恋のリハーサルは本番です

舞台が終わって、三ヶ月が過ぎた。



水無月あかりは、昼間でも薄暗い編集室で、パソコンの画面を見つめていた。



原稿データの最終稿。タイトルの下に、小さく入った自分の名前が、まだ現実感を伴わない。



──映画化決定。



制作会社から届いたメールは、何度読み返しても文字の並びが変わらない。



けれど胸の奥では、何かが静かに震えていた。



舞台用に書いた脚本だった。



限られた空間、限られた時間、役者の息遣いを前提に組み立てた物語。



それが、スクリーンという「外の世界」へ出ていく。



「……本当に、行っちゃうんだ」



誰に向けた言葉でもなく、あかりは呟いた。



その日の夕方、制作会社の会議室で顔合わせが行われた。



監督、プロデューサー、キャスティング担当。



そして最後に、紹介された名前を、あかりは一瞬理解できなかった。



「主人公役は──桜井蓮さんで進めたいと考えています」



息が止まる。



視線を上げると、部屋の向こう側で、蓮が少しだけ困ったように笑っていた。



舞台の楽屋で見た横顔とも、幕の外で見た背中とも違う、けれど確かに同じ人。



「……僕も、まだ実感はないんですけど」



蓮の声は、舞台の上よりも低く、落ち着いていた。



「でも、この脚本を読んだとき、逃げちゃいけない気がしました」



あかりの胸に、翔の顔が一瞬よぎる。



“振り返らない”と決めて、先に外へ出た人。



その背中が残した揺れが、今も二人の間に、確かに息づいていた。



打ち合わせが終わり、エレベーター前で二人きりになる。



沈黙は、気まずさではなかった。



言葉を探している時間だった。



「……おめでとう」



蓮が、先に言った。



「脚本。映画になるなんて、すごい」



「ありがとう。でも……」



あかりは一度言葉を切り、正直に続けた。



「主役が蓮だって聞いた瞬間、怖くなった」

蓮は驚いたように目を瞬かせる。



「私、この物語で、誰かの人生を動かしてしまうんじゃないかって。

 舞台のときみたいに、また、気付かせてしまうんじゃないかって」



蓮は少し考えてから、静かに首を振った。



「違うと思う」



そして、まっすぐに言った。



「気付いたのは、俺たち自身だよ。

 翔が揺らしたのは、きっかけでしかない」



あかりの胸の奥で、何かがほどける。



「映画は、舞台の続きじゃない」



蓮は続ける。



「でも──俺は、この物語の“外”に出る覚悟で演じたい。

 あかりが書いた世界を、閉じたままにしないために」



エレベーターの扉が開く。



その前で、あかりは小さく笑った。



「じゃあ、私も」



一歩踏み出す。



「書き手として、逃げない」



二人は並んでエレベーターに乗り込む。



行き先ボタンは、同じ階を示していた。



幕の外へ出た物語は、もう戻らない。



けれど今度は、誰も一人じゃない。



スクリーンの向こう側で、二人の時間が、静かに動き始めていた。