雫原は、言葉を連れて、駅近くのカフェに入った。乱れた呼吸をする彼女を、ひとまず休ませてあげたいという思いやりと、彼女と、もう少しことばを交わしたいという欲求があった。コインの表と裏のように、感情が反転して、くるくるとからだの中央を廻っていた。
店内は、ゆたかな珈琲の香りが、ただよっていた。底に沈むことを誘うような、奥深さがある。そこに、あまい焼き菓子の香りも、ほろほろと混ざっている。主張しすぎず、ほろ苦く、心地よい量のかおりが、広すぎないカフェの中をたゆたっている。
呆然とうつむいている言葉の腕をそっと引いて、雫原は窓際のふたりがけの席へと座った。向かい合った言葉は、未だこちらを見ようとしなかった。細い前髪が、夕暮れのひかりにうす紫の線をえがいて、くっきりと雪を欺くような白い顔から浮かびあがっていた。長いまつげにも、影は落ちている。感情を消した表情は、日本人形のようだった。うすくひらいたくちびるは、マットな桜色で、気を抜くといつまでもみつめてしまいそうになるうつくしさだった。
「浅桜さん。大丈夫ですか」
反応がない。
「浅桜さん……」
もう一度声をかけると、言葉は、はっと上向いた。目の前で水風船を割られたかのような反応だった。ぱちり、と意識が舞い戻ってきたらしい。
「は……、あ、はい」
「大丈夫ですか」
「は……、い。大丈夫です」
「よかった。ご気分は悪くないですか」
「はい……。すみません、先ほどは取り乱してしまって」
「いえ」
話しながら、人形から、ひとへと戻ってゆく。
その様子に安堵した。
私のほうも、あんなに驚かれるとは思いませんでした。と付け加えて言おうとしたが、口の形を「あ」のままにして、止まってしまった。そのまま閉じて、言葉から少し視線を逸らした。
テーブルの上で組んだゆびが、熱かった。雫原のほうも、言葉に再会したことで、知らずにからだが熱を帯びていた。そのことに、動きを落ち着かせたことで、やっと気づいた。言葉のことを気づかいながらも、自分の状態にとまどっていた。こんなことは、はじめてだった。感情をうまくことばに表すことができない。ことばを扱う職業をしているというのに。なぜ? うれしいのか、せつないのか、怖いのか、不安なのか、よろこんでいるのかも、よくわからなかった。ぐるぐると、様々な色を帯びた感情のうずが、血液に混じって心臓を駆け巡り、どくどくと鼓動を鳴らしていた。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか」
横から、しずかな女の声がした。まぶたをひらき、顔をあげる。
カフェの店員だった。黒いスーツ風の制服に、大きめの白のボウタイが目立っている。ポニーテールにした紅茶色の髪が、背後でゆらと揺れていた。
「あ、ああ。すみません。浅桜さん。何を頼まれますか。なんでもいいですよ。奢りますので」
「そんな! 申し訳ないです」
「男性が、女性に奢るのは当然のことですよ。ましてや、大切な読者さんですし。せっかくの機会ですから。奢らせてください」
雫原はやわらかく笑んで、とまどう言葉を安心させようとした。
言葉はどぎまぎとしていたが、やがてくちびるを引き結ぶと肩を落とし、あきらめたように「わかりました」とちいさくうなずいた。
「何を頼まれますか」
雫原は、テーブルの端に立てかけられたメニュー表を手に取り、ひらくと、言葉が文字を読みやすいように彼女側にひらいた。
「……ありがとうございます」
言葉はちいさく感謝を告げると、まっすぐにしていた背を、そのまま斜め45度に倒した。メニュー表に顔と胸が近づき、黒髪が紗幕のように細い肩とちいさなしろい顔を覆った。両手を胸の下でそろえて、テーブルの上にそっと置いている。まばたきもせず、メニュー表をすみずみまで読んでは、ゆっくりと次のページをめくる。
雫原は、その様子があいらしくもおかしくも感じ、くちびるをむずがゆく動かした。片手を頭の後ろに置き、まぶたを伏せて髪をかるく掻いた。
