しんとしずかな新月(しんげつ)の夜は、ひときわ執筆が(はかど)った。割と広い庭がある、この家は、日中でもひとの声に困らされることはないが、それでもあかるい昼よりも、ひとびとや獣たちがひとり、またひとりと寝静まってゆく紺色の夜のほうが、雫原は落ち着いた。
 昔は恋仲の女と過ごすこともあったが、仕事にしか興味がなくなった今は、夜は自分ひとりだけのものになっていた。
 原稿用紙と万年筆のペン先がこすれる音が心地よかった。さらさらと、流れるように文字が紡がれてゆく。雫原の盤上(ばんじょう)は、このちいさな仕事机の上にある。選んだことばの次に、どんなことばを紡ぐかによって、盤上は変化する。自分だけの力で変化させた盤上の先のさきを読んで、どう最終局面を迎えるか。より若いときは、それがたのしくも、苦しくもあった。戦いが毎日のルーティンになってしまった今は、淡々と真顔で紡ぐだけになったが、それでも盤上を描くのはよかった。やるべきことをやっているという感覚になる。他の、どんなことよりも。
 使い古された焦げた色をしている木製のデスクの上で、百合の花を(かたど)ったテーブルライトの淡いひかりだけが、手元をうすぼんやりと照らしていた。アンティーク製のもので、骨董市でみつけて気に入り、購入したものだった。花弁が曇り硝子のように、不透明にうす橙のあかりを集めて、(はな)ってくる。
 夜は、完全に電気を点けないほうが落ち着く。このあかりだけを頼りにしているのが、いちばん筆が捗る。
 ブルーブラックで描かれてゆくことばの上に、陽炎(かげろう)のように、言葉の顔が浮かびあがる。
 __手が止まった。
しばらくそのままにしていた。
百合の花からこぼれる、うす橙のあかりだけが、原稿用紙の上を泳いでいる。
わずかに開けた曇り窓から、そよと冷えた心地好い風が、前髪をゆらした。
もうすぐ冬がやって来る。
寒さには強かったが、手が冷えきり、文字が書けなくなる前にと、たちあがり、しずかに窓を閉めた。
 そしてまた、デスクの前に正座すると、手を動かし、ことばを紡ぐ。
 
女は、艶やかな射干玉の黒髪をしていた。男の書いた小説を大層大事に読んでおり、男に差し出した本は、すでに古びて黄ばみを帯びていた。男はそれを受け取り、銀色のサインペンで、己の名前を書き記した。

そこまで書いて、はっとした。こめかみに、透明な汗が浮いた。
無意識に、原稿用紙を持ちあげると、縦に()いていた。斜めに裂けた原稿用紙を、デスクの上に落とすと、前髪を右手で掻きあげ、首をかすかに傾けて、荒く息をついた。袖から出た剥き出しの白い腕が、うす橙に照らされて、ぼんやりと闇の中で浮かびあがっていた。その腕も、気付けば汗でじっとりと湿っている。
 引き出しを開け、言葉からのファンレターを取り出す。左手のゆびさきで持ち、右手のひとさしゆびで、そっと彼女が書いた名前をなぞった。指の腹が、徐々にむずがゆくなっていった。
「浅桜 言葉か……」
 サイン会で会った時の彼女の(さま)を思いだす。白い光沢を纏い、細く長い黒髪。雪を(あざむ)くほどの、透明感ある白い肌。(あか)くほてりとしたくちびる。季節外れの、馥郁(ふくいく)とした桜の香りを漂わせ。サテン生地の、ボウタイワンピースが、上品な雰囲気によく似合っていた。だが、それに隠されていても、にじみ出ていたあの妖艶(ようえん)さは__。
綺麗(きれい)な女だった」
夜がにじんでゆく。青が濃くなって、部屋も染めてゆく。雫原は、立ちあがり、戸棚から石州の煙管(きせる)とたばこの入った袋を取り出した。煙草は、学生の頃にバーで知り合った女に覚させられて、そのまま癖になり、ときどき思いだすように吸ってしまっている。紙たばこも吸ってみたことがあったが、どうもからだに馴染まず、ずっと煙管でたばこを味わっている。
 寒さを防ぐために閉めたというのに、火照(ほて)ったからだを冷ましたくて、また窓をあけた。
 袋を開け、たばこがつかぬようにテープでとめ、火皿に入る大きさに丸めて、たばこを火皿に入れた。煙管用のマッチで、遠火でたばこに着火し、武士の持ち方で数回吸う。
 首を上向け、くちびるを尖らせて、ふーっと白い息を吐くと、紺色の夜空にけむりが溶けて、交わって消えてゆく。
 冷えた夜風が首筋を撫でるのを感じながら、まぶたを半分伏せて、たばこを吸っていた。煙管の銀色の雁首(がんくび)が、月のひかりに鈍く反射していた。