小町通りの裏にある古書店の中は、ふるびた紙のにおいに満ちているが、比較的綺麗だった。四方を本ばかりに囲まれている光景は雫原の書斎と似ていて、心落ち着いた。
言葉より先に足を踏み入れ、彼女が後からついてきてくれたというのに、雫原はひとりで勝手に本棚の本を物色し始めていた。それにいくらか時間が過ぎたころに気づき、背後の言葉に謝ろうとしたが、振り返ると、眼の前に言葉の顔があった。これは、と思う。どうやら言葉は、雫原の背中をじっとみつめていたようだ。黒い泉のような目を瞠り、頬を朱に染めると顔をそむけてしまう。
雫原は少しはにかむ。
「すみません。本屋に入るといつもこうなんです。周りが見えなくなってしまう。私もしばらく自由にしているから、あなたも自由に本を見ていてください」
言葉の桃の頬に、それだけを告げ、まぶたを伏せてはにかむと、ふたたび手元にひらいていた本の中へと視線を落とす。
文字を追い、紙をめくる乾いた音を重ねていると、背後でしずかな物音がして、紙が動くひとしい乾いた音がした。
言葉も、雫原と同じように本を読み始めたらしい。
それに心満たされてゆく。
言葉をかわさずとも、ふたりは同じ空間で、同じことをしていた。
雫原は満足げな笑みを浮かべると、ふたたび本の世界へ没頭していった。
時間が溶けていたように感じる。いつの間にか紺はさらに深くなって、硝子戸からこちらへ、街灯のあかりが強く差し込み、淡い照明ばかりがともった古本屋の、本や雫原たちの陰影を際立たせていた。
まどろみからうつつへと意識を戻す。水が流れるしずかな音が聞こえる。ついで、どこかの店のシャッターが閉まる音も。
雫原は、本の世界に溶けていた輪郭が、徐々に戻っていった。
面白い本だった。描写のうつくしさや、登場人物の魅力に惹かれ、時間を忘れてのめり込んだ経験は、新しい本との出逢いではここ数年なかった。いつも気に入った小説や学術本ばかり読み返してしまっており、新しい本から刺激を受けることは少なかった。あっと驚く展開は少なかったが、人間関係から生じる愛憎劇が、丁寧に描かれており、道ならぬ恋に悩む主人公の心情が、血に流れてくるようで、胸をしめつけられた。
しずかに作業をしていた老いた店主の男の存在にやっと気が付き、買ってもいないのに長時間本を立ち読みしてしまっていたことに罪悪感を覚える。
レジに行き、本を購入して再度自宅でゆっくり読もう、と思った刹那、言葉の存在を思い出し、背後を振り返る。さすがに先に帰ってしまっているだろうかと思っていたが、彼女もしっかりそこにいて、本のページを閉じて、両手に乗せた本の表紙を見下ろし、じっくりと魔法陣のような繊細な模様を確認している。
近寄って背を屈める。
言葉は、日本人形のようにまばたきひとつしていない。凛と上向いたまつげは、蝋で作ったように、ひくりとも動かない。つやめく瞳も、硝子玉のように傷ひとつ浮かべずに、しんとしずかな夜のいろをして、本の表紙をうつしているばかりである。
「言葉さん」
雫原は無意識に口を動かして、声をかけていた。
言葉は、かすかに落としていた首をすっとあげ、数秒固まったようにまっすぐに前だけを無表情で見ていた。それからゆっくりと首だけを雫原のほうへ向けた。まるで、人形が螺子を巻かれ動いたようだった。硝子玉のように、しんと全体に等しいなめらかさをみせていた瞳が、徐々に水に濡れて生を取り戻してゆく。
そして白かった肌がさらにしろくなったかと思えば、首すじから額へと、血が逆流するように襟から出ている肌が、真っ赤に染まった。
「あ」
雫原は、軽く目を瞠り、おろしていた片手をあげて、くちもとにゆびさきを重ねる。
やっと気付いた。さきほど、言葉のことを初めて下の名前で呼んでしまっていたことに。
「すみません。馴れ馴れしかったですね。無意識でした。気にしないでください」
手をくちもとから下ろし、何気なさを装い、この雰囲気を変えようと、話題を探した。平静を装ってはいたが、本当は雫原も、内心焦っていた。体が熱くなっている。
言葉が手にとっていた本に視線をうつす。
「こちらの本、どんな本だったのですか」
「……他愛もない、恋愛小説です」
「なるほど。少し中を見せてもらっても?」
「はい。……どうぞ」
