本番前日の夜。
稽古場の照明はすでに落ち、
非常灯だけが床を淡く照らしていた。
水無月あかりは、舞台袖の長机に座ったまま、
ノートパソコンの画面を見つめている。
最後の修正。
それだけのはずだった。
台本は、ほぼ完成している。
演出も、役者も、呼吸も、すべて噛み合っている。
──なのに。
(……ここ)
ヒロインが、選択を口にする一行。
「私は──」
そこから先が、書けない。
消しては打ち、
打っては消して。
文章は、整っている。
理屈も通っている。
(なのに)
指が、動かなくなる。
あかりは、深く息を吐いた。
(書いたら、決まってしまう)
誰を選ぶか。
誰を、待つのか。
誰の手を、取らないのか。
脚本としては、答えを出さなければならない。
でも──
(それを、私が決めていいの?)
脳裏に浮かぶのは、三人の姿。
舞台上で、一歩踏み出した蓮。
譲らない視線を向ける翔。
何も知らずに、真っ直ぐ立つ亜理沙。
(私は、神様じゃない)
書いた瞬間、
その感情は「物語」になってしまう。
誰かの覚悟も、迷いも、
全部、台詞に閉じ込めてしまう。
「……ひどい」
あかりは、画面を閉じた。
膝の上に落ちる、重たい沈黙。
(逃げてる)
わかっている。
脚本家として、一番やってはいけないことだ。
それでも──
(今は、直せない)
その時。
背後で、足音がした。
振り返ると、佐藤が立っていた。
「まだ残ってたのか」
「あ……」
「あかり」
いつになく、名前を呼ぶ。
「直せない?」
図星だった。
あかりは、少しだけ肩を落とす。
「……書いたら、嘘になる気がして」
佐藤は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言う。
「じゃあさ」
一拍。
「決めない脚本、書けばいい」
あかりは、顔を上げた。
「……え?」
「選ばせない、じゃなくて」
佐藤は舞台を見つめながら続ける。
「役者に、選ばせる」
その言葉が、胸に落ちる。
(役者に……)
「感情が制御不能になるって、
悪いことじゃない」
佐藤は、静かに笑った。
「明日は本番だ。
正解は、舞台の上で出る」
あかりの目が、潤む。
「……それって」
「怖いか?」
正直な問いだった。
あかりは、少し考えて、うなずいた。
「……はい」
「だろ」
佐藤は背を向ける。
「でもな」
去り際に、振り返って言った。
「それが、今作の一番いい終わり方だ」
足音が遠ざかる。
あかりは、再びノートパソコンを開く。
カーソルの点滅。
──消さない。
一行も、直さない。
(明日)
(舞台の上で)
(彼らが、答えを出す)
あかりは、初めて台本から目を離した。
脚本家として、
一人の女性として。
同時に、手放す夜だった。