「私は、ベトナムコーヒーのアイスで。浅桜さんは、お決まりになりましたか?」
かるく目を通したときに、ぴんと来て決めた。あまり店でメニューを選ぶのに悩まないほうだった。外は肌寒さもあったが、ベトナムコーヒーはホットよりもアイスで飲みたい派だ。そのほうが、おいしく感じる。季節のつめたさと、飲み物のつめたさは別物だった。
言葉は、声をかけられて、一拍置いて気づいたようだった。はっと顔をあげると、恥ずかしかったのか、くちびるを引き結んで、頬をうすくれないに染めている。
上体を起こし、テーブルに置いていた両手をふとももに置くと、逡巡した後、右手をそっとテーブルの上にあげた。ひとさしゆびをまっすぐに伸ばして、メニュー表の左端をゆびさす。
「ホットココアで……」
かぼそくちいさな声だった。
店員がメモを取り、「かしこまりました」と言って去ってゆく。
しばらく互いに沈黙があったが、雫原が腕を組んでわらった。
「ココアがおすきなんですか?」
「はい……あまいものが、すきで」
「そうか。では、あとでなにかケーキも頼むといい。食べ終わるまで待ちますので」
「いえ……! そこまでしていただくわけには! 申し訳ないです」
「私は鎌倉に住んでいますから、時間にも余裕がありますからね。でも、そうか、あなたは遠くから来ていらっしゃるんですものね。時間によるか……」
「ココアだけいただいたら、私、帰ります」
「わかりました」
店員が銀のトレンチに、ふたつ飲み物を乗せて、雫原たちの席へと戻ってきた。
オフホワイトの陶製のマグカップにホットココアが、硝子の細長いコップに、ベトナムコーヒーが入っていた。
雫原は手で指し示し、店員に言葉の前にココアを置いてもらい、自分の前にベトナムコーヒーを置いてもらった。
手で引き寄せたベトナムコーヒーに、赤いストローをさすと、そこに沈殿していたコンデンスミルクを、黒いコーヒーにかるく混ぜる。数回、ゆるやかに混ぜられたコーヒーは、白いうずを残して、うすい茶色に染まる。
雫原はそのさまを、微笑んでおもしろそうに眺めていた。そしてストローの先を、くちびるでそっと咥えると、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
ひとくち飲むと、満足そうにストローからくちびるを離した。
「あなたもお飲みなさい」
上体を起こして、言葉を見やる。
言葉は、雫原の様子をじっとみつめていたようで、黙ったままだったが、ココアのあまくほろにがい香りが、控えめな湯気とともにただよっているのが、我慢できなくなったようで、マグカップを両手で丁寧に持つと、そっとくちをつけて、こくりと飲んだ。
半分伏せられたまぶたの下に宿る黒い眸は、ココアを飲むごとに、徐々に深いかがやきを増していった。長いまつげが、りんと冴えて咲きほこる。うす紫の飲み物が、彼女のからだの中を巡る血液を、あたためてほぐしてゆく。
「おいしいですか」
「はい……。とても」
「そう。それはよかった」
雫原はまぶたを伏せて、ベトナムコーヒーの入ったグラスにくちをつけた。ストローは、もう使わなかった。コーヒーの液の中をただよう、細長い飾りになる。ひとくち飲むと、ふっと息を吐いた。
コーヒーの水面は、照明のほのかなあかりを反射して、ひらひらと、しろいひかりのつぶを浮かべている。雫原はこれを知っていた。これは、深い森林に囲まれたみずうみの水面が、真昼にひかりを浮かべて、しずかにさざめいているときの色と一緒だった。あのときは確か、小説を書くのに半ば病んでいて、いやしを求めて箱根を旅したときだった気がする。なぜ、ふるびたちいさなカフェのコーヒーに、あのときと同じひかりが浮かんでこぼれているのか。
雫原はコップを手の中でかるく揺らした。そして、さらに深く混ざってゆく黒と白をみつめながら、ほのかに笑んだ。