警戒させてしまったか。いきなり下の名前で呼ぶんだものな。せっかく良い関係を築けそうになっていた矢先に、雫原は、これで関係は終わったなと、つめたい風をこめかみに感じながら、言葉が両手で捧げるようにこちらへと上げてくれている本を、両手で受け取る。
硬い表紙をひらき、本扉を見やり、目を瞠った。
「これ……、私が読んでいた本と一緒じゃないか」
「え」
「ほら、ごらんなさい」
唖然として目をまるくする言葉に、雫原は片腕とからだのあいだに挟んでいた本を取り、言葉の胸のあたりにそっと差し出す。
「あら、ほんとうだわ」
間の抜けた声。ほんとうに驚いているらしい。
表紙と裏表紙は違う素材で、描かれている模様も違うものだったが、よくよく見やればタイトルは一緒だった。言葉の本のほうが、ちいさな文字で描かれていたので、最初に手に取ったときに、恥ずかしながら気付かなかった。一日働いて、夕方外を歩いていたので、疲労もあって見落としていたらしい。
雫原は、そのまま奥付をひらく。
「多分、発行した年が違うんじゃないでしょうか。ほら、出版社も変わっている」
指で示しながら言葉に説明すると、言葉は納得したように、ちいさくこくりと頷いた。
「どうやら私達は、同じ本を読んでいたようですね」
言葉は顔をあげて雫原を見やった。本を読んでいたときは、しんと冷えていて真剣だったひとみの膜が、かすかに溶けて、潤んでいる。
「そのようですね……」
気のせいか、うつむいた彼女のくちびるの端が、にわかにあがっているようだった。段を入れて顔を覆う髪のはざまから覗く頬も、桜色に染まっている。
雫原はそれを見て、なにやら心臓のひだの部分がむずがゆくなった。
「こちらの本、気に入りましたか?」
「え? ええ、とても……」
雫原はにこりとわらった。
「そうですか」
そのまま、くるりと踵を返す。
雫原は、言葉から受け取った本と、自身が読んでいた本を腕に挟んだまま、レジへ向かった。
そして店主に声をかけると、襟に手を入れ、雪花絞りの、深い青の道中財布を取り出す。紐を解くと、中から札を取り、金を払った。
「え、ちょっと」
言葉の驚く声と、こちらへ駆け寄ろうとする気配を感じた。桜がくゆる薫りだった。季節外れだが、なつかしい。
雫原は、そばの薫りを感じながら、お釣りを受け取ると、それを財布にしまい、店主に軽い礼をすると、ふたたび襟ポケット中へ財布を戻す。
振り返り、言葉が唖然としているのを見て、にこりとわらう。
「用心深いんでね。財布は、襟の中へ入れているんですよ。いつ、誰に会うかわからないからね」
「そこじゃなくて……」
言葉は、肩を落とすと雫原に金を返そうとバッグのファスナーを開けて、財布を取り出そうとしようとする。
それを見咎めて、雫原は彼女のそばへ歩み寄ると、手首にふれるかふれないかという距離で、手の甲にてのひらを重ねる。
言葉は、はっと目を瞠り、固まった。重ねられた雫原の手の甲を凝視している。
雫原は、手を離した。
「すみません。急に。お金はいいですよ。君は学生で、私は職業作家ですし」
「でも……、さっきもカフェでココアを奢ってもらったばかりですし……」
「お気になさらず」
雫原はやわらかく笑むと、言葉から離した右手を、顔の少し下でひらひらと左右に振った。
「おとなですから」
「私もおとなです」
むっとした顔で、言葉が返す。
「では私は……、男ですから」
言葉は、糸がほどけたように、はっとした。体の周りをただよっていた黒髪がふわりと浮きあがる。
雫原は購入した本が入った茶色い紙袋から、自身の本を抜き取り、襟の中へ入れると、残った袋ごと片手で言葉に渡した。何も言わなかった。
言葉は、黙ったまま袋を受け取った。取っ手を持たず、両手のひらに底を乗せた形で。
かるく顔をうつむけて、驚いて固まったまま、開いた袋を凝視している。
雫原はそれを真顔でみつめながら、うなじをゆびさきでかるく掻くと、まぶたを伏せ、左下を少しばかり見やった。
驚かせて、変な空気を作ってしまったか。だが、何も後悔はない。自分があげたかったから、あげたものだ。
夜風が吹く。やけにつめたく頬を撫でた。
ふたたび言葉に視線を移す。
「駅まで送ります。せっかくですから、この本の感想など語りながら、歩きましょうか」
