿、財政報告、法改正の下案、兵站と軍備の見直し――彼女はそれらをひとつひとつ、自らの目で読み込んでいた。
その中でも、ひときわ注目すべき一枚があった。
“改革派筆頭・ヴィゼリ公爵提出:農村税減免提案書”
その文書は上質な羊皮紙に記され、文字は流麗で整っていた。内容は、農村部に課されている土地税を一律で10%減免するというもの。理由として、農地の荒廃、収穫率の低下、農民層の疲弊、人口流出の懸念が挙げられていた。締めにはこうあった。
「王政の信を取り戻すには、まず民の懐に安堵を」
王宮外ではこの提案に喝采が上がっていた。大広間の廊下では、若手官僚たちが「新時代の始まり」などと浮かれ、宮廷内の厨房では使用人たちが「ヴィゼリ公爵様は優しい」と噂していた。
だが、アウレリアの目は、その紙面の奥にある“沈黙”に引っかかっていた。
表層は確かに善意に満ちている。だが、それだけだろうか?
アウレリアはゆっくりと席を立ち、執務室の壁にかかる王国地図の前に歩み寄る。
農村地帯――西方アール川沿いの穀倉地帯、南の高地小作民地、北西の沼沢地帯。
これらはすべて、改革派の支持地域である。農村貴族の票と声を支えているのは、この地の富農たちであった。
アウレリアは静かに呟いた。
「……善意にしては、政治的すぎる」
彼女は再び机に戻ると、別の文書を取り寄せるよう書記官に命じた。
「財務局から、今月提出されたすべての税制案を。特に、保守派のものを急ぎで」
日が沈みきった頃、届いた一枚の文書が、アウレリアの前に置かれた。
“ド・マルト公爵提出:都市維持税および交易税の引き上げ案”
提出理由はこう記されていた。都市機能の老朽化、交易量の偏在、職人保護への支出増大。
主な対象は、王都とその周辺に住む商人・職人・中産階級。
アウレリアは黙って読み進めた。
二つの案。改革派の減税と、保守派の増税。
対象は対照的。片方は農村、片方は都市。
だが、増減の額面を比べれば、不思議とバランスが取れていた。
まるで、最初から計算されたように。
「このふたつの案は……帳尻が合っている」
アウレリアの声は低く、確信に満ちていた。
さらに追い打ちをかけるように、旧情報局の局員からの報告が届いた。
そこには、数日前に開催された密会の記録が記されていた。
参加者:ヴィゼリ公爵、ド・マルト公爵、その側近数名。
場所:王都外縁の狩猟館、夜間の非公開会合。
内容までは明かされていない。だが、これだけで充分だった。
かつては議場で舌戦を繰り広げ、互いを罵り合っていた改革派と保守派の二人。
その両名が、なぜ今、同時に補完し合うような税制案を提出しているのか。
そこには、「共通の敵」があるという前提が必要だった。
すなわち――“王権”である。
表では減税を掲げて民を味方につけ、裏では都市部から搾取し、その責任を王政に転嫁する。
そうして、王女を“民意の逆風”に晒す。
古典的だが、効果的な包囲網だった。
アウレリアは深く息を吐くと、手元の記録帳を開き、銀のペンでこう記した。
――「策謀の中で真実を語る者は、必ず寡黙である」
その筆致は力強く、端正だった。
そして少女は、蝋燭が燃え尽きるまで、次の手を静かに練りはじめた。
♦
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、ひとつひとつの会談を丁寧に進めていた。
王宮の東翼、かつて王妃たちが使っていた迎賓の間を、彼女は政務応接室として使っていた。
豪奢な調度こそ控えめだが、壁の装飾と絹張りの椅子、金の象嵌が施された長机は王政の格式を感じさせ、重臣との対話にふさわしい静寂と緊張を宿していた。
午後の陽は高窓から斜めに差し込み、書類の端に影を落としていた。アウレリアの前には王国地図が広げられ、赤と青の印が整然と打たれていた。
三日間、中立派貴族たちが一人ずつ訪れ、この小さな間で密やかに語られた。誰もが慎重でありながら、アウレリアの問いに驚くほど素直だった。彼女の姿勢は静かで揺るがず、声は抑制されながらも芯があった。だからこそ、誰もが思わず本音を漏らした。