「なにかを口に入れたときって、自然にたのしめないんですよね。この味を、どう文章で表現しようか、勝手に考えてしまうんだ」
「職業病ですか」
「はは。まあ、そうかもしれませんね」
雫原はコップを傾けて、ひとくちコーヒーを飲んだ。あまったるいミルクが、苦いコーヒーを侵食している。
「病気か」
「嫌なんですか」
「嫌、か。もうそういう感覚すらも忘れてしまったかもしれない。最初は色々な感情があったんだ。できるならば、より多くの読者に読んでもらいたい。そのためならば、この身を滅ぼして、小説に捧げてもいいと、熱くなってしまっていたころもあったな。一瞬だったけど。今はもう、日常になってしまった。文章を紡ぐことは。そこに、感情的になることはない」
いつの間にか真面目な顔でうつむいていたことに気づき、顔をあげると、言葉が神妙な顔でこちらを見ていた。目が水にひそりと濡れ、淡くかがやいている。好奇心を浮かべているのか、せつなさを浮かべているのか。真顔よりも、かすかに感情を浮かべているのか。
雫原は、わざとやわらかく態度を崩した。
「はは、私は何を言っているんだろうな。つまらない、どうでもいい話でしたね」
「いえ……、面白かったです。普段小説家さんのお話なんて、聞ける機会ないですから」
言葉は、先ほど張った水は嘘だったのではないかと思うほど、感情を消した白い顔で、するするとあまいショコラの液を吸う。半分伏せたまぶたには、なんの感情も読み取れなかった。
「ああ……、よかったです。ありがとう」
額にこぼれた波打つ前髪を、ひとさしゆびで掻きあげる。
雫原は、言葉をじっと見た後、まぶたを伏せた。
「このあいだは、サイン会でチョコレートを頂き、ありがとうございました」
「あ、ああ……。いえ」
言葉は、はっとして顔をあげた。手はあげたまま、マグカップを持ったままで。
雫原は、その無防備な女の顔を見て、胸の奥がぞわぞわとする感覚になった。このむず痒く、あまい感覚を、ひとに向けて感じたことはなかったので、自分で驚いていた。血脈の内側を、やわらかな羽でそっと撫でられたかのような。
雫原は、自然に口角をあげた。
おそろしいほど、妖艶な笑顔になる。
「すごく美味しかったです」
言葉は、数秒ときが止まったように固まっていたが、突然耳のさきから紅葉が始まり、まなじりまでも真紅に染まった。内側から炎であてられたのではないかと思うほどの、唐紅に。
「浅桜さん、大丈夫ですか」
雫原は、しずかに尋ねる。かるく小首をかしげて、言葉の赤らんだ顔を覗き込むと、言葉は両手でマグカップを握りしめ、そのままくちもとまで持ち上げると、こくこくとココアを飲んだ。急な良い飲みっぷりである。
言葉が最後の一滴まで飲み干してしまう勢いで、雫原のほうもグラスのコーヒーを飲み終わりそうだった。このまま、カフェでのときが終わってしまう。名残惜しくなり、雫原は咄嗟に会話を切り出した。
囲うように摑んだグラスを見下ろすと、おぼろに霞んだ自分の顔が映っている。
「本当は、あなたに会って、どこか緊張していたんだ」
言葉は、ココアを飲む手を止めた。そっとテーブルの上に下ろすと、大きなまぶたをあげて、こちらを見やった。
「緊張していたんだ。私のほうが。情けないことに」
言葉が勝手に口をついて、するすると流れ出す。言葉に吸われたココアのように。
「なんだか我ながら、歳ひとつ分老いたような、若返ったような変な気分だ」
言い切ってから、急に恥ずかしくなり、ベトナムコーヒーをわりと早い速度で飲んだ。ごくごくとコーヒーを飲んだことは、生まれてはじめてだった。氷がくちびるにふれ、一瞬熱いと感じるほどに冷えたかたまりを受け止めて、そっと舌先で舐めた。照明のひかりを浴びて、真中に太陽の花を集めたように、一瞬しろく爆ぜた。
透明なグラス越しに、乱反射して言葉の顔が映っている。しろい顔がうす紅に染まり、しずかにうつむいたのが見えた。マグカップを握る両手のゆびさきが、顔よりも白くなっていた。強い力をこめていることがわかった。
