春の訪れとともに、王都に一通の封書が届いた。
それは王国北部の交易使節団が東方のラヴァール公国から密かに持ち帰ったものだった。風にさらされたような乾いた羊皮紙。封蝋は砕け、墨はにじみ、文字は震えていた。
そこに記されていたのは、名もなく、差出人も記されていない、ただの一文──
「私たちは“見えない場所”に連れて行かれ、戻ってこられない」
たったそれだけだった。
だが、その文面は王国宰相府を静かに、確実に揺るがした。
それは報告でもなく、告発でもなかった。ただ、何かを伝えなければならなかった者の、最後の筆致だった。
王都の報道機関も、この頃から「異変」の片鱗を伝えていた。
東方の交易国、ラヴァール公国。その北東部地域において、特定の少数民族が拘束されている。村落の一部が地図から削除され、住民登録が一括で抹消されたという噂。再教育を名目とした強制収容施設が設けられているという証言もあった。
証拠はない。写真も映像も、関係者の名もない。だが、あらゆる情報の“粒”が、一つの流れとして輪郭を帯び始めていた。
王国の文化使節団の一部は、現地で急に案内役が交代したことを記録していた。交易商は「長年取引していた職人の村が立ち入り禁止区域になった」と話し、一部の衛生業者は、従業員が“消息を絶った”と報告していた。
こうした不規則な欠落の積み重ねが、静かな恐怖をにじませていた。
一方、ラヴァール政府の反応は迅速だった。
「王国の報道は虚偽であり、我が国の法秩序を貶める中傷である」
「すべての市民は平等に保護されており、誤情報の拡散は断固として排除する」
その声明とともに、王国との通商協定の再検討を示唆する外交通達が出された。王国大使館には“懸念”という名の冷たい圧力がかけられ、駐在武官が非公式に呼び出される事態に発展した。
王国宮廷内では即座に会議が招集され、重臣たちの間で意見が分かれた。
「このような薄弱な情報で動けば、国際社会での信頼を失います」
「民間の動きに国が乗るべきではありません」
「外交問題に発展すれば、経済への影響も計り知れない」
慎重論が支配的だった。
だが、アウレリアは黙って報告書の束を抱え、会議室を出た。
夜の執務室。星明かりが差し込む静寂の中、彼女は窓を開けた。春の風が帳のように舞い込む。
再び、あの羊皮紙を取り出す。
墨がしみ込んだその線は、まるで何かを隠すように乱れていた。言葉の選び方、文末の強さ、行の空白に滲む焦燥。
それは誰かが、命を賭して「伝えた」ものだった。
アウレリアはしばし紙を見つめたあと、そっと手帳を取り出した。表紙に王家の紋章。裏表紙には、小さな銀の星の押印。
ペン先が紙を滑る音は、衣擦れよりも静かだった。
『噂の中にしか届かない真実もある。ならば私は、影に光を入れる』
その一行が記された瞬間、王国の針路は、誰にも気づかれぬまま、わずかに角度を変えた。
♦
アウレリアは、会議室で飛び交う保身と静観の声を背に、執務室へと戻った。
扉を閉めた瞬間、その場の空気が一変する。絹張りの壁に囲まれた室内は外界と隔絶され、書棚と書簡が秩序正しく並び、床の絨毯にすら吸音の工夫が施されていた。
机に広げられた資料の束の前に立ったアウレリアは、手を組み、しばし黙考した。
窓辺へ歩み寄ると、外には春の薄曇り。王都の屋根の海を越え、まだ芽吹かぬ街路樹が微かに揺れていた。
「声は消せる。でも、記録は残る」
その独り言は、決意というよりは確認のようだった。彼女がこれから行うのは、“明かす”ための行動ではなく、“残す”ための仕組みづくりだった。
アウレリアはまず、王国情報局の旧工作部門に連絡を入れた。
かつて王宮直属の影の機関として政治介入や諜報任務を担っていたその部署は、公式には解体されたとされている。しかし現実には、少数の分析官や現地観察官が籍を残し、今も非公開人員として活動していた。
その隠された名簿にアクセスできるのは、王のみ──あるいは、現女王だけだった。
次に、王室文化局。表向きは詩集の保管、地誌の記録、文献の翻刻を担う文化保護機関。だが実際には、各地の方言、風習、服飾、料理、伝承などを通じて“地域民意の動向”を観察する、いわば王国における最古の“世論気象台”でもあった。
