恋のリハーサルは本番です

朝のスタジオは、まだ完全には目を覚ましていなかった。

白い霧のような光が、天井の照明から落ちている。

ケーブルの転がる床。

モニターの低い駆動音。

スタッフたちの抑えた声。

映画の現場は、舞台よりも静かだった。

その静けさが、逆に緊張を増幅させる。

水無月あかりは、脚本を胸に抱えて立っていた。

ページの端は、もう何度もめくられて、少し柔らかくなっている。

(……始まる)

舞台と違って、書き手は前に出ない。

照明も、拍手も、ここでは無関係だ。

それでも、この空間の中心にあるのは──確実に、言葉だった。

「脚本家さん」

呼ばれて振り向くと、監督が軽く手を挙げている。

「最初のシーン、変更なしでいきます。
 役者の呼吸、優先させたいので」

「……はい」

短く答えながら、あかりは思う。

(まただ)

舞台の本番と同じ。

“書けなかった余白”が、試される。

視線の先。

セットの中に、桜井蓮が立っていた。

衣装は、シンプルだった。

舞台衣装のような誇張はない。

日常に溶け込む分だけ、逃げ場がない。

彼はまだ、カメラの前に立っていない。

目を閉じ、深く呼吸している。

(……俳優だ)

あかりは、改めて思う。

舞台の上で、感情を制御不能にした男。

待たない、と決めた男。

そして今──
スクリーンにすべてを晒す覚悟をした男。

「主演、スタンバイお願いします」

助監督の声。

蓮が、目を開く。

一瞬、あかりと視線が合った。

言葉はない。

でも、その一瞬で、二人は同じことを理解する。

(これは)
(もう、逃げられない)

カメラが回る。

「──本番」

その声は、舞台の「開演」よりも低く、淡々としていた。

最初の台詞。

舞台で何度も聞いた言葉。

あかりが、書いた言葉。

なのに。

(……違う)

声の質が違う。

間の取り方が違う。

観客に投げるための言葉ではなく、
“カメラ一台”に向けて、感情を削ぎ落とした声。

蓮は、演じているというより──
生きていた。

ヒロインの名前を呼ぶ、その一拍。

舞台では、客席の呼吸を待っていた間。

今は、レンズの奥にいる“誰か一人”に向けて、溜めている。

あかりの喉が、無意識に鳴る。

(……書いたのは、私)
(でも、ここまで連れてきたのは)

彼自身だ。

「カット」

監督の声。

一瞬の静寂。

そして、スタッフの動きが一斉に戻る。

「OKです」

短い一言。

それだけで、空気が変わった。

蓮は、カメラから離れ、少し息を整える。

その横顔は、舞台終演後のそれとは違う。

達成感より、集中。

昂揚(こうよう)より、覚悟。

あかりは、気づいてしまう。

(……この人)
(もう、“主演俳優”として、別の場所に立ってる)

それが誇らしくて。

少しだけ、怖かった。

蓮が、こちらを見る。

歩み寄ってきて、低い声で言った。

「……どうでした?」

脚本家としての問い。

同時に、一人の男としての確認。

あかりは、迷わず答えた。

「逃げてない」

それだけで、十分だった。

蓮は、小さく笑う。

「じゃあ、続けます」

去っていく背中を見送りながら、あかりは脚本を抱き直す。

ここは、舞台じゃない。

でも──

(本番だ)

書いた言葉は、もう彼の中で生きている。

そしてこの映画は、
二人が“同じ覚悟”で立つ、最初の日だった。

カメラが、再び回る。

静かに。

確かに。