言葉は紙袋からゆっくりと顔をあげて、こちらを見やった。まっすぐなまなざし。周囲の夜よりも暗い、夜色のひとみの中に、ぎこちなく笑んだ雫原が映っている。その残像が一瞬ざわりと溶けてまどろみ、あたたかな海のように落ち着いた。
「はい」
言葉は、歩いて、雫原との距離を詰めた。ひとひとり分。
真横に並ぶと、身長差がよりはっきりとする。雫原の肩のあたりで、街灯のあかりを被った言葉がいる。まるい頭の中心にある、ちいさな右回りの白いつむじ。そこからこの黒く清い水のような髪は生まれているのか、としみじみ考えにふけりながら、雫原は言葉の追いつく速度で、ゆっくりと鎌倉駅までの道を歩きだした。外は未だ冷え、両の羽織の袖に、手を交差して入れながら。
澄んだ空気は、なお澄んでいる。透明な夜に視界はくっきりとしており、街灯のこぼれるあかりの輪郭すらも浮きあがっている。
途中まで無言だったが、言葉が口をひらいた。
「さきほどの本……」
「はい」
雫原が答える。
「購入していただいた、さきほどの本ですが、とてもおもしろかったです」
「没頭していましたものね。私もそうです。どのあたりが、おもしろいと感じましたか?」
「……描写のうつくしさもそうですが、登場人物の心情、人間関係の駆け引きがよかったですね。そして最後の__」
「クライマックスの春のシーンですよね。わかります。私はあそこが一番すきでした」
「そうです! 私もです。とても綺麗で、せつなかったわ……」
うっとりするように話している。恥ずかしがっていたのだろうが、最初、しずかだった言葉は、徐々に饒舌になっていった。
雫原もそれに応える形で、ことばを返したり、頷いたり、共感を示す。
言葉は本当に、本がすきな女の子なのだと感じる。古書店で真剣に本を読む様子。蝋のように固まっていたのは、本に吸い込まれていたからなのだ。
雫原にも、十代のころはもっと感覚が鋭敏で、毎日水を飲むように本ばかり読んでいた日々があった。今は自分の仕事の癒やしに、他人の書いた本を、酒を飲むように嗜んでいる。あとは、作品の資料として。仕事が軸になってしまった今とは、本との向き合い方が変わってしまった。さっきの読書は、久々に自我を忘れていた。自分の輪郭さえも、本の中に溶けてしまっていた。そういう感覚は、自分の本を書いているとき以外では、もう訪れないとからだが認識していたであろうに。
自分も、蝋のように固まって、本に吸い込まれていたのだろうか。さきの言葉のように。あのころは。
つめたい秋の終わりの夜に、春の小川のように流れる口調で語る言葉の、桜色に染まった頬をみつめながら、これまでと、これからの読書生活を想った。
きらきらとかがやく言葉をみつめながら、うすく微笑み、袖から右手を出し、おもむろに胸に置いてみる。
ゆびさきから、驚くほどの熱が伝わってくる。発熱しているわけではない。これは__。
言葉と話していると、ふだん他のひとに向けるような、作り笑いのへらへらとした笑顔ではなく、胸の内側から湧きあがるように、自然な笑みが浮かんでくる。自覚した。
雫原は、言葉に恋をしている。いつの間にか、落ちていた。いや、本当は、あのサイン会で初めて出逢ったときから、もう落ちていたのかもしれない。こんな感覚は、はじめてだった。年甲斐もなく、少年のような淡さからはじまっていた。
鼻から息をみじかく吐く。
「我ながら、恥ずかしい限りだ」
つぶやいた言葉に、え、と振り返る言葉がいた。
街灯のあかりを黒いひとみや白い頬、鼻すじに鈍く反射して、夜のひかりを取り込んだ彼女は、蒼い雪が内側から発光しているようにまばゆかった。気のせいか、古書店にいたときよりも、艶が増している。上向いた濃い花のようなまつげの先が、透明に染まっている。
ぱちりと瞬いたひとみに、なんでもないです、とうそぶいた。口笛を吹くような調子で。ふたたび胸に置いた手を、そっと袖の中に隠す。彼女にばれないような速度で。
鎌倉駅まで到着した。
雫原と言葉は、次の電車の発車時刻を時刻表や案内表示板から確認する。すでに時刻は23時を回っており、あとひとつ乗り逃せば、帰れない状況になっていた。
「古書店で、時間を使いすぎましたね……」
雫原は、とほほという態で、長いうなじに手をやる。
「でもよかった。まだ終電は乗り逃していない。今から乗れば、帰れますよ」
今日はありがとう。こ゚縁あれば、またいつか。