アウレリアはこのふたつを接続し、機密文書に名を冠さぬまま、「交流支援計画」を立ち上げた。
名目は、人道的な文化支援。
ラヴァール公国へ送られたのは、書籍と文房具、初等教材、衛生用品、布、裁縫具──誰が見てもただの善意だった。
だがその梱包の中には、王国製の特殊用紙(筆圧記録対応)、遠隔印字装置、目視暗号の解読補助具が同封されていた。
派遣されたのは、文化担当官という名の観察員たち。
彼らは都市から遠く離れた小村や地方市場を巡り、表情・空気・構造を観察した。情報を“取る”のではなく、“読まれる”ための痕跡を集めに行ったのだ。
日中は公的な活動に従事しながら、夜には手帳に静かに記した。人々の沈黙の深さ。目を合わせたがらない子どもたち。統一された制服と番号札──日常に溶け込んだ“異常”を拾い集めていった。
ある村で、子どもに配布した文具箱の底に、色鉛筆で描かれた絵が差し込まれていた。
そこには、校舎のような建物があった。しかし、それを囲う鉄格子と、外に出ようとする小さな影。そして──教室の窓は塗り潰され、中は真っ白だった。
他の地域からは詩の断片が届いた。
「親の名を 呼ぶ声届かぬ 壁のむこう」
感情は抑えられていた。情景も曖昧。だがその沈黙が、逆に意味を濃くしていた。
また別の箱には、取引品に紛れて古い布に巻かれた小さな紙片。
書かれていたのは、いずれも行政的な用語──“再配属”、“不適合”、“再言語指導”。
それは制度の名を借りた消失命令だった。
写真も録音もない。署名もない。だが、すべてが同じ地図の同じ“空白”を指していた。
アウレリアは、報告書を受け取った夜、執務室に灯を一つだけ残し、すべての断片に目を通した。
地図にない地名。登録にない職業。帳簿にない歳出。
「ここには、あるはずの生活が、ない」
長い沈黙ののち、彼女は一枚の報告を取り上げた。色鉛筆の絵だ。
「これは、情報ではない。証明でもない。けれど──声だ」
彼女はそう言い、命じた。
「この記録は暴露ではなく、保存とする。名前は伏せよ。形は残せ」
こうして数日後、『証明なき記録集 第一稿』が静かに編まれた。
誰の顔も名前も載らない冊子。けれど、そこには暮らしの重さと、目に見えぬ失われた日々の証明が凝縮されていた。
アウレリアは最後に表紙を閉じ、ひとことだけ記した。
「叫ばずとも、真実はかたちを持つ。静かな声ほど、後に響く」
♦
王国議会──。
議事堂の中央には長方形の壇上が設けられ、その周囲を貴族議員、商工代表、地方連合の使者が取り囲んでいた。天窓からは春の柔らかな陽光が差し込んでいたが、議場全体を包む空気は張りつめ、警戒と緊張、そして議員たちの利害と不安が交錯していた。
その日、議題に上がったのは、ラヴァール公国における人権侵害の疑惑と、それに対する王国の対応についてであった。
提出された調査記録──名前も証拠もない。だが数々の断片が、確かに“失われた生活”を指していた。
反発の声は予想より早く、そして大きく上がった。
「これは誇張です。証拠もなく、相手国との関係を揺るがしかねません」
「民意に迎合するような発表で、王国の外交信用が削がれる」
「少数の感情で、国の舵を乱すべきではない」
主に保守派の貴族や大規模通商を手がける商人議員が立て続けに発言し、重臣たちは沈黙を守った。彼らは“沈黙の実利”を掲げ、動かぬことが国益だと説いた。
その空気のなか、アウレリアは静かに席を立ち、壇上へと歩を進めた。
手にしていたのは、一冊の薄い冊子だった。
表紙に記されたタイトルは──『ある日の記録』。
彼女は無言のまま冊子を開き、それと連動して議場の魔導映写装置が作動。壁面に、一枚の絵が大きく投影された。
それは、ある子どもが描いた一日の風景だった。
柵。灯りのない学校。並べられた空席の食堂。塗り潰された黒板。そして、家族の姿が描かれていたはずの場所には、空白が広がっていた。
人物の顔も、名前も描かれていない。だが、何が描かれ、何が描かれていないか。それこそが、この絵の“すべて”を語っていた。
アウレリアは静かに語り始めた。