「先生……、私は」
いくら時間が経っただろう。
糸をつむぐように聞こえた言葉のことばは、繊細に響いた。
雫原は、グラスをテーブルの上にしずかに置いた。表面にかすかに浮いた結露のひとしずくが、たらりとたれてテーブルとグラスの境に、青い影を持った、透明でちいさな水たまりを作る。
「私は今日、先生と」
マグカップを置いた手が、こまやかに震え、やがて止まる。
「お会いできて、本当にうれしかったです」
まっすぐにこちらを向く言葉の顔は、瑞々(みずみず)しく、白い球体が照るようだった。さきほどよりも、明度があがり、彼女の長く黒いまつげの先や、それがほどこすまぶたの細い影、頂点が淡い紅に染まったなめらかな頬に生えた、銀の産毛までも、際立たせている。
言葉は、やわらかな笑みを浮かべながら、青みがかった黒く大きなひとみの縁に、透明ななみだを溜めていた。ふるりとまっすぐな髪がゆれ、かるく首が傾く。ひとしずくのなみだが、頬を流れてゆく。
彼女の肌は、次第に桜色に染まり、ふれれば溶けてしまいそうに熱っている。
雫原は、夢を見ているかのように、呆然としていた。
アイスコーヒーの、うすいガラスの表面に浮かんだちいさな結露が、じわりとゆびの汗と混じって染みてゆく感触だけが感覚を失ったからだの中で感じ取れた。
それから、氷が完全に溶けるまでのあいだ、穏やかに本の話などをした。他愛ない話しだったが、交わすことばのひとつひとつが、あまやかな熱を持って、雫原の耳に染みてくる。それは、桜の花弁がそよ風に千切れて、肌にふれたかふれないかわからぬほどの感触をもたらすのと、似ていた。
言葉は、最初こそ無口で話下手に思えたが、一度心をひらくと、雫原にとっては、とても話しやすかった。雫原が話しやすいテンポで、するすると静かに流れる雪解け水のように、ことばのあいだをくぐって返してくれる。話す者が違えば、話しにくいと思うかもしれないが、雫原にとっては、その彼女の会話のリズムが心地よかった。
女と話していて、今までこんな気持になったのは初めてだった。気持ちが、晴れた真昼の鎌倉の蒼い海のように、穏やかに凪いでいた。
カフェを出ると、さきほどまでたおやかに続いていた会話が何故か途切れ、かすかに胸が痛んだ。
扉を閉めて、背後の言葉を振り返る。
はらりと吹いたつめたい風に吹かれて、片耳のあたりに手をやり、流れる髪を止めようとする言葉は、宵闇の紺を背景に、街灯のしろいあかりに肌を染めている。風に浮いた細い髪が、雪に染められた糸のように、黒い髪のかたまりから真白く浮きあがっている。
かすかにまぶたを伏せて、じっと焦点の定まらないひとみで、何を考えているのか。街灯に逆光となったからだに、瞳だけが鈍いひかりを浮かべている。
髪のすきまからゆびを剥がすと、まっすぐな髪がひとつの水のように降りてくる。ゆるりとおろしたのを合図に、言葉はまっすぐにまぶたをひらいて顔をあげた。
とたん、くしゅんとひとつ、くしゃみをこぼす。
雫原は驚いて目を瞠った。自然にゆびかけていた銀製のドアノブから、手が離れる。
「大丈夫ですか」
言葉は、雫原が気遣っていることに気づいたのか、はっと目を瞠り灰色に染まったからだから、ひとみを鮮やかに煌めかせた。かるく落とした上体を起こそうとする。
「大丈夫れす」
おぼつかない返事をし、またくしゅんとくしゃみをこぼした。膝を曲げ、屈む形で。
「どこか入ろうか……」
雫原は言葉に寄ると、背をかがめ、肩に手をやろうと、腕を伸ばしてぴたりと止めた。着物の襟に手をいれると、中から藍染めのハンカチを取り出し、両手で顔を覆っている言葉の前にそっと出す。
目元を赤らめて、瞳をうるませている言葉は、それを見やると、申し訳ないというようにゆるやかに首を振った。髪が広がり、紗のように舞う。
「いや、いいから」
「いけません。先生の大切なハンカチじゃないですか……。もったいないです。お気持ちだけで。ありがとうございました」