そう言おうと、背後の言葉を振り返る。
言葉の白い眉間に、縦じわが三本うまれている。雫原から視線をそらし、青い顔で、右斜め下の血をみつめて。ひとみは乾き、ただ深まり続ける夜をうつすばかりだ。さきほどまでうす紅に染まっていた頬が、いやに白くなっていた。
「浅桜さん……?」
言うか言うまいか、悩んでいるようなそぶりで、顔を覆う黒髪を耳にかけると、言葉はまぶたを半分伏せて、うつむいた。
「すみません、足を痛めてしまって……」
あきらめたようにつぶやいた。
言葉の足に、視線を落とす。
鶴の首のような真白く細い足首の下で、履いたパンプスから覗くくるぶしが、内側から滲むように赤くなっている。腫れているのだ。
「ほんとうだ。ちょっと待っててください」
雫原は襟の中や、羽織の中を探り、眉を寄せた。
「ああ、だめだ。無い……。手当ての品を持ち歩いているんだったなぁ」
困ったように笑い、少しでも言葉が感じている痛みを、場の空気でやわらげようとする。
「私、このまま帰ります」
言葉は雫原から視線をそらし、虚空をみつめたまま、踵を返そうとする。だが、足首がかくりと曲がり、きゃん、とひと声鳴くと、よろめいて傾いた。
「危ない……!」
眼の前で、夜よりも暗い黒髪がさっと左に流れる。
雫原は、咄嗟に体を前方へ動かし、言葉の背中を抱きしめた。
やわらかく細い両肩を両手に捕らえ、うすい背中は、胸板をベッドにして包まれる。
言葉のからだは、雪のような真白い肌に似合わずあたたかで、冴えた熱が雫原のほうまでしんと染み渡ってくる。
「せんせい……、もう……」
雫原は、どうやら時が止まったように、ずっと言葉のからだを抱きとめていたらしい。
彼女の苦しげな声でやっと気がつくと、目を瞠り、腕の圧力を解いた。
けほけほと、言葉がかるい咳をし、ぼんやりしていた頭がくっきりとしてくる。
「ああ! すみませんっ」
背をかすかに曲げ、片手でくちもとを抑えたまま言葉がこちらを見やってくる。
瞳はうるみ、頬は濃い桜色に染まっている。まつげのはざままでも濡らして。
雫原が呆然としたまま言葉を見守り続けていると、さらに頬は濃く染まり、こちらから瞳をそらしてしまう。
それほどまでに強い力をこめて抱きしめてしまっていたのか__。無意識だったとはいえ、罪悪感が沸きあがる。暗い羞恥が喉から首へ押し寄せる。
「うわぁ~……。ごめんなさい……」
首を落とし、右手首を額に強く押し付ける。かけていた眼鏡がずれたが、罪悪感のほうが勝り、気にならなかった。
「そんな! お気になさらないでください。むしろ、ありがとうございました。あのままでは倒れてしまうところでしたので……」
透明な空気をやわらかく染めるような穏やかな桜のにおいが、近づいてきた。
額を押し付ける力を弱め、手首と眼鏡のはざまから、言葉を見下ろす。
額に降りていた前髪が、動いた事によっておきた風で、紗が開けるように横に流れて、白い富士額があらわになっている。端が灰色にけぶる、ほどよく太い眉を寄せた表情は、真に心配そうだ。
だが、動いたことでまたよろめいてしまい、雫原の横、ひとひとり分開けた距離でくらりと前へ倒れそうになってしまう。
雫原は手首から額を離し、顔をあげてそのまま眼鏡にゆびを添え、左腕を地から並行に伸ばし、倒れゆく言葉を受け止めた。腕にうすい言葉の腹があたり、くの字に曲がったのを感じてからこちらへ寄せる。
またしても、咄嗟の行動だった。
見下ろすと言葉の顔がある。長いまつげが、雫原の頬にすぐに当たりそうな距離にあった。彼女の黒硝子の瞳に、雫原の顔が映っている。もっと目を瞠っているのかと思った。もっと驚いて、口も開いているのかと。
今の自分は、凪いでいた。ひとみはしずかで、くちびるも、うすくひらいたまま。ただかすかに潤んだまなざしで、言葉をみつめている。
言葉も、さきほどよりも瞳の張りは落ち着いて、ただ背後の月と雫原をうつしながら、ゆらめくばかり。
煌々とかがやく月あかりはふたりを照らし、輪郭を闇の一部へと変えていた。
彼女との鼻と鼻のあいだに、つめたい風が流れてくる。
「……私の家に、手当の道具がある。そこまで一緒に行きましょう」
有無を言わせぬ声音だった。
言葉は声を出さずに、口の形で「はい」とささやく。
