恋のリハーサルは本番です

外に出ると、夜気が思ったより冷たかった。

劇場の裏口は、拍手も花束も届かない場所だ。

アスファルトに落ちた街灯の光が、妙に現実的で、翔は一度だけ深く息を吸う。

タクシーを拾うほどの距離じゃない。

歩く。

それでいい。

スマートフォンが、ポケットの中で震えた。

画面を見る前から、誰かはわかっている。

──蓮。

一瞬、迷ってから、翔は通話を取った。

「……今、出た」
『だろうな』

蓮の声は、舞台の上よりも低く、静かだった。

余計な感情が削ぎ落とされている。

『悪かった、とは言わない』
「言われても困る」
『だよな』

短い沈黙。

遠くで、車の走る音。

『……行くんだろ』
「うん」
『いつ』
「もうすぐ」

それ以上、具体的なことは聞かれなかった。

聞かない、という選択をしたのだとわかる。

『あの芝居』
蓮が言いかけて、少し間を置く。
『……助けられた』

翔は、歩きながら空を見上げる。

雲の切れ間に、月。

「俺もだ」
『……そうか』

それで終わりだった。

別れの言葉も、成功を祈る言葉もない。

通話が切れる。

翔はスマートフォンをしまい、足を止める。

劇場の建物は、もう見えない。

(これでいい)

誰かの人生の続きを、背負って飛ぶわけじゃない。

誰かから奪って、行くわけでもない。

ただ、自分が選んだ場所へ行く。

空港へ向かう電車のホーム。

電光掲示板に、英語の行き先が並ぶ。

「最終確認のお客様は──」

アナウンスが流れる。

聞き慣れないはずの言葉が、不思議と遠くない。

翔はバッグを持ち替え、改札を抜けた。

振り返らない。

舞台も、楽屋も、拍手も。

あの夜に残したものは、
すべて、あの場所で完結している。

これから先にあるのは、
まだ名前のついていない役と、
書かれていない台詞だけだ。

翔は歩き出す。

照明の白い光の下へ。

──幕は、もう一度、別の場所で上がる。