「これは、告発ではありません。ただ、ある一人の“日常”です。この絵の作者は、私たちに何かを訴えたわけではありません。ただ、“今日という日”を描いたのです。私たちが見るべきは、怒りでも、敵意でもありません。見るべきは、“生活が奪われた痕跡”です」
沈黙が、議場を覆った。
その後、アウレリアは王国としての三つの方針を明確に示した。
一、ラヴァール製の一部製品──特に労働集約型の輸入品について、監査義務を課す。製造過程における労働倫理の調査を定期的に行い、透明性の確保を求める。
一、王国文化省に“人道記録保存事業”を新設。国内外から集めた生活記録や文化的断片を保管・公開する常設展示施設を王都に建設する。ここは政治の場ではなく、“記憶のための空間”とする。
一、被害報告者を保護・支援するため、民間主導による基金の設立を正式に認可し、設立支援を行う。医療・移動・生活再建などの支援を目的とし、国家は直接介入せず“共助”の形を促す。
その方針に、罰則も制裁もなかった。
だが、王国は“見た”ことを見なかったふりはしない──それを全会一致で宣言する、という重みがあった。
拍手はすぐには起こらなかった。
沈黙のまま、誰もがその言葉の余韻を噛み締めていた。
やがて、ひとり──地方連合の女性議員が立ち上がる。
「記録は、武器ではありません。けれど、守るための盾にはなります」
それは静かに響いた。
次に、もうひとりが立ち上がった。
そして、拍手が広がった。速くはない。大きくもない。けれど、確かに“共感”という名の風が議場を満たしていった。
その夜。
アウレリアは執務室に戻り、机に座ったまましばし瞼を閉じた。
窓の外では、春の星が静かにまたたいていた。
彼女は記録帳を開き、銀のペンを取り、静かに記す。
『正義は時に力となるが、記憶は、風よりも静かに、長く世界を変える』
その文字は、強く書かれたわけではない。
だが、確かに深く頁に刻まれていた。
それは、ひとつの告発ではなく──歴史という頁の、書き出しだった。
♦
王宮の夜は、昼の喧騒とはまるで異なる顔を持っていた。
外の広場では、警備の兵たちが交代の巡回を行い、奥庭では風に揺れる噴水の音が時折、静寂の合間を縫うように響いていた。
そんな中、アウレリアは執務室を離れ、ひとり王宮西棟の書庫へと向かっていた。
誰にも告げず、足音を忍ばせ、広い回廊を静かに進む。
王宮書庫──それは千年にわたる王国の記録が収められた知の迷宮。
天井まで届く書架、無数の巻物と記録簿が、分類ごとにきちんと整頓されている。蝋燭の灯が柔らかく棚の影を揺らし、石造りの床に足音を淡く響かせていた。
アウレリアの手には、議会で投影された『ある日の記録』の原本があった。
それは今や、ただの報告書ではない。王国の記憶として、未来へ託すべき“声なき記録”だった。
無人の閲覧室。大理石の机の上に、その冊子をそっと置くと、アウレリアは一ページずつ、まるで祈るように絵を見つめていく。
柵。
灯りのない教室。
消された黒板。
そして、塗り潰された家族。
色鉛筆の線は幼く、不揃いだった。けれど、そこには飾らない“真実”があった。
描かれた絵には、声がなかった。
だが、その沈黙こそが、何より深く訴えていた。
アウレリアは静かに頁を閉じ、それを胸元にそっと抱き寄せる。
まるで忘れられた名前を記憶に刻むかのように。あるいは、幼き日の自分に手を重ねるように。
ふと立ち上がり、背後の書架へと歩を進めた。
彼女の指が選んだのは、一冊の古文書──『古代王政における記録法の研究』。
革張りの表紙には、百年前の王が記した金文字が刻まれていた。
「時に、記録とは剣より鋭く、炎よりも遅く、だが必ず跡を残す」
アウレリアはその一節をそっと指先でなぞり、小さく頷いた。
「ならば私は──刻み続けよう。決して声にせずとも、いつか必ず、誰かの手に届くように」
それは、王としての決意ではなかった。
ひとりの記録者として、国家という歴史の編纂者としての誓いだった。
書庫を出る頃には、空はすでに星の海となっていた。
灯りの少ない廊下を通り抜けるその背に、威光も剣もなかった。
だが、彼女の足取りこそが、王国という書物の“次の一章”を刻むペン先だった。