終電がもう行ってしまったのかもわからぬまま、確認しようともしないままふたりは雫原の家へと向かった。
言葉より先に足を踏み入れ、彼女が後からついてきてくれたというのに、雫原はひとりで勝手に本棚の本を物色し始めていた。それにいくらか時間が過ぎたころに気づき、背後の言葉に謝ろうとしたが、振り返ると、眼の前に言葉の顔があった。これは、と思う。どうやら言葉は、雫原の背中をじっとみつめていたようだ。黒い泉のような目を瞠り、頬を朱に染めると顔をそむけてしまう。
雫原は少しはにかむ。
「すみません。本屋に入るといつもこうなんです。周りが見えなくなってしまう。私もしばらく自由にしているから、あなたも自由に本を見ていてください」
言葉の桃の頬に、それだけを告げ、まぶたを伏せてはにかむと、ふたたび手元にひらいていた本の中へと視線を落とす。
文字を追い、紙をめくる乾いた音を重ねていると、背後でしずかな物音がして、紙が動くひとしい乾いた音がした。
言葉も、雫原と同じように本を読み始めたらしい。
それに心満たされてゆく。
言葉をかわさずとも、ふたりは同じ空間で、同じことをしていた。
雫原は満足げな笑みを浮かべると、ふたたび本の世界へ没頭していった。
時間が溶けていたように感じる。いつの間にか紺はさらに深くなって、硝子戸からこちらへ、街灯のあかりが強く差し込み、淡い照明ばかりがともった古本屋の、本や雫原たちの陰影を際立たせていた。
まどろみからうつつへと意識を戻す。水が流れるしずかな音が聞こえる。ついで、どこかの店のシャッターが閉まる音も。
雫原は、本の世界に溶けていた輪郭が、徐々に戻っていった。
面白い本だった。描写のうつくしさや、登場人物の魅力に惹かれ、時間を忘れてのめり込んだ経験は、新しい本との出逢いではここ数年なかった。いつも気に入った小説や学術本ばかり読み返してしまっており、新しい本から刺激を受けることは少なかった。あっと驚く展開は少なかったが、人間関係から生じる愛憎劇が、丁寧に描かれており、道ならぬ恋に悩む主人公の心情が、血に流れてくるようで、胸をしめつけられた。
しずかに作業をしていた老いた店主の男の存在にやっと気が付き、買ってもいないのに長時間本を立ち読みしてしまっていたことに罪悪感を覚える。
レジに行き、本を購入して再度自宅でゆっくり読もう、と思った刹那、言葉の存在を思い出し、背後を振り返る。さすがに先に帰ってしまっているだろうかと思っていたが、彼女もしっかりそこにいて、本のページを閉じて、両手に乗せた本の表紙を見下ろし、じっくりと魔法陣のような繊細な模様を確認している。
近寄って背を屈める。
言葉は、日本人形のようにまばたきひとつしていない。凛と上向いたまつげは、蝋で作ったように、ひくりとも動かない。つやめく瞳も、硝子玉のように傷ひとつ浮かべずに、しんとしずかな夜のいろをして、本の表紙をうつしているばかりである。
「言葉さん」
雫原は無意識に口を動かして、声をかけていた。
言葉は、かすかに落としていた首をすっとあげ、数秒固まったようにまっすぐに前だけを無表情で見ていた。それからゆっくりと首だけを雫原のほうへ向けた。まるで、人形が螺子を巻かれ動いたようだった。硝子玉のように、しんと全体に等しいなめらかさをみせていた瞳が、徐々に水に濡れて生を取り戻してゆく。
そして白かった肌がさらにしろくなったかと思えば、首すじから額へと、血が逆流するように襟から出ている肌が、真っ赤に染まった。
「あ」
雫原は、軽く目を瞠り、おろしていた片手をあげて、くちもとにゆびさきを重ねる。
やっと気付いた。さきほど、言葉のことを初めて下の名前で呼んでしまっていたことに。
「すみません。馴れ馴れしかったですね。無意識でした。気にしないでください」
手をくちもとから下ろし、何気なさを装い、この雰囲気を変えようと、話題を探した。平静を装ってはいたが、本当は雫原も、内心焦っていた。体が熱くなっている。
言葉が手にとっていた本に視線をうつす。
「こちらの本、どんな本だったのですか」
「……他愛もない、恋愛小説です」
「なるほど。少し中を見せてもらっても?」
「はい。……どうぞ」
警戒させてしまったか。いきなり下の名前で呼ぶんだものな。せっかく良い関係を築けそうになっていた矢先に、雫原は、これで関係は終わったなと、つめたい風をこめかみに感じながら、言葉が両手で捧げるようにこちらへと上げてくれている本を、両手で受け取る。
