恋のリハーサルは本番です

拍手は、壁一枚向こうに追いやられていた。
楽屋へ続く細い通路。

蛍光灯の白い光。

汗とメイクと、少し冷えた空気。

蓮は、壁にもたれていた。

ネクタイを緩めるでもなく、ただ立っている。

足音。

翔だと分かるのに、振り返らない。

「……やりきった顔してるな」

翔の声は、軽い。

でも、その軽さは、いつもより薄い。

「そう見える?」

「見えるよ」

翔は隣に立つ。

肩が、ほんの少しだけ触れそうな距離。

「今日のあれ」

翔は、前を向いたまま言う。

「台本、越えたな」

蓮は、即答しない。

数秒。

拍手が、さらに遠くなる。

「……越えた」

低い声。

「越えるつもりだった?」

「違う」

蓮は、ゆっくり首を振る。

「待たないって、決めただけだ」

その言葉に、翔は小さく息を吐いた。

「はは」

乾いた笑い。

「それ、同じだろ」

蓮は、翔を見る。

初めて、真正面から。

「お前なら、どうした?」

翔は、少しだけ考えるふりをしてから言う。

「俺なら?」

一拍。

「最初から、待たせない」

蓮は、目を伏せる。

「……だろうな」

「遅いって言っただろ」

翔の声は、責めていない。

でも、甘くもない。

「でも」

翔は、視線を逸らし、壁の向こうの拍手を聞く。

「遅い男が、本番で越えたのは」

一拍。

「……悪くない芝居だった」

蓮は、わずかに口角を上げる。

「それ、役者として?」

「人間として」
翔は、そう言い切る。

沈黙。

二人の間に、競争心と、奇妙な敬意が同時に漂う。

「なあ、蓮」
翔が言う。

「次は?」

蓮は、迷わない。

「俺が行く」

翔は、少しだけ笑った。

「……そう来なくちゃな」

肩を叩くでもなく、

握手もない。

ただ、背を向ける前に一言。

「譲らないからな」

蓮は、短く返す。

「知ってる」

翔が歩き出す。

足音が、遠ざかる。

蓮は、一人になった通路で、深く息を吸った。

(もう)
(戻らない)

拍手は、完全に聞こえなくなっていた。

その代わりに、
次の「本番」が、はっきりと見えていた。