「改革派の案は、まるで慈善のように見えますが、実態は選別的恩恵に過ぎません」
そう語ったのはメルストン子爵。首都に屋敷を持つ小領主で、政務の多くを都市部で担ってきた人物だった。彼は指先でマントの房飾りを弄びながら、慎重に言葉を紡いだ。
「農村税の減免案には、明らかに選挙地盤への露骨な利益誘導があります。王都と周辺の商人・職人層は、まったく考慮されていない」
アウレリアは黙って頷き、次の地図へと視線を移した。
農村税減免の対象地域には、赤い印が付されていた。それは西部の麦作地帯、南のブドウ農園地帯、北西の小作農村など、すべてが改革派の影響圏だった。
「ご覧のとおり、減免対象の九割以上が、改革派の支持領に集中しています」
中立派の中には、思わず地図に目を凝らす者もいた。
「さらにこちらの都市税増案、課税対象となるのは王都を中心とした自由商会、職人ギルド、工匠たち……」
アウレリアが提示したのは、別の青い印で埋め尽くされた図だった。
「票を持たぬ者から奪い、票を持つ者に与える政策、ですな」
そう呟いたのは、老年の侯爵、ダンファン。杖を軽く床に突き、諦めと怒りがない交ぜになった眼差しを地図に向けていた。
「改革とは、かくも静かに、しかし露骨に、王政を蝕むものであったか」
アウレリアは静かに目を伏せ、次の言葉を飲み込んだ。
証拠がなければ、全ては“王女の私見”として切り捨てられる。それが今の宮廷だった。
その夜、月も隠れた闇の中で、旧情報局の密使が書状を届けた。
封蝋を割り、中から取り出された羊皮紙は驚くほど丁寧な筆致で綴られていた。
“農村税案の通過を前提に、交易税の幅は修正可能とすること”
“財務局における貿易税率調整権限の移譲は、次会期にて承認を求める”
日付は、農村税案の提出よりも二日早い。
ヴィゼリとド・マルトの書記官が交わした、明確な密約だった。
「やはり……そういうことですね」
アウレリアは息をつき、目を閉じた。
それでも、彼女は口を開かなかった。怒りも、抗議も、否。
それは、ただの騒ぎに終わる。
語るべきは、その策を完全に打ち砕ける瞬間のみ。
その夜、王宮では騒ぎが起きていた。「なぜ王女陛下は沈黙を貫いているのか」
若手役人は不安を語り、一部の貴族は「無為の王」と皮肉った。
だが、アウレリアは知っていた。
自らを炎に投じることなく、相手の炎を灰に変える方法を。
やがて訪れた、貴族院の審議日。
議場は早朝から人々で満ちていた。
三方の階段席には貴族、軍人、神官が並び、中央壇上には証言台と演説席が設けられていた。
まず登壇したのはヴィゼリ公爵。白銀の礼服に身を包み、身振りも堂に入り、まるで舞台の主演のように朗々と語った。
「我々は、国の根幹たる農を救わねばならぬ!王政が新たに始まるならば、その第一歩として民の生活基盤を支えるべきであります」
議場には拍手。農村貴族の席からは歓声さえ起こる。
次に、ド・マルト公爵が登壇する。
「王都は今、成長の岐路にある。交易と都市構造の整備は、その存続の要だ」
彼は安定した声で語り、堅実さと信頼感を漂わせた。
だが、そのすべてが仮面にすぎないことを、アウレリアだけが知っていた。
演説が終わり、場が静まったそのとき。
玉座から、白銀の礼装をまとった少女が立ち上がる。
足音が、議場に吸い込まれるように響いた。
視線が集まる。誰もが、その沈黙に息を止めた。
アウレリア・セラフィーナ・ヴァレリアは、静かに壇上に立つ。
白銀の礼装は陽光に照らされ、まるで月光を纏ったように幽かに輝いていた。背筋はまっすぐに伸び、両手は胸の前で静かに組まれている。
静寂。
議場の空気は張り詰めていた。天井近くのステンドグラスを通して差し込む光さえも、まるで音を殺していた。
列席する貴族たちは息を止め、軍部の将官たちは目を伏せ、聖堂代表たちは掌に祈りを刻むように黙していた。
少女の唇が、わずかに動いた。
「……民に優しい減税と、言われております」
その声音は穏やかだった。だが、水面に落ちる一滴が全体を揺らすように、静かに、確実に空気を変えた。
「しかし、別の場所に倍の重荷を課すのであれば、それは“減税”ではなく、“税の移し替え”に過ぎません」