硬い表紙をひらき、本扉を見やり、目を瞠った。
「これ……、私が読んでいた本と一緒じゃないか」
「え」
「ほら、ごらんなさい」
唖然として目をまるくする言葉に、雫原は片腕とからだのあいだに挟んでいた本を取り、言葉の胸のあたりにそっと差し出す。
「あら、ほんとうだわ」
間の抜けた声。ほんとうに驚いているらしい。
表紙と裏表紙は違う素材で、描かれている模様も違うものだったが、よくよく見やればタイトルは一緒だった。言葉の本のほうが、ちいさな文字で描かれていたので、最初に手に取ったときに、恥ずかしながら気付かなかった。一日働いて、夕方外を歩いていたので、疲労もあって見落としていたらしい。
雫原は、そのまま奥付をひらく。
「多分、発行した年が違うんじゃないでしょうか。ほら、出版社も変わっている」
指で示しながら言葉に説明すると、言葉は納得したように、ちいさくこくりと頷いた。
「どうやら私達は、同じ本を読んでいたようですね」
言葉は顔をあげて雫原を見やった。本を読んでいたときは、しんと冷えていて真剣だったひとみの膜が、かすかに溶けて、潤んでいる。
「そのようですね……」
気のせいか、うつむいた彼女のくちびるの端が、にわかにあがっているようだった。段を入れて顔を覆う髪のはざまから覗く頬も、桜色に染まっている。
雫原はそれを見て、なにやら心臓のひだの部分がむずがゆくなった。
「こちらの本、気に入りましたか?」
「え? ええ、とても……」
雫原はにこりとわらった。
「そうですか」
そのまま、くるりと踵を返す。
雫原は、言葉から受け取った本と、自身が読んでいた本を腕に挟んだまま、レジへ向かった。
そして店主に声をかけると、襟に手を入れ、雪花絞りの、深い青の道中財布を取り出す。紐を解くと、中から札を取り、金を払った。
「え、ちょっと」
言葉の驚く声と、こちらへ駆け寄ろうとする気配を感じた。桜がくゆる薫りだった。季節外れだが、なつかしい。
雫原は、そばの薫りを感じながら、お釣りを受け取ると、それを財布にしまい、店主に軽い礼をすると、ふたたび襟ポケット中へ財布を戻す。
振り返り、言葉が唖然としているのを見て、にこりとわらう。
「用心深いんでね。財布は、襟の中へ入れているんですよ。いつ、誰に会うかわからないからね」
「そこじゃなくて……」
言葉は、肩を落とすと雫原に金を返そうとバッグのファスナーを開けて、財布を取り出そうとしようとする。
それを見咎めて、雫原は彼女のそばへ歩み寄ると、手首にふれるかふれないかという距離で、手の甲にてのひらを重ねる。
言葉は、はっと目を瞠り、固まった。重ねられた雫原の手の甲を凝視している。
雫原は、手を離した。
「すみません。急に。お金はいいですよ。君は学生で、私は職業作家ですし」
「でも……、さっきもカフェでココアを奢ってもらったばかりですし……」
「お気になさらず」
雫原はやわらかく笑むと、言葉から離した右手を、顔の少し下でひらひらと左右に振った。
「おとなですから」
「私もおとなです」
むっとした顔で、言葉が返す。
「では私は……、男ですから」
言葉は、糸がほどけたように、はっとした。体の周りをただよっていた黒髪がふわりと浮きあがる。
雫原は購入した本が入った茶色い紙袋から、自身の本を抜き取り、襟の中へ入れると、残った袋ごと片手で言葉に渡した。何も言わなかった。
言葉は、黙ったまま袋を受け取った。取っ手を持たず、両手のひらに底を乗せた形で。
かるく顔をうつむけて、驚いて固まったまま、開いた袋を凝視している。
雫原はそれを真顔でみつめながら、うなじをゆびさきでかるく掻くと、まぶたを伏せ、左下を少しばかり見やった。
驚かせて、変な空気を作ってしまったか。だが、何も後悔はない。自分があげたかったから、あげたものだ。
夜風が吹く。やけにつめたく頬を撫でた。
ふたたび言葉に視線を移す。
「駅まで送ります。せっかくですから、この本の感想など語りながら、歩きましょうか」
言葉は紙袋からゆっくりと顔をあげて、こちらを見やった。まっすぐなまなざし。周囲の夜よりも暗い、夜色のひとみの中に、ぎこちなく笑んだ雫原が映っている。その残像が一瞬ざわりと溶けてまどろみ、あたたかな海のように落ち着いた。