『ました』、と過去形にされてしまった。
雫原は顔をあげると、紺色が広がる辺りを見渡した。
脳裏に、古い本が浮かんできた。
店内は、ゆたかな珈琲の香りが、ただよっていた。底に沈むことを誘うような、奥深さがある。そこに、あまい焼き菓子の香りも、ほろほろと混ざっている。主張しすぎず、ほろ苦く、心地よい量のかおりが、広すぎないカフェの中をたゆたっている。
呆然とうつむいている言葉の腕をそっと引いて、雫原は窓際のふたりがけの席へと座った。向かい合った言葉は、未だこちらを見ようとしなかった。細い前髪が、夕暮れのひかりにうす紫の線をえがいて、くっきりと雪を欺くような白い顔から浮かびあがっていた。長いまつげにも、影は落ちている。感情を消した表情は、日本人形のようだった。うすくひらいたくちびるは、マットな桜色で、気を抜くといつまでもみつめてしまいそうになるうつくしさだった。
「浅桜さん。大丈夫ですか」
反応がない。
「浅桜さん……」
もう一度声をかけると、言葉は、はっと上向いた。目の前で水風船を割られたかのような反応だった。ぱちり、と意識が舞い戻ってきたらしい。
「は……、あ、はい」
「大丈夫ですか」
「は……、い。大丈夫です」
「よかった。ご気分は悪くないですか」
「はい……。すみません、先ほどは取り乱してしまって」
「いえ」
話しながら、人形から、ひとへと戻ってゆく。
その様子に安堵した。
私のほうも、あんなに驚かれるとは思いませんでした。と付け加えて言おうとしたが、口の形を「あ」のままにして、止まってしまった。そのまま閉じて、言葉から少し視線を逸らした。
テーブルの上で組んだゆびが、熱かった。雫原のほうも、言葉に再会したことで、知らずにからだが熱を帯びていた。そのことに、動きを落ち着かせたことで、やっと気づいた。言葉のことを気づかいながらも、自分の状態にとまどっていた。こんなことは、はじめてだった。感情をうまくことばに表すことができない。ことばを扱う職業をしているというのに。なぜ? うれしいのか、せつないのか、怖いのか、不安なのか、よろこんでいるのかも、よくわからなかった。ぐるぐると、様々な色を帯びた感情のうずが、血液に混じって心臓を駆け巡り、どくどくと鼓動を鳴らしていた。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか」
横から、しずかな女の声がした。まぶたをひらき、顔をあげる。
カフェの店員だった。黒いスーツ風の制服に、大きめの白のボウタイが目立っている。ポニーテールにした紅茶色の髪が、背後でゆらと揺れていた。
「あ、ああ。すみません。浅桜さん。何を頼まれますか。なんでもいいですよ。奢りますので」
「そんな! 申し訳ないです」
「男性が、女性に奢るのは当然のことですよ。ましてや、大切な読者さんですし。せっかくの機会ですから。奢らせてください」
雫原はやわらかく笑んで、とまどう言葉を安心させようとした。
言葉はどぎまぎとしていたが、やがてくちびるを引き結ぶと肩を落とし、あきらめたように「わかりました」とちいさくうなずいた。
「何を頼まれますか」
雫原は、テーブルの端に立てかけられたメニュー表を手に取り、ひらくと、言葉が文字を読みやすいように彼女側にひらいた。
「……ありがとうございます」
言葉はちいさく感謝を告げると、まっすぐにしていた背を、そのまま斜め45度に倒した。メニュー表に顔と胸が近づき、黒髪が紗幕のように細い肩とちいさなしろい顔を覆った。両手を胸の下でそろえて、テーブルの上にそっと置いている。まばたきもせず、メニュー表をすみずみまで読んでは、ゆっくりと次のページをめくる。
雫原は、その様子があいらしくもおかしくも感じ、くちびるをむずがゆく動かした。片手を頭の後ろに置き、まぶたを伏せて髪をかるく掻いた。
「私は、ベトナムコーヒーのアイスで。浅桜さんは、お決まりになりましたか?」
