開演五分前。
客席のざわめきが、薄い幕を通して伝わってくる。
笑い声、咳払い、プログラムをめくる音。
生きている音。
舞台袖で、水無月あかりは立っていた。
台本は、もう手に持っていない。
(直してない)
昨夜、あの一行には触れなかった。
選択を、役者に預けたまま。
心臓の奥が、じん、と痛む。
「脚本家さん」
隣で、亜理沙が無邪気に声をかける。
「今日、なんか……空気、違いません?」
「……そう?」
「うん。
怖いけど、わくわくします」
その言葉に、救われる。
(大丈夫)
(役者は、もう立ってる)
舞台上。
暗転。
一筋の光。
最初の台詞が、発せられる。
──ここまでは、通しと同じ。
テンポ。
間。
感情の流れ。
すべて、想定内。
(……順調)
あかりが、そう思った瞬間だった。
例のシーン。
ヒロインが、目を伏せる沈黙。
稽古では、二拍。
でも。
本番の蓮は、動かなかった。
三拍。
四拍。
(……長い)
客席が、静まり返る。
息を呑む気配が、はっきりわかる。
(蓮……?)
あかりの指先が、冷たくなる。
──そして。
蓮は、台本にない呼吸をした。
ほんのわずか、肩が揺れる。
それは、演技ではなかった。
決断前の、人間の癖。
(……あ)
翔が、それを見逃さなかった。
彼は、稽古で決めていた立ち位置から、
半歩だけ踏み出す。
(待って、翔)
その動きは、段取りにない。
でも、止められない。
二人の距離が、変わる。
その一瞬で、空気が──変質する。
(これ……)
あかりは、理解してしまった。
(通しじゃない)
(本番だ)
蓮が、台詞を言う。
──同じ言葉。
なのに。
意味が違う。
声が、揺れている。
翔は、被せない。
間を奪わない。
代わりに、視線で返す。
(やめて)
(それ以上は)
祈りに近い感情が、胸に溢れる。
でも、舞台は進む。
亜理沙の役が、二人の間に入る。
台詞は、完璧。
でも、彼女も気づいている。
(……何か、おかしい)
一瞬、客席を見る。
その目が、観客ではなく「空気」を読んでいる。
(亜理沙まで……)
あかりは、唇を噛んだ。
(これは)
(私の書いた芝居じゃない)
でも。
(私が、書けなかった芝居だ)
ヒロインが、最後の問いを口にする。
例の一行。
「私は──」
息が止まる。
客席も、舞台も、
全員がその続きを待っている。
あかりは、気づく。
(ああ)
(もう、戻れない)
この瞬間から先は、
本番でしか存在しない芝居だ。
選ぶのは、
書き手じゃない。
役者だ。
そして──
それを、観客が目撃する。
照明が、ゆっくり変わる。
物語は、
誰にも決められていない方向へ、踏み出した。
客席のざわめきが、薄い幕を通して伝わってくる。
笑い声、咳払い、プログラムをめくる音。
生きている音。
舞台袖で、水無月あかりは立っていた。
台本は、もう手に持っていない。
(直してない)
昨夜、あの一行には触れなかった。
選択を、役者に預けたまま。
心臓の奥が、じん、と痛む。
「脚本家さん」
隣で、亜理沙が無邪気に声をかける。
「今日、なんか……空気、違いません?」
「……そう?」
「うん。
怖いけど、わくわくします」
その言葉に、救われる。
(大丈夫)
(役者は、もう立ってる)
舞台上。
暗転。
一筋の光。
最初の台詞が、発せられる。
──ここまでは、通しと同じ。
テンポ。
間。
感情の流れ。
すべて、想定内。
(……順調)
あかりが、そう思った瞬間だった。
例のシーン。
ヒロインが、目を伏せる沈黙。
稽古では、二拍。
でも。
本番の蓮は、動かなかった。
三拍。
四拍。
(……長い)
客席が、静まり返る。
息を呑む気配が、はっきりわかる。
(蓮……?)
あかりの指先が、冷たくなる。
──そして。
蓮は、台本にない呼吸をした。
ほんのわずか、肩が揺れる。
それは、演技ではなかった。
決断前の、人間の癖。
(……あ)
翔が、それを見逃さなかった。
彼は、稽古で決めていた立ち位置から、
半歩だけ踏み出す。
(待って、翔)
その動きは、段取りにない。
でも、止められない。
二人の距離が、変わる。
その一瞬で、空気が──変質する。
(これ……)
あかりは、理解してしまった。
(通しじゃない)
(本番だ)
蓮が、台詞を言う。
──同じ言葉。
なのに。
意味が違う。
声が、揺れている。
翔は、被せない。
間を奪わない。
代わりに、視線で返す。
(やめて)
(それ以上は)
祈りに近い感情が、胸に溢れる。
でも、舞台は進む。
亜理沙の役が、二人の間に入る。
台詞は、完璧。
でも、彼女も気づいている。
(……何か、おかしい)
一瞬、客席を見る。
その目が、観客ではなく「空気」を読んでいる。
(亜理沙まで……)
あかりは、唇を噛んだ。
(これは)
(私の書いた芝居じゃない)
でも。
(私が、書けなかった芝居だ)
ヒロインが、最後の問いを口にする。
例の一行。
「私は──」
息が止まる。
客席も、舞台も、
全員がその続きを待っている。
あかりは、気づく。
(ああ)
(もう、戻れない)
この瞬間から先は、
本番でしか存在しない芝居だ。
選ぶのは、
書き手じゃない。
役者だ。
そして──
それを、観客が目撃する。
照明が、ゆっくり変わる。
物語は、
誰にも決められていない方向へ、踏み出した。