「はい」
言葉は、歩いて、雫原との距離を詰めた。ひとひとり分。
真横に並ぶと、身長差がよりはっきりとする。雫原の肩のあたりで、街灯のあかりを被った言葉がいる。まるい頭の中心にある、ちいさな右回りの白いつむじ。そこからこの黒く清い水のような髪は生まれているのか、としみじみ考えにふけりながら、雫原は言葉の追いつく速度で、ゆっくりと鎌倉駅までの道を歩きだした。外は未だ冷え、両の羽織の袖に、手を交差して入れながら。
澄んだ空気は、なお澄んでいる。透明な夜に視界はくっきりとしており、街灯のこぼれるあかりの輪郭すらも浮きあがっている。
途中まで無言だったが、言葉が口をひらいた。
「さきほどの本……」
「はい」
雫原が答える。
「購入していただいた、さきほどの本ですが、とてもおもしろかったです」
「没頭していましたものね。私もそうです。どのあたりが、おもしろいと感じましたか?」
「……描写のうつくしさもそうですが、登場人物の心情、人間関係の駆け引きがよかったですね。そして最後の__」
「クライマックスの春のシーンですよね。わかります。私はあそこが一番すきでした」
「そうです! 私もです。とても綺麗で、せつなかったわ……」
うっとりするように話している。恥ずかしがっていたのだろうが、最初、しずかだった言葉は、徐々に饒舌になっていった。
雫原もそれに応える形で、ことばを返したり、頷いたり、共感を示す。
言葉は本当に、本がすきな女の子なのだと感じる。古書店で真剣に本を読む様子。蝋のように固まっていたのは、本に吸い込まれていたからなのだ。
雫原にも、十代のころはもっと感覚が鋭敏で、毎日水を飲むように本ばかり読んでいた日々があった。今は自分の仕事の癒やしに、他人の書いた本を、酒を飲むように嗜んでいる。あとは、作品の資料として。仕事が軸になってしまった今とは、本との向き合い方が変わってしまった。さっきの読書は、久々に自我を忘れていた。自分の輪郭さえも、本の中に溶けてしまっていた。そういう感覚は、自分の本を書いているとき以外では、もう訪れないとからだが認識していたであろうに。
自分も、蝋のように固まって、本に吸い込まれていたのだろうか。さきの言葉のように。あのころは。
つめたい秋の終わりの夜に、春の小川のように流れる口調で語る言葉の、桜色に染まった頬をみつめながら、これまでと、これからの読書生活を想った。
きらきらとかがやく言葉をみつめながら、うすく微笑み、袖から右手を出し、おもむろに胸に置いてみる。
ゆびさきから、驚くほどの熱が伝わってくる。発熱しているわけではない。これは__。
言葉と話していると、ふだん他のひとに向けるような、作り笑いのへらへらとした笑顔ではなく、胸の内側から湧きあがるように、自然な笑みが浮かんでくる。自覚した。
雫原は、言葉に恋をしている。いつの間にか、落ちていた。いや、本当は、あのサイン会で初めて出逢ったときから、もう落ちていたのかもしれない。こんな感覚は、はじめてだった。年甲斐もなく、少年のような淡さからはじまっていた。
鼻から息をみじかく吐く。
「我ながら、恥ずかしい限りだ」
つぶやいた言葉に、え、と振り返る言葉がいた。
街灯のあかりを黒いひとみや白い頬、鼻すじに鈍く反射して、夜のひかりを取り込んだ彼女は、蒼い雪が内側から発光しているようにまばゆかった。気のせいか、古書店にいたときよりも、艶が増している。上向いた濃い花のようなまつげの先が、透明に染まっている。
ぱちりと瞬いたひとみに、なんでもないです、とうそぶいた。口笛を吹くような調子で。ふたたび胸に置いた手を、そっと袖の中に隠す。彼女にばれないような速度で。
鎌倉駅まで到着した。
雫原と言葉は、次の電車の発車時刻を時刻表や案内表示板から確認する。すでに時刻は23時を回っており、あとひとつ乗り逃せば、帰れない状況になっていた。
「古書店で、時間を使いすぎましたね……」
雫原は、とほほという態で、長いうなじに手をやる。
「でもよかった。まだ終電は乗り逃していない。今から乗れば、帰れますよ」
今日はありがとう。こ゚縁あれば、またいつか。
そう言おうと、背後の言葉を振り返る。