それは王国北部の交易使節団が東方のラヴァール公国から密かに持ち帰ったものだった。風にさらされたような乾いた羊皮紙。封蝋は砕け、墨はにじみ、文字は震えていた。
そこに記されていたのは、名もなく、差出人も記されていない、ただの一文──
「私たちは“見えない場所”に連れて行かれ、戻ってこられない」
たったそれだけだった。
だが、その文面は王国宰相府を静かに、確実に揺るがした。
それは報告でもなく、告発でもなかった。ただ、何かを伝えなければならなかった者の、最後の筆致だった。
王都の報道機関も、この頃から「異変」の片鱗を伝えていた。
東方の交易国、ラヴァール公国。その北東部地域において、特定の少数民族が拘束されている。村落の一部が地図から削除され、住民登録が一括で抹消されたという噂。再教育を名目とした強制収容施設が設けられているという証言もあった。
証拠はない。写真も映像も、関係者の名もない。だが、あらゆる情報の“粒”が、一つの流れとして輪郭を帯び始めていた。
王国の文化使節団の一部は、現地で急に案内役が交代したことを記録していた。交易商は「長年取引していた職人の村が立ち入り禁止区域になった」と話し、一部の衛生業者は、従業員が“消息を絶った”と報告していた。
こうした不規則な欠落の積み重ねが、静かな恐怖をにじませていた。
一方、ラヴァール政府の反応は迅速だった。
「王国の報道は虚偽であり、我が国の法秩序を貶める中傷である」
「すべての市民は平等に保護されており、誤情報の拡散は断固として排除する」
その声明とともに、王国との通商協定の再検討を示唆する外交通達が出された。王国大使館には“懸念”という名の冷たい圧力がかけられ、駐在武官が非公式に呼び出される事態に発展した。
王国宮廷内では即座に会議が招集され、重臣たちの間で意見が分かれた。
「このような薄弱な情報で動けば、国際社会での信頼を失います」
「民間の動きに国が乗るべきではありません」
「外交問題に発展すれば、経済への影響も計り知れない」
慎重論が支配的だった。
だが、アウレリアは黙って報告書の束を抱え、会議室を出た。
夜の執務室。星明かりが差し込む静寂の中、彼女は窓を開けた。春の風が帳のように舞い込む。
再び、あの羊皮紙を取り出す。
墨がしみ込んだその線は、まるで何かを隠すように乱れていた。言葉の選び方、文末の強さ、行の空白に滲む焦燥。
それは誰かが、命を賭して「伝えた」ものだった。
アウレリアはしばし紙を見つめたあと、そっと手帳を取り出した。表紙に王家の紋章。裏表紙には、小さな銀の星の押印。
ペン先が紙を滑る音は、衣擦れよりも静かだった。
『噂の中にしか届かない真実もある。ならば私は、影に光を入れる』
その一行が記された瞬間、王国の針路は、誰にも気づかれぬまま、わずかに角度を変えた。
♦
アウレリアは、会議室で飛び交う保身と静観の声を背に、執務室へと戻った。
扉を閉めた瞬間、その場の空気が一変する。絹張りの壁に囲まれた室内は外界と隔絶され、書棚と書簡が秩序正しく並び、床の絨毯にすら吸音の工夫が施されていた。
机に広げられた資料の束の前に立ったアウレリアは、手を組み、しばし黙考した。
窓辺へ歩み寄ると、外には春の薄曇り。王都の屋根の海を越え、まだ芽吹かぬ街路樹が微かに揺れていた。
「声は消せる。でも、記録は残る」
その独り言は、決意というよりは確認のようだった。彼女がこれから行うのは、“明かす”ための行動ではなく、“残す”ための仕組みづくりだった。
アウレリアはまず、王国情報局の旧工作部門に連絡を入れた。
かつて王宮直属の影の機関として政治介入や諜報任務を担っていたその部署は、公式には解体されたとされている。しかし現実には、少数の分析官や現地観察官が籍を残し、今も非公開人員として活動していた。
その隠された名簿にアクセスできるのは、王のみ──あるいは、現女王だけだった。
次に、王室文化局。表向きは詩集の保管、地誌の記録、文献の翻刻を担う文化保護機関。だが実際には、各地の方言、風習、服飾、料理、伝承などを通じて“地域民意の動向”を観察する、いわば王国における最古の“世論気象台”でもあった。
