十一月の鎌倉は、ことさら空気が澄んでいた。雲ひとつ浮かばない、紺碧(こんぺき)の空。平筆で、水彩の青を、薄くうすく重ねていったようだ。目白の学園は森に囲まれているので、それほど濁ってはいないが、それでもやはり、一段層の高いあざやかな空気だと感じる。少し前に改装された、武家文化が残る鎌倉にふさわしく、華美(かび)な装飾のされていない、吹き抜け空間が象徴的な、落ち着いた基調色の鎌倉駅が、さらに、侘びた風情の街の雰囲気を増して、良くしていた。駅の吹き抜け空間を出ると、右手に小町通り、左にちいさな店並みと住宅街が、両手をひろげるように続いている。
その背後に広がる山並みは、紅葉(こうよう)の見頃も落ち着き、葉のふちから枯れて茶色に染まりつつあった。
言葉は、被っていたかさの広い白い帽子が飛んでゆかぬよう、しっかとその天を右手で押さえ、(かかと)をあげて辺りを見渡していた。帽子に付いた黒い大きなリボンの、なめらかな感触がした。山梨から関東へ越してきて、鎌倉に足を運んだのは、はじめてのことだった。今住んでいる、東京からは微妙に遠い。今日は新宿で、JR湘南新宿ライン快速の逗子行に乗れて、乗り継ぎするよりも早く到着できたが。それでもあまりこちらのほうには普段来ない。神奈川に来たのは、詩子に誘われて、去年の秋に横浜で、ホテルニューグランドのプリン・ア・ラ・モードを食べたのが最後だった。 
結わずに流したままにしている、まっすぐな長い黒髪が、はらりとそよ風に吹かれて細い線を描いて、水をふくんだ澄んだ空気の中をただよって、踊った。真昼のひかりを浴びて、白い光沢を浮かべながら。今日はAラインの、ロイヤルブルーのスクープドネックのワンピースに、シルバーのパンプスを履いていた。プラチナの、シンプルなチェーンのロングネックレスが、胸元で()を描き、しずかにきらめいている。羽織ったライトグレーの、ビッグスタンドカラ―のウールショートコートは、襟をとめずそのままにしていた。
言葉はレザーの白いショルダーバッグの留め具をひらき、中からカバーのついた単行本を取りだした。今日は、マリンブルーのカバーをまとわせている。気分によって、ブックカバーを変えるのがすきだった。
栞を挟んだページをひらく。
「ここが、雫原先生の、最新刊の舞台……」
雫原の過去作では、華やかな東京や、離島、京都などを舞台にした作品があった。だが、最新作は、鎌倉を舞台としていた。
雫原が鎌倉に住んでいることは、顔出しなしの雑誌のインタビュー記事や、あとがきで読んだことがあったので、少し驚いた。より生々しく、より解像度(かいぞうど)濃く、物語に浸れると、純粋にうれしくなった反面、どこかこわくもなった。
そして、来てしまった。これまで、雫原の作品の舞台となった場所を訪れたことはあまりなかった。山梨に住んでいて、十代の頃はお金もなく、親の目もあり自由もなかったからだ。
長期休暇のアルバイトで貯めたお金と休みの日を使い、ここまで来てしまった。我ながら、行動力にあきれ返る。部屋の中か、ひと()の少ないちいさなカフェで、ひとりで本を読んでいることがいちばんすきで、衝動性も行動性もないと自覚しているのに、何故、彼のことになると、衝動的になってしまうのだろう。ひとえに、進路について悩みつづけ、うつうつとしすぎてしまっていたということもある。どこか遠くへ行きたかった。「どこか遠く」を選んだら、自然と鎌倉に来てしまっていた。
何をするか、どこに行くかも決めずに来てしまったので、目新しいカフェがあったら入ることにし、抹茶パフェやコーヒーを頼んだ。普段少食なのに、今日はなぜか食欲が爆発していた。朝から電車をまたいで来たからだろうか。そのまま昼ごろまで神社巡りをして、昼すぎに、老舗(しにせ)のとんかつ屋でヒレカツ定食を食べた。出された冷えた緑茶も美味しく、なんどもおかわりしてしまった。店主とすこしばかり雑談までする始末だ。人見知りだったので、自分でも会話し終わったあとに驚いていた。
いつの間にか、こころはあかるくなり、生命力が満ちみちてゆくのを感じた。全身が、ほのかにあたたまり、五感が冴え渡っている。小鳥たちが鳴き交わす高く細い声や、木々がさわさわと風にゆれる音。澄んだ空気が肌に染みてゆくことにさえ、敏感になった。
「鎌倉ってふしぎ。小旅行だからかしら。どんどん開放的になってゆく気がするわ」
 いつの間にか、青い空に、茜とうす紫が混じっていた。もうすぐ夜がやってくる。そんなに長い時間、この海の近くの古都(こと)で過ごしていたとは。
「__帰らなくては」
 (からす)が一羽、山のほうへ飛んでいったのを見送りながら、ぽつりとつぶやいた。
 きびすを返して、駅のほうへ向かおうとする。ふと、目の端に映ったもので、足と思考が、意図せず止まった。
__雫原だ。
あの雫原蔵之介が、レンガ造りの洋食屋の前を、たゆたうように歩いていた。前屈(まえかが)みになった背中とウェーブがかった髪が、縦に四角い窓からこぼれるうす黄のあかりをほのかに浴びて、輪郭をたおやかな金にふちどっている。