言葉の白い眉間に、縦じわが三本うまれている。雫原から視線をそらし、青い顔で、右斜め下の血をみつめて。ひとみは乾き、ただ深まり続ける夜をうつすばかりだ。さきほどまでうす紅に染まっていた頬が、いやに白くなっていた。
「浅桜さん……?」
言うか言うまいか、悩んでいるようなそぶりで、顔を覆う黒髪を耳にかけると、言葉はまぶたを半分伏せて、うつむいた。
「すみません、足を痛めてしまって……」
あきらめたようにつぶやいた。
言葉の足に、視線を落とす。
鶴の首のような真白く細い足首の下で、履いたパンプスから覗くくるぶしが、内側から滲むように赤くなっている。腫れているのだ。
「ほんとうだ。ちょっと待っててください」
雫原は襟の中や、羽織の中を探り、眉を寄せた。
「ああ、だめだ。無い……。手当ての品を持ち歩いているんだったなぁ」
困ったように笑い、少しでも言葉が感じている痛みを、場の空気でやわらげようとする。
「私、このまま帰ります」
言葉は雫原から視線をそらし、虚空をみつめたまま、踵を返そうとする。だが、足首がかくりと曲がり、きゃん、とひと声鳴くと、よろめいて傾いた。
「危ない……!」
眼の前で、夜よりも暗い黒髪がさっと左に流れる。
雫原は、咄嗟に体を前方へ動かし、言葉の背中を抱きしめた。
やわらかく細い両肩を両手に捕らえ、うすい背中は、胸板をベッドにして包まれる。
言葉のからだは、雪のような真白い肌に似合わずあたたかで、冴えた熱が雫原のほうまでしんと染み渡ってくる。
「せんせい……、もう……」
雫原は、どうやら時が止まったように、ずっと言葉のからだを抱きとめていたらしい。
彼女の苦しげな声でやっと気がつくと、目を瞠り、腕の圧力を解いた。
けほけほと、言葉がかるい咳をし、ぼんやりしていた頭がくっきりとしてくる。
「ああ! すみませんっ」
背をかすかに曲げ、片手でくちもとを抑えたまま言葉がこちらを見やってくる。
瞳はうるみ、頬は濃い桜色に染まっている。まつげのはざままでも濡らして。
雫原が呆然としたまま言葉を見守り続けていると、さらに頬は濃く染まり、こちらから瞳をそらしてしまう。
それほどまでに強い力をこめて抱きしめてしまっていたのか__。無意識だったとはいえ、罪悪感が沸きあがる。暗い羞恥が喉から首へ押し寄せる。
「うわぁ~……。ごめんなさい……」
首を落とし、右手首を額に強く押し付ける。かけていた眼鏡がずれたが、罪悪感のほうが勝り、気にならなかった。
「そんな! お気になさらないでください。むしろ、ありがとうございました。あのままでは倒れてしまうところでしたので……」
透明な空気をやわらかく染めるような穏やかな桜のにおいが、近づいてきた。
額を押し付ける力を弱め、手首と眼鏡のはざまから、言葉を見下ろす。
額に降りていた前髪が、動いた事によっておきた風で、紗が開けるように横に流れて、白い富士額があらわになっている。端が灰色にけぶる、ほどよく太い眉を寄せた表情は、真に心配そうだ。
だが、動いたことでまたよろめいてしまい、雫原の横、ひとひとり分開けた距離でくらりと前へ倒れそうになってしまう。
雫原は手首から額を離し、顔をあげてそのまま眼鏡にゆびを添え、左腕を地から並行に伸ばし、倒れゆく言葉を受け止めた。腕にうすい言葉の腹があたり、くの字に曲がったのを感じてからこちらへ寄せる。
またしても、咄嗟の行動だった。
見下ろすと言葉の顔がある。長いまつげが、雫原の頬にすぐに当たりそうな距離にあった。彼女の黒硝子の瞳に、雫原の顔が映っている。もっと目を瞠っているのかと思った。もっと驚いて、口も開いているのかと。
今の自分は、凪いでいた。ひとみはしずかで、くちびるも、うすくひらいたまま。ただかすかに潤んだまなざしで、言葉をみつめている。
言葉も、さきほどよりも瞳の張りは落ち着いて、ただ背後の月と雫原をうつしながら、ゆらめくばかり。
煌々とかがやく月あかりはふたりを照らし、輪郭を闇の一部へと変えていた。
彼女との鼻と鼻のあいだに、つめたい風が流れてくる。
「……私の家に、手当の道具がある。そこまで一緒に行きましょう」
有無を言わせぬ声音だった。
言葉は声を出さずに、口の形で「はい」とささやく。
終電がもう行ってしまったのかもわからぬまま、確認しようともしないままふたりは雫原の家へと向かった。



