恋のリハーサルは本番です

撮影が一段落したのは、日が傾き始めた頃だった。

「今日はここまでです」

監督の声に、スタジオの空気がふっと緩む。

スタッフの動きが早くなり、機材を片付ける音が重なる。

あかりは、ノートパソコンを閉じた。

修正のメモは、もう入れていない。

今日の芝居は、言葉を足す必要がなかった。

(……疲れた)

身体より、神経が。

ふと視線を上げると、少し離れたところで蓮がタオルを首にかけているのが見えた。

メイクを落とした顔。

役の名残が、まだ完全には消えていない。

「水無月さん」

呼ばれて、少しだけ肩が跳ねる。

「……はい」

近づいてきた蓮は、舞台のときの距離より、わずかに遠い。

でも、仕事の距離よりは、近かった。

「さっきのシーン」

条件反射で、あかりは答えかける。

「間は、今ので──」

「違います」

蓮は、首を振った。

「仕事の話じゃなくて」

一瞬、言葉を失う。

(え)

沈黙が落ちる。

周囲にはまだ人がいるのに、そこだけ切り取られたような空気。

蓮は、少しだけ視線を外してから言った。

「……疲れました?」

あかりは、拍子抜けして、思わず笑ってしまう。

「それ、今まで聞かれたことなかったです」

「ですよね」

蓮も、困ったように笑う。

「舞台のときも、稽古のときも。
 “大丈夫ですか”は聞いても、“疲れました?”は聞かなかった」

「聞かれなかったですね」

「……聞くの、遅すぎですけど」

その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。

「……疲れてます」

正直に言った。

「でも、嫌な疲れじゃないです」

蓮は、少し考えてから言う。

「それ、俳優側も同じです」

一拍。

「……今日、楽しかったです」

あかりは、息を吸う。

(今の)
(仕事じゃない)

「それ、役としてですか?」

「違います」

即答だった。

「役は……まだ探ってます。
 でも、今日が楽しかったのは──」

言いかけて、止める。

あかりは、続きを待たなかった。

代わりに、静かに言う。

「私もです」

二人の間に、柔らかい沈黙が生まれる。

舞台のときのような、張り詰めた間じゃない。

答えを待たない沈黙。

スタジオの出口の方から、スタッフの声がする。

「桜井さん、車来てます!」

「はい」

蓮は、返事をしてから、あかりを見る。

「……また、明日」

「はい。明日」

一歩、下がる。

でも、去り際に、蓮は小さく付け足した。

「今日は……お疲れさまでした」

それは、主演俳優の言葉じゃない。

あかりは、ほんの少しだけ、笑って答えた。

「……桜井さんも」

蓮が去ったあと、あかりはしばらく、その場を動けなかった。

(今のは)
(仕事じゃない)

でも、恋とも、まだ呼べない。

それでも確かに、
“同じ現場に立つ人”から、
“同じ時間を生きる人”に、
一歩だけ、変わった気がした。

夕方の光が、スタジオの床に長く伸びていた。

次に話すとき、
もう戻れないことを、
二人とも、まだ知らない。