言葉が通う大学は、学花院大学という男女共学のワンキャンパスだった。目白の閑静な住宅街の中にある。駅近だが、飲み会で酔いつぶれる学生が夜にあらわれない、上品で真面目な雰囲気がある学校だった。西門をくぐると、古い煉瓦造りの校舎が、森林に囲まれている。一見公園かと見紛うほどの、ゆたかなみどり。
まばらにあたたかなこもれびが落ちる道を、言葉は、友人の詩子と歩いていた。
「楓ってふしぎだよねー。あんなに真っ赤に染まるなんて、神様が作ったみたいにきれい。いつも嘘だろって思いながら見てるもん」
詩子がテニスコートの横に植えてある、楓の木を見ながら言う。他愛ない話しばかりを勝手にふってくる友人だった。
すれちがう学生たちが、言葉をみては、瞠目し、頬をうすらに染めてゆく。
言葉には、親しい友人と教師以外の学生たちは皆、おぼろにしか目に映っていなかった。自分から興味を持ったひとにしか、興味を抱けない。そんな自分に慣れつつも、どこかつめたい人間だと思っていた。
黒のショルダーバッグの、金の留め具を回し、ひらいた中から文庫本を取り出す。雫原の本だった。紫地にうす紅の山桜柄のカバーをかけているので、表紙から内容はうかがえないようにしてある。
隣で詩子が、「はは、十一月なのに桜柄かよ。季節感なしの変わりもんだな。言葉らしいや」と、へらへらとしたわらい声が聞こえてきたが、無視した。
そよ風が吹く。金や紅に萌える学内の木々と、言葉の先を切りそろえた長い髪をはらはらとゆらした。
「ほんっと髪きれい。そんなに黒髪ロング似合うひといないよ。最近顔周りにレイヤーも入れたんだね。ますますおとなの女ですなぁ」
詩子が言葉の顔をのぞくように、腰を屈めて近寄った。白い歯を見せて、あかるい笑顔を向けてくる。
気にせず本をめくる。段を入れた顔周りの髪が、ひとふさくちびるにふれそうになったので、手ですくって耳にかけた。
詩子の話を無視して、自分のやりたいことを貫くのは、ふたりの常だった。互いに慣れているので、いやな思いもしない。これが自然な関係だった。言葉には、限られた親しさだ。
本に書かれた文章を読みこむごとに、頭の中で、否応にもサイン会での雫原の姿がくっきりと浮かびあがってくる。正直、本の内容に集中できなかった。あのふしくれだった手が、自分にふれた手が、万年筆で、このいやらしくもうつくしい文章を生み出したのかと思うと、しずかな興奮が胸の内を駆けめぐる。
内側の見えない震えをおさえようと、はたと胸元に置いた右手。それに太陽のような熱がふれ、言葉は、はっと顔をあげた。
「ことのは~!」
白く、青い血脈が見えるほど透明な肌をした手の甲の上に、詩子の血色の良い小麦色の手が、そっと重ねられていた。別の生き物であるかのように、温度が違う。
「……詩子……」
呼びかけへの無視に、あきてしまったのか、幼いこどものいたずらのように満足そうな笑みを浮かべた親友。
言葉はその親友に、半分まぶたをふせて、つめたい視線を送った。
__読書の邪魔なのだけれど。
そう言ってやろうかと考えたが、さすがにつめたすぎるかと気が引けて、言わずにおいた。
詩子は、そのままそっと言葉の二の腕に手をすべらせ、己の腕にからめて、なつくように顔を寄せた。たのしそうだ。
「ちょっとやめて。周りが見ている」
言葉は、腕をふって、からんだ詩子の腕をほどいた。
「なんで!?」
「恥ずかしいからよ」
「ははーん。常に冷静沈着な言葉ちゃんにも、そういう乙女な感情あるんだ」
「うるさい」
言葉が眉を寄せて、暗く睨むと、詩子はより笑みをかがやかせた。
「文学部日本文学科きっての秀才も、ふっつーの女の子ってことですよ」
言葉は、より冷めた顔になった。
詩子は、ほどかれた腕を、今度は言葉の肩にまわし、ゆるくかけた。
言葉はふりほどくのもあきらめ、そのまま自由にさせておくことにした。
「言葉はあったまいいからさ。日文の教授と、ゼミの子たちは、皆、大学院行くんだと思ってるよ。みぃんな期待してるんだよ。あんたに」
確かな口調で語られる。詩子が放つことばのひとつひとつに、なぜか説得力があった。自分よりほど遠いあかるさを持つ女が放つからだろうか。
言葉は、くちびるを引き結ぶと、詩子から顔をそらし、詩子と速度を合わせながら、ただただ無言で歩いていた。
いつの間にか雫原の本は閉じられ、下ろされた言葉の手の中で、物体のひとつと化して、共に秋の空気の中に混じっていた。
学内には山桜ラウンジという、ちいさなカフェがあった。皆、講義やゼミの空き時間は、人気のある食堂か、学科の閲覧室で話しているので、ひとは少なかった。言葉はひとの少ない場所がすきなので、詩子と別れた後は、よくここで、ひとりで過ごしていた。ココアを頼んで、本をしずかにひらいて。そういう時間が心落ち着き、好ましかった。だが、今日は、心に波が立っていた。しずかだが、さわさわと五月蝿い波が。
紙製の白いストローで、うす紫のココアにしずんだ氷たちを、からからとかき回して高く澄んだ音を鳴らした。氷は、照明の平たいひかりをあつめて、鈍く発光している。
左肘は、お行儀悪く丸テーブルについて、やわらかな頬を手の甲につけて傾いていた。ゆびさきがうねって、ストローの上でくるくると踊っているのを、感情の無い表情でみつめていた。
「就職して社会人としての道に進むか……。大学に残って文学の研究を続けるか……。私の進路について、両親はどう思うのかしら。私はどうしたいのかしら……」
丸いまぶたを伏せ、顔にかかった黒髪をひとふさ、ゆびですくって耳にかけた。
店内には、まばらに他の学生たちも座っていた。皆仲の良い友人たちと、今後の進路について、あかるく話しているようだ。
言葉には、そんな学生たちが苦しいほどまばゆく見えた。うっと、目を細めて、逸らしてしまいたくなるほどのかがやき。言葉にはないもの。
言葉の心の中は、目の前のココアのように、うす紫に濁って、前が見えなかった。
(何故、きちんと決められないの。私は、私の人生をどう生きていきたいの……?)
__からん。
ストローで回した氷たちが、ひときわ大きく澄んだ音を奏でた。
周囲の景色が、とぷりと赤黒い闇に染まって暗転した。
きらきらとした学生たちの笑い声が、けらけらといやしい悪魔の笑い声に変わり、泡のように弾けて消えてゆく。
やがて、耳朶の奥深くから、ぶうんという鈍く低い音が響いた。強いものではなかったが、長くじれったく鳴り続け、言葉を疲弊させ、闇に落としていった。
まぶたをひらく。
さきほどまで暮れていた闇の世界は晴れて、いつもの昼間だけが広がっていた。だが、重たくけだるい感覚が残り続けていた。
頬を支えていた手を、外し、持ちあげて、額の真ん中に当てる。かすかに湿って冷えていた。いつの間にか、汗をかいてから、いくぶんか時間が経過していたことを悟る。首を落とすと、ゆびの腹が、なめらかな額を滑って、髪の生え際を突いた。かすみのようにけぶる生え際