恋のリハーサルは本番です

楽屋の扉を閉めた瞬間、
音が、すべて消えた。

外ではまだ、拍手の名残が波のように廊下を流れている。

誰かの笑い声、スタッフの足音、
「すごかったね」という高揚した声。

でも、この部屋には届かない。

水無月あかりは、背中で扉を押さえたまま、
しばらく動けずにいた。

(……終わった)

そう思った途端、
足元から力が抜ける。

椅子に腰を下ろすでもなく、
床に座り込むほど崩れる勇気もなく、
ただ、立ったまま。

楽屋の机の上には、
使われなかった台本がある。

角が、きれいなまま。

何度も直そうとして、
何度もペンを置いた、あの一行。

(……書けなかった)

悔しさ、とは少し違う。

や恐怖でも、逃げでもない。

もっと静かで、
もっと重いもの。

──自分が、物語を“決めきれなかった”という事実。

「……本番で、決めたんだね」

誰に言うでもなく、
あかりは小さく呟いた。

蓮が。

そして、翔も。

自分が預けた「選択」を、
役者たちが、勝手に──いや、
覚悟を持って引き受けた。

机に手をつく。

指先が、微かに震えている。

(脚本家なのに)
(私は、最後まで……)

ノックの音。

控えめで、でも迷いのない二回。

心臓が、跳ねる。

「……はい」

声が、少し掠れた。

扉が開く。

立っていたのは、蓮だった。

衣装のまま。

まだ役の余韻を身体に残したままの顔。

でも、目だけは、
もう“舞台の人間”じゃない。

二人の間に、沈黙が落ちる。

先に口を開いたのは、あかりだった。

「……言わなくて、いいから」

自分でも驚くほど、静かな声だった。

「今日は」

「……今日は、もう」

蓮は、一歩、楽屋に入る。

扉を閉めない。

逃げ道を、残したまま。

「言わないと、終わらない」

その声に、
あかりの喉が、きゅっと締まる。

「……私」

あかりは、視線を落とした。

台本を見る。

そして、蓮を見ないまま、言う。

「あなたが、あの間を選ぶって、分かってた」

「……分かってたのに」

指が、台本の端を掴む。

「書かなかった」

「決めなかった」

「逃げた」

一拍。

蓮は、否定しなかった。

代わりに、短く息を吐く。

「違う」

あかりが、顔を上げる。

蓮は、真っ直ぐ見ていた。

「預けたんだ」

「……俺たちに」

その言葉が、胸に刺さる。

痛いのに、
不思議と、救いもあった。

「俺は」

蓮は、一度だけ、視線を逸らす。

そして、戻す。

「待たなかった」

あかりの心臓が、強く鳴る。

「舞台の上で」

「初めて、役じゃなくて……」

言葉を探す一瞬。

「人間として、選んだ」

沈黙。

あかりは、深く息を吸った。

そして、初めて、ちゃんと蓮を見る。

「……怖くなかった?」

「怖かったよ」

即答だった。

「でも」

少しだけ、笑う。

「書いてないなら、選べると思った」

その笑顔に、
涙が、にじむ。

「……ずるい」

「ああ」

「役者って、ずるい」

「脚本家も、な」

二人の間に、

ようやく、温度が戻る。

完全な答えは、まだない。

でも。

(これでいい)


あかりは、そう思った。

この先を、
また“書く”ために。

「……次」

あかりが言う。

「次を書くときは」
「ちゃんと、逃げない」

蓮は、頷いた。

「そのときは」

「俺も、待たない」

楽屋の外で、
誰かが名前を呼んでいる。

現実が、戻ってくる音。

蓮は、一歩下がる。

「行く?」

「……うん」

でも、扉を開ける前に、

あかりは、もう一度だけ言った。

「……ありがとう」

蓮は、振り返らないまま答える。

「本番、だったからな」

扉が閉まる。

一人になった楽屋で、
あかりは、台本を手に取る。

もう、白紙じゃない。

書けなかった答えは、
確かに、そこにあった。

──本番でしか、生まれない形で。