かるく目を通したときに、ぴんと来て決めた。あまり店でメニューを選ぶのに悩まないほうだった。外は肌寒さもあったが、ベトナムコーヒーはホットよりもアイスで飲みたい派だ。そのほうが、おいしく感じる。季節のつめたさと、飲み物のつめたさは別物だった。
言葉は、声をかけられて、一拍置いて気づいたようだった。はっと顔をあげると、恥ずかしかったのか、くちびるを引き結んで、頬をうすくれないに染めている。
上体を起こし、テーブルに置いていた両手をふとももに置くと、逡巡した後、右手をそっとテーブルの上にあげた。ひとさしゆびをまっすぐに伸ばして、メニュー表の左端をゆびさす。
「ホットココアで……」
かぼそくちいさな声だった。
店員がメモを取り、「かしこまりました」と言って去ってゆく。
しばらく互いに沈黙があったが、雫原が腕を組んでわらった。
「ココアがおすきなんですか?」
「はい……あまいものが、すきで」
「そうか。では、あとでなにかケーキも頼むといい。食べ終わるまで待ちますので」
「いえ……! そこまでしていただくわけには! 申し訳ないです」
「私は鎌倉に住んでいますから、時間にも余裕がありますからね。でも、そうか、あなたは遠くから来ていらっしゃるんですものね。時間によるか……」
「ココアだけいただいたら、私、帰ります」
「わかりました」
店員が銀のトレンチに、ふたつ飲み物を乗せて、雫原たちの席へと戻ってきた。
オフホワイトの陶製のマグカップにホットココアが、硝子の細長いコップに、ベトナムコーヒーが入っていた。
雫原は手で指し示し、店員に言葉の前にココアを置いてもらい、自分の前にベトナムコーヒーを置いてもらった。
手で引き寄せたベトナムコーヒーに、赤いストローをさすと、そこに沈殿していたコンデンスミルクを、黒いコーヒーにかるく混ぜる。数回、ゆるやかに混ぜられたコーヒーは、白いうずを残して、うすい茶色に染まる。
雫原はそのさまを、微笑んでおもしろそうに眺めていた。そしてストローの先を、くちびるでそっと咥えると、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
ひとくち飲むと、満足そうにストローからくちびるを離した。
「あなたもお飲みなさい」
上体を起こして、言葉を見やる。
言葉は、雫原の様子をじっとみつめていたようで、黙ったままだったが、ココアのあまくほろにがい香りが、控えめな湯気とともにただよっているのが、我慢できなくなったようで、マグカップを両手で丁寧に持つと、そっとくちをつけて、こくりと飲んだ。
半分伏せられたまぶたの下に宿る黒い眸は、ココアを飲むごとに、徐々に深いかがやきを増していった。長いまつげが、りんと冴えて咲きほこる。うす紫の飲み物が、彼女のからだの中を巡る血液を、あたためてほぐしてゆく。
「おいしいですか」
「はい……。とても」
「そう。それはよかった」
雫原はまぶたを伏せて、ベトナムコーヒーの入ったグラスにくちをつけた。ストローは、もう使わなかった。コーヒーの液の中をただよう、細長い飾りになる。ひとくち飲むと、ふっと息を吐いた。
コーヒーの水面は、照明のほのかなあかりを反射して、ひらひらと、しろいひかりのつぶを浮かべている。雫原はこれを知っていた。これは、深い森林に囲まれたみずうみの水面が、真昼にひかりを浮かべて、しずかにさざめいているときの色と一緒だった。あのときは確か、小説を書くのに半ば病んでいて、いやしを求めて箱根を旅したときだった気がする。なぜ、ふるびたちいさなカフェのコーヒーに、あのときと同じひかりが浮かんでこぼれているのか。
雫原はコップを手の中でかるく揺らした。そして、さらに深く混ざってゆく黒と白をみつめながら、ほのかに笑んだ。
「なにかを口に入れたときって、自然にたのしめないんですよね。この味を、どう文章で表現しようか、勝手に考えてしまうんだ」
「職業病ですか」
「はは。まあ、そうかもしれませんね」