一言ごとに、議場のどこかで微かな衣擦れの音や、咳払いが起こる。
「帳簿で数字を並べ、言葉を飾り、名目を整え、正義の仮面を被せる。
その実、誰が得をし、誰が損をしているのかを隠しながら」
アウレリアはゆっくりと目を上げ、視線をまっすぐにヴィゼリとド・マルトに向けた。
その瞳には怒りも嘲りもなかった。ただ、澄んだ裁定の光だけがあった。
「名を飾り、裏で契り、帳簿で欺き、言葉で隠す。
それを“政治”と呼ぶなら、私は……その言葉を拒絶いたします」
一瞬、議場全体が凍りついた。
その言葉は、鉄槌ではなかった。だが、それ以上の重みがあった。
アウレリアは演壇の前に進み、手元の資料を机に置いた。
それは王室経理局と情報局改組班が作成した、極めて正確かつ中立的な財政資料だった。
「私は、新たな提案をいたします」
声は少しだけ低く、今度は語りかけるような口調だった。
「第一に、都市部の交易税は現行水準で据え置きといたします。
民の購買力と供給力の均衡が今の水準に保たれており、このバランスを崩すことは景気の冷え込みを招く恐れがあると判断されました」
後方に控えていた王室の側近たちが、各席に資料の束を配布し始めた。
厚手の紙に印刷されたそれは、既存案と対案の財政影響を詳細に比較したものであった。
「第二に、農村税については段階的な減免を行います。
即時の10%減免ではなく、三年間で5%ずつの減免を段階的に実施し、同時に農業投資とインフラ整備の計画と連動させて効果を検証します」
アウレリアの言葉には激情はなかった。ただ、確固たる意志と整然たる論理だけが流れていた。
「第三に、財源についてご説明します。
王宮行事費、特に儀礼・饗応・慣習的慶弔に関する予算を30%削減いたします。
また、貴族特権により長年慣習的に支給されていた各種手当および管理費については全面的に再評価を行い、非公開支出項目を透明化します」
この一言に、議場はわずかに揺れた。椅子の軋む音、眉をひそめる者、扇を落とす音……反応はさまざまだった。
だが、アウレリアは一拍置いて、再び口を開く。
「最後に、中小商工業者への直接支援を目的として、王国信託銀行と連携し、低利融資制度を新設いたします。
金利は2.3%、返済猶予は1年。対象は正式登録された商工会・職人ギルド加盟者に限定し、財務局および市民代表による選定委員会で公正に審査を行います。この制度により、都市経済の底支えを実現し、将来的な税収安定を図るとともに、自助と共助の経済基盤を整備します」
長い演説だった。
だが、誰一人として途中で耳を逸らす者はいなかった。
アウレリアは演壇に手を置き、深く一礼した。
沈黙。
議場には、まるで時間が止まったような沈黙が流れた。
だが――最初の拍手は、その沈黙の中から生まれた。
一人。
中立派の若手議員が、静かに、だが迷いなく手を打った。
その音に続くように、二人目、三人目……やがて、拍手は連なり、波紋のように広がった。
貴族院の一角で、都市貴族派の筆頭が立ち上がった。
「この提案は……理に適い、しかも誠実だ」
それは賛同の意思表示だった。
ヴィゼリ公爵の表情が硬直し、口を開きかけたが、もはや遅かった。
ド・マルト公爵は苦い顔で資料を閉じ、沈黙したまま身を引いた。
彼らは、王に“見透かされた”のだ。
アウレリアは何も言わず、壇を降りた。
その足音は石の床に吸い込まれるように響き、議場全体が彼女の背を見送った。
王冠を持たぬ少女が、その場を完全に制していた。
◆
その夜、執務室。
窓の外では春の夜風が帳を揺らしていた。ろうそくの灯だけが、部屋の空気を照らしていた。
机上には、議場で用いた財政資料が整然と積まれていた。
アウレリアは一人、革装の記録帳を開き、羽ペンを手に取った。
ページの隅に、ひとことだけ記す。
「正義は、時に静かに、時に声高に語られる。だが最も強い正義は、嘘のない数字に宿る」
その文字は、筆圧こそ控えめだが、一本の剣のように鋭く、美しかった。
ペンを置いたアウレリアは、ほんの少しだけ目を閉じた。
彼女の中で、“王座”がひとつ、かたちを持った瞬間だった。