 そのまま角をふらりと曲がって、消えてしまいそうだったので、声をかけようと駆けてゆく。
「あ」の形に口をひらいて、ことばを発するはずだったのに、何故か声がでず、代わりに手が伸びていた。
ゆびが、彼の曲がった背中にとんとつく。ゆびの腹に、硬い熱が伝わった。
無意識の行動だった。自分で驚いて、瞠目(どうもく)する。
かすかにゆれる視界の中で、ゆうらりと、雫原がこちらを振り返った。
半分まぶたを伏せて、けだるげである。両腕をかさねて、それぞれ反対側の袖の中へと入れている。藍の着物はラフな着こなしだった。襟がゆるくひらいており、白い鎖骨が、うすい影を持って覗いていた。
「君は……」
雫原も目を(みは)り、そっと腕を()いておろした。曲げていた背筋を伸ばし、こちらに正面を向けてくれる。
言葉は、声もでないまま、そっと彼の背中からゆびを離した。
「あの……、あ」
 思わずくちをついたことばは、輪郭をともなわない、ふよふよと変な発音ばかりだった。
 うすく口をひらいて、驚いていた雫原は、しどろもどろしている言葉の様子に気を使ったのか、一瞬斜め上に視線を逸らして逡巡(しゅんじゅん)した後、右手で頭を掻いて、かるく笑みを浮かべた。
「えっと……、浅桜さん。……ですよね? 先日のサイン会に来てくださった」
 彼も動揺しているようだった。だが、言葉よりも年上の分か、根底に安定した落ち着きがある。
「はい」
「ああ、やっぱり。いや驚きました。まさか地元で会うとはね」
「……私も驚きました」
「鎌倉には、よくいらっしゃるんですか」
「いえ……、たまたまです。たまたま……、雫原先生の新刊の舞台だったので、一度行ってみたいと思って」
「ああ、そうでしたね。聖地(せいち)巡礼(じゅんれい)かな? 成人向け小説で、そういうたのしいことをしてくれるなんて、あまりいないかもしれないです。ありがとうございます。作品を、あいしてくれて」
「いえ……。こちらこそ、すてきな作品を書いてくださって、ありがとうございました。大切に少しずつ読んでいます」
「いや、サイン会に来てくれた読者さんと、プライペートで再会するなんて初めてだな。なんだかふしぎな気分です」
「すみません、プライベートの貴重な時間をお邪魔してしまって……。あの、わたし、そろそろ行きますね。本当にありがとうございました」
 言葉は、からだをくの字に曲げて大きく上体を下げた。帽子が落ちないように、絶妙な角度で、しずかにそよ風を受けて。肩にかかっていた黒髪がひとふさ、はらりとまっすぐ前へ降りた。
「あ? ああ……。もう行かれてしまうんですか」
 言葉はちいさく「はい。ありがとうございました」と返すと、(きびす)を返して駅へ向かった。なんでなのか、自分でもわからなくなっていた。せっかく雫原に会えたのに。それも偶然に、作品の舞台である鎌倉で。常日頃から神様を意識しているわけではないが、神が起こしてくれた奇跡だとしか思えなかった。でも、はずかしさと動揺が勝ってしまった。思考がぐるぐる駆け巡り、オーバーヒートしていた。
 風を切るように走った。前へ、まえへ。周りに何の店があり、どんな顔のひとたちが歩いているのか、何も見えていなかった。水をふくんだ空気は、真昼よりも冷えて質量を増している。空気全体が青い。夜のとばりが降りる前の、空が地上へ降りてきたかのような青さだ。
 足の裏が、質感の変わった地をふむ感触がした。
 立ち止まり、はっと息を吸う。
 見上げれば、目の前に改札口があった。鎌倉駅の改札前に、ぶつかるほどの近さで到着していた。
 息は徐々に荒くなり、額やこめかみに、つぎつぎと汗が流れてゆく。くびすじを撫でる透明な汗は、生まれてから徐々に冷えてゆき、鎖骨を濡らして、スクープドネックを、湿らせる。
 頭の中に、直接嵐が流れ込んだかのように、くらくらしていた。ひとの声も、駅の音も、なにも聞こえず、自分の心臓の音だけが、大きく体中にこだましている。
 音がした。なにかが、肩にふれた。
 息を止めて、はっとふりかえると、雫原がいた。言葉を見下ろし、心配そうに、かすかに眉を寄せている。ひとみはひらいていた。彼自身も自分の行動に驚いているようだった。
 黒い(ひとみ)が、ゆれている。そのなかに、言葉の顔が映っていた。うすく口をひらき、驚いて目を(みは)っていた。雫原よりも大きく、瞳はゆれて。汗に濡れて、顔周りの黒髪が、細い蜘蛛の糸のように、へたりと頬に張り付いていた。
「あ、あの……」
「大丈夫ですか。頬が真っ赤だ。体調が、悪くなってしまわれたのでは? 熱があるのかもしれません。どうしようか……」
 雫原は、本気で心配してくれているようだった。
 それがさらに恥ずかしくて、今すぐにでも逃げ出したくなった。だが、彼の手がふれている肩が熱く、そこからかじかむふるえがやってくる。むずがゆい。それで、動けなくなってしまった。
 十一月の夕暮れは、しずかにやさしいはずなのに、雲ひとつない青と紅の中に、嵐の雨を紛れ込ませたかのように、ひどくつめたかった。