雫原はコップを傾けて、ひとくちコーヒーを飲んだ。あまったるいミルクが、苦いコーヒーを侵食している。
「病気か」
「嫌なんですか」
「嫌、か。もうそういう感覚すらも忘れてしまったかもしれない。最初は色々な感情があったんだ。できるならば、より多くの読者に読んでもらいたい。そのためならば、この身を滅ぼして、小説に捧げてもいいと、熱くなってしまっていたころもあったな。一瞬だったけど。今はもう、日常になってしまった。文章を紡ぐことは。そこに、感情的になることはない」
いつの間にか真面目な顔でうつむいていたことに気づき、顔をあげると、言葉が神妙な顔でこちらを見ていた。目が水にひそりと濡れ、淡くかがやいている。好奇心を浮かべているのか、せつなさを浮かべているのか。真顔よりも、かすかに感情を浮かべているのか。
雫原は、わざとやわらかく態度を崩した。
「はは、私は何を言っているんだろうな。つまらない、どうでもいい話でしたね」
「いえ……、面白かったです。普段小説家さんのお話なんて、聞ける機会ないですから」
言葉は、先ほど張った水は嘘だったのではないかと思うほど、感情を消した白い顔で、するするとあまいショコラの液を吸う。半分伏せたまぶたには、なんの感情も読み取れなかった。
「ああ……、よかったです。ありがとう」
額にこぼれた波打つ前髪を、ひとさしゆびで掻きあげる。
雫原は、言葉をじっと見た後、まぶたを伏せた。
「このあいだは、サイン会でチョコレートを頂き、ありがとうございました」
「あ、ああ……。いえ」
言葉は、はっとして顔をあげた。手はあげたまま、マグカップを持ったままで。
雫原は、その無防備な女の顔を見て、胸の奥がぞわぞわとする感覚になった。このむず痒く、あまい感覚を、ひとに向けて感じたことはなかったので、自分で驚いていた。血脈の内側を、やわらかな羽でそっと撫でられたかのような。
雫原は、自然に口角をあげた。
おそろしいほど、妖艶な笑顔になる。
「すごく美味しかったです」
言葉は、数秒ときが止まったように固まっていたが、突然耳のさきから紅葉が始まり、まなじりまでも真紅に染まった。内側から炎であてられたのではないかと思うほどの、唐紅に。
「浅桜さん、大丈夫ですか」
雫原は、しずかに尋ねる。かるく小首をかしげて、言葉の赤らんだ顔を覗き込むと、言葉は両手でマグカップを握りしめ、そのままくちもとまで持ち上げると、こくこくとココアを飲んだ。急な良い飲みっぷりである。
言葉が最後の一滴まで飲み干してしまう勢いで、雫原のほうもグラスのコーヒーを飲み終わりそうだった。このまま、カフェでのときが終わってしまう。名残惜しくなり、雫原は咄嗟に会話を切り出した。
囲うように摑んだグラスを見下ろすと、おぼろに霞んだ自分の顔が映っている。
「本当は、あなたに会って、どこか緊張していたんだ」
言葉は、ココアを飲む手を止めた。そっとテーブルの上に下ろすと、大きなまぶたをあげて、こちらを見やった。
「緊張していたんだ。私のほうが。情けないことに」
言葉が勝手に口をついて、するすると流れ出す。言葉に吸われたココアのように。
「なんだか我ながら、歳ひとつ分老いたような、若返ったような変な気分だ」
言い切ってから、急に恥ずかしくなり、ベトナムコーヒーをわりと早い速度で飲んだ。ごくごくとコーヒーを飲んだことは、生まれてはじめてだった。氷がくちびるにふれ、一瞬熱いと感じるほどに冷えたかたまりを受け止めて、そっと舌先で舐めた。照明のひかりを浴びて、真中に太陽の花を集めたように、一瞬しろく爆ぜた。
透明なグラス越しに、乱反射して言葉の顔が映っている。しろい顔がうす紅に染まり、しずかにうつむいたのが見えた。マグカップを握る両手のゆびさきが、顔よりも白くなっていた。強い力をこめていることがわかった。
「先生……、私は」
いくら時間が経っただろう。
糸をつむぐように聞こえた言葉のことばは、繊細に響いた。
雫原は、グラスをテーブルの上にしずかに置いた。表面にかすかに浮いた結露のひとしずくが、たらりとたれてテーブルとグラスの境に、青い影を持った、透明でちいさな水たまりを作る。
「私は今日、先生と」
マグカップを置いた手が、こまやかに震え、やがて止まる。
「お会いできて、本当にうれしかったです」
まっすぐにこちらを向く言葉の顔は、瑞々(みずみず)しく、白い球体が照るようだった。さきほどよりも、明度があがり、彼女の長く黒いまつげの先や、それがほどこすまぶたの細い影、頂点が淡い紅に染まったなめらかな頬に生えた、銀の産毛までも、際立たせている。
言葉は、やわらかな笑みを浮かべながら、青みがかった黒く大きなひとみの縁に、透明ななみだを溜めていた。ふるりとまっすぐな髪がゆれ、かるく首が傾く。ひとしずくのなみだが、頬を流れてゆく。
彼女の肌は、次第に桜色に染まり、ふれれば溶けてしまいそうに熱っている。
雫原は、夢を見ているかのように、呆然としていた。
アイスコーヒーの、うすいガラスの表面に浮かんだちいさな結露が、じわりとゆびの汗と混じって染みてゆく感触だけが感覚を失ったからだの中で感じ取れた。
それから、氷が完全に溶けるまでのあいだ、穏やかに本の話などをした。他愛ない話しだったが、交わすことばのひとつひとつが、あまやかな熱を持って、雫原の耳に染みてくる。それは、桜の花弁がそよ風に千切れて、肌にふれたかふれないかわからぬほどの感触をもたらすのと、似ていた。
言葉は、最初こそ無口で話下手に思えたが、一度心をひらくと、雫原にとっては、とても話しやすかった。雫原が話しやすいテンポで、するすると静かに流れる雪解け水のように、ことばのあいだをくぐって返してくれる。話す者が違えば、話しにくいと思うかもしれないが、雫原にとっては、その彼女の会話のリズムが心地よかった。
女と話していて、今までこんな気持になったのは初めてだった。気持ちが、晴れた真昼の鎌倉の蒼い海のように、穏やかに凪いでいた。
カフェを出ると、さきほどまでたおやかに続いていた会話が何故か途切れ、かすかに胸が痛んだ。
扉を閉めて、背後の言葉を振り返る。
はらりと吹いたつめたい風に吹かれて、片耳のあたりに手をやり、流れる髪を止めようとする言葉は、宵闇の紺を背景に、街灯のしろいあかりに肌を染めている。風に浮いた細い髪が、雪に染められた糸のように、黒い髪のかたまりから真白く浮きあがっている。
かすかにまぶたを伏せて、じっと焦点の定まらないひとみで、何を考えているのか。街灯に逆光となったからだに、瞳だけが鈍いひかりを浮かべている。
髪のすきまからゆびを剥がすと、まっすぐな髪がひとつの水のように降りてくる。ゆるりとおろしたのを合図に、言葉はまっすぐにまぶたをひらいて顔をあげた。
とたん、くしゅんとひとつ、くしゃみをこぼす。
雫原は驚いて目を瞠った。自然にゆびかけていた銀製のドアノブから、手が離れる。
「大丈夫ですか」
言葉は、雫原が気遣っていることに気づいたのか、はっと目を瞠り灰色に染まったからだから、ひとみを鮮やかに煌めかせた。かるく落とした上体を起こそうとする。
「大丈夫れす」
おぼつかない返事をし、またくしゅんとくしゃみをこぼした。膝を曲げ、屈む形で。
「どこか入ろうか……」
雫原は言葉に寄ると、背をかがめ、肩に手をやろうと、腕を伸ばしてぴたりと止めた。着物の襟に手をいれると、中から藍染めのハンカチを取り出し、両手で顔を覆っている言葉の前にそっと出す。
目元を赤らめて、瞳をうるませている言葉は、それを見やると、申し訳ないというようにゆるやかに首を振った。髪が広がり、紗のように舞う。
「いや、いいから」
「いけません。先生の大切なハンカチじゃないですか……。もったいないです。お気持ちだけで。ありがとうございました」
『ました』、と過去形にされてしまった。
雫原は顔をあげると、紺色が広がる辺りを見渡した。
脳裏に、古い本が浮かんできた。