アウレリアはこのふたつを接続し、機密文書に名を冠さぬまま、「交流支援計画」を立ち上げた。
名目は、人道的な文化支援。
ラヴァール公国へ送られたのは、書籍と文房具、初等教材、衛生用品、布、裁縫具──誰が見てもただの善意だった。
だがその梱包の中には、王国製の特殊用紙(筆圧記録対応)、遠隔印字装置、目視暗号の解読補助具が同封されていた。
派遣されたのは、文化担当官という名の観察員たち。
彼らは都市から遠く離れた小村や地方市場を巡り、表情・空気・構造を観察した。情報を“取る”のではなく、“読まれる”ための痕跡を集めに行ったのだ。
日中は公的な活動に従事しながら、夜には手帳に静かに記した。人々の沈黙の深さ。目を合わせたがらない子どもたち。統一された制服と番号札──日常に溶け込んだ“異常”を拾い集めていった。
ある村で、子どもに配布した文具箱の底に、色鉛筆で描かれた絵が差し込まれていた。
そこには、校舎のような建物があった。しかし、それを囲う鉄格子と、外に出ようとする小さな影。そして──教室の窓は塗り潰され、中は真っ白だった。
他の地域からは詩の断片が届いた。
「親の名を 呼ぶ声届かぬ 壁のむこう」
感情は抑えられていた。情景も曖昧。だがその沈黙が、逆に意味を濃くしていた。
また別の箱には、取引品に紛れて古い布に巻かれた小さな紙片。
書かれていたのは、いずれも行政的な用語──“再配属”、“不適合”、“再言語指導”。
それは制度の名を借りた消失命令だった。
写真も録音もない。署名もない。だが、すべてが同じ地図の同じ“空白”を指していた。
アウレリアは、報告書を受け取った夜、執務室に灯を一つだけ残し、すべての断片に目を通した。
地図にない地名。登録にない職業。帳簿にない歳出。
「ここには、あるはずの生活が、ない」
長い沈黙ののち、彼女は一枚の報告を取り上げた。色鉛筆の絵だ。
「これは、情報ではない。証明でもない。けれど──声だ」
彼女はそう言い、命じた。
「この記録は暴露ではなく、保存とする。名前は伏せよ。形は残せ」
こうして数日後、『証明なき記録集 第一稿』が静かに編まれた。
誰の顔も名前も載らない冊子。けれど、そこには暮らしの重さと、目に見えぬ失われた日々の証明が凝縮されていた。
アウレリアは最後に表紙を閉じ、ひとことだけ記した。
「叫ばずとも、真実はかたちを持つ。静かな声ほど、後に響く」
♦
王国議会──。
議事堂の中央には長方形の壇上が設けられ、その周囲を貴族議員、商工代表、地方連合の使者が取り囲んでいた。天窓からは春の柔らかな陽光が差し込んでいたが、議場全体を包む空気は張りつめ、警戒と緊張、そして議員たちの利害と不安が交錯していた。
その日、議題に上がったのは、ラヴァール公国における人権侵害の疑惑と、それに対する王国の対応についてであった。
提出された調査記録──名前も証拠もない。だが数々の断片が、確かに“失われた生活”を指していた。
反発の声は予想より早く、そして大きく上がった。
「これは誇張です。証拠もなく、相手国との関係を揺るがしかねません」
「民意に迎合するような発表で、王国の外交信用が削がれる」
「少数の感情で、国の舵を乱すべきではない」
主に保守派の貴族や大規模通商を手がける商人議員が立て続けに発言し、重臣たちは沈黙を守った。彼らは“沈黙の実利”を掲げ、動かぬことが国益だと説いた。
その空気のなか、アウレリアは静かに席を立ち、壇上へと歩を進めた。
手にしていたのは、一冊の薄い冊子だった。
表紙に記されたタイトルは──『ある日の記録』。
彼女は無言のまま冊子を開き、それと連動して議場の魔導映写装置が作動。壁面に、一枚の絵が大きく投影された。
それは、ある子どもが描いた一日の風景だった。
柵。灯りのない学校。並べられた空席の食堂。塗り潰された黒板。そして、家族の姿が描かれていたはずの場所には、空白が広がっていた。
人物の顔も、名前も描かれていない。だが、何が描かれ、何が描かれていないか。それこそが、この絵の“すべて”を語っていた。
アウレリアは静かに語り始めた。
「これは、告発ではありません。ただ、ある一人の“日常”です。この絵の作者は、私たちに何かを訴えたわけではありません。ただ、“今日という日”を描いたのです。私たちが見るべきは、怒りでも、敵意でもありません。見るべきは、“生活が奪われた痕跡”です」
沈黙が、議場を覆った。
その後、アウレリアは王国としての三つの方針を明確に示した。
一、ラヴァール製の一部製品──特に労働集約型の輸入品について、監査義務を課す。製造過程における労働倫理の調査を定期的に行い、透明性の確保を求める。
一、王国文化省に“人道記録保存事業”を新設。国内外から集めた生活記録や文化的断片を保管・公開する常設展示施設を王都に建設する。ここは政治の場ではなく、“記憶のための空間”とする。
一、被害報告者を保護・支援するため、民間主導による基金の設立を正式に認可し、設立支援を行う。医療・移動・生活再建などの支援を目的とし、国家は直接介入せず“共助”の形を促す。
その方針に、罰則も制裁もなかった。
だが、王国は“見た”ことを見なかったふりはしない──それを全会一致で宣言する、という重みがあった。
拍手はすぐには起こらなかった。
沈黙のまま、誰もがその言葉の余韻を噛み締めていた。
やがて、ひとり──地方連合の女性議員が立ち上がる。
「記録は、武器ではありません。けれど、守るための盾にはなります」
それは静かに響いた。
次に、もうひとりが立ち上がった。
そして、拍手が広がった。速くはない。大きくもない。けれど、確かに“共感”という名の風が議場を満たしていった。
その夜。
アウレリアは執務室に戻り、机に座ったまましばし瞼を閉じた。
窓の外では、春の星が静かにまたたいていた。
彼女は記録帳を開き、銀のペンを取り、静かに記す。
『正義は時に力となるが、記憶は、風よりも静かに、長く世界を変える』
その文字は、強く書かれたわけではない。
だが、確かに深く頁に刻まれていた。
それは、ひとつの告発ではなく──歴史という頁の、書き出しだった。
♦
王宮の夜は、昼の喧騒とはまるで異なる顔を持っていた。
外の広場では、警備の兵たちが交代の巡回を行い、奥庭では風に揺れる噴水の音が時折、静寂の合間を縫うように響いていた。
そんな中、アウレリアは執務室を離れ、ひとり王宮西棟の書庫へと向かっていた。
誰にも告げず、足音を忍ばせ、広い回廊を静かに進む。
王宮書庫──それは千年にわたる王国の記録が収められた知の迷宮。
天井まで届く書架、無数の巻物と記録簿が、分類ごとにきちんと整頓されている。蝋燭の灯が柔らかく棚の影を揺らし、石造りの床に足音を淡く響かせていた。
アウレリアの手には、議会で投影された『ある日の記録』の原本があった。
それは今や、ただの報告書ではない。王国の記憶として、未来へ託すべき“声なき記録”だった。
無人の閲覧室。大理石の机の上に、その冊子をそっと置くと、アウレリアは一ページずつ、まるで祈るように絵を見つめていく。
柵。
灯りのない教室。
消された黒板。
そして、塗り潰された家族。
色鉛筆の線は幼く、不揃いだった。けれど、そこには飾らない“真実”があった。
描かれた絵には、声がなかった。
だが、その沈黙こそが、何より深く訴えていた。
アウレリアは静かに頁を閉じ、それを胸元にそっと抱き寄せる。
まるで忘れられた名前を記憶に刻むかのように。あるいは、幼き日の自分に手を重ねるように。
ふと立ち上がり、背後の書架へと歩を進めた。
彼女の指が選んだのは、一冊の古文書──『古代王政における記録法の研究』。
革張りの表紙には、百年前の王が記した金文字が刻まれていた。
「時に、記録とは剣より鋭く、炎よりも遅く、だが必ず跡を残す」
アウレリアはその一節をそっと指先でなぞり、小さく頷いた。
「ならば私は──刻み続けよう。決して声にせずとも、いつか必ず、誰かの手に届くように」
それは、王としての決意ではなかった。
ひとりの記録者として、国家という歴史の編纂者としての誓いだった。
書庫を出る頃には、空はすでに星の海となっていた。
灯りの少ない廊下を通り抜けるその背に、威光も剣もなかった。
だが、彼女の足取りこそが、王国という書物の“次の一章”を刻むペン先だった。



