『隣で、生きていく。』 こちらはマンガシナリオになります。 「第9回noicomiマンガシナリオ大賞」にエントリーしています。

柱:放課後・音楽室/夕暮れ前


ト書き:
放課後の校舎に、風が通り抜ける。

窓の隙間から入るオレンジ色の光が、音楽室の床に伸びていた。

古びたグランドピアノがひとつ。

今はもう、使われなくなった備品だ。

美海はそのピアノの前に座り、静かに鍵盤に触れる。

音は、濁った。

低い音が少しだけ狂っている。


セリフ(美海・小さく)
「……音、ずれてる」


ト書き:
それでも、弾く。

昔、玲央と一緒に過ごした時間を思い出すように。

小学生の頃、玲央は無口だけど、美海がピアノを弾くのをよく聞いていた。


セリフ(美海・独り言のように)
「玲央、あの頃、私のピアノが好きって言ってたのに……」


ト書き:
そのとき、音楽室のドアが静かに開いた。

足音もなく現れたのは――玲央。


セリフ(玲央)
「勝手に入るな、そこ……立入禁止だぞ」

セリフ(美海・驚いて)
「……玲央!? いつからいたの?」


ト書き:
玲央は窓際に立ち、腕を組んで外を見ていた。

少し乱れた髪。

制服の襟を緩めたまま、無表情に空を見上げている。


セリフ(玲央)
「……少し前から。音が聞こえた」

セリフ(美海)
「変な音だったでしょ。鍵盤、壊れてるの」

セリフ(玲央・無表情のまま)
「……いや。悪くなかった」


ト書き:
一瞬、目が合う。

玲央の視線はいつもより柔らかく、けれどどこか寂しげ。

美海は少し笑って、立ち上がった。


セリフ(美海)
「玲央、あの頃はよくここで聞いてたよね」

セリフ(玲央)
「……覚えてる」

セリフ(美海)
「いつも黙って、窓際で座ってて。私、玲央が寝ちゃったかと思ってた」

セリフ(玲央・目を伏せて)
「……寝てねぇよ」


ト書き:
少しの沈黙。

美海は、昔から変わらない玲央の不器用さに、
少し胸が温かくなるのを感じていた。

だが、次の瞬間。

玲央の手が、ピアノの端に触れた。

その手には、小さな傷跡がいくつもある。


セリフ(美海・そっと見つめて)
「その傷……また喧嘩?」

セリフ(玲央・淡々と)
「別に」

セリフ(美海・真剣に)
「玲央、もうやめなよ。そんなことしても、誰も――」


ト書き:
そのとき、玲央が美海の言葉を遮るように、
小さく口を開いた。


セリフ(玲央)
「“誰も守れない”とか言うんだろ」

セリフ(美海)
「……」

セリフ(玲央)
「でもな、美海。
 ――俺は、守りたい奴がいるから殴ってる」


ト書き:
その声は静かで、
だけど、どこか痛いほどの熱がこもっていた。

美海は息を飲む。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


セリフ(美海・絞り出すように)
「……それ、私のこと?」


ト書き:
玲央の瞳が一瞬、揺れた。

けれど、答えはなかった。

ただ、視線を逸らすように窓の外を見つめる。


セリフ(玲央)
「……気にすんな」

セリフ(美海・一歩近づいて)
「気になるよ。
 私、玲央が無茶してるの見たくない。
 それに……誰かを傷つけてまで守られるなんて、違うよ」


ト書き:
玲央の拳が、ぎゅっと握られる。

沈黙。

長い沈黙のあと、
かすかな声が漏れた。


セリフ(玲央)
「……俺は、お前に何もできなかった」

セリフ(美海)
「え?」

セリフ(玲央)
「中学のとき、あいつらにお前のこと言われても……
 言い返せなかった。
 怖くて、何もできなかった。
 だから今、せめて……」


ト書き:
言葉が途切れる。

玲央の声が、かすかに震えていた。

美海はゆっくりと近づき、
壊れたピアノの上にそっと手を置いた。


セリフ(美海)
「玲央。私は、あのときのこと……もう気にしてないよ」

セリフ(玲央)
「でも、俺は――」

セリフ(美海・優しく)
「私が守られたいのは、玲央の“優しさ”であって、“拳”じゃないの」


ト書き:
玲央の瞳が、美海の手元に落ちる。

白く細い指が、鍵盤に触れて震えている。

その指先に、自分の手が重なりそうになる。

けれど、玲央はそっと引いた。


セリフ(玲央・小さく)
「……お前、強ぇな」

セリフ(美海・微笑んで)
「違うよ。玲央が、強いから。
 私も、ちゃんと隣に立ちたいって思えるんだよ」


ト書き:
沈黙が落ちる。

雨上がりの風が窓を揺らし、
二人の髪を優しく撫でた。

その一瞬、
玲央の指が、美海の指先にかすかに触れた。

ほんの一瞬――けれど確かに。


セリフ(玲央)
「……壊れてるの、直してやる」

セリフ(美海・微笑みながら)
「ピアノ?」

セリフ(玲央・小さく頷いて)
「それも。……俺の、壊れたとこも」


ト書き:
玲央の瞳の奥に、
確かな決意が灯っていた。

壊れたピアノが、
二人の距離を少しだけ近づけた夕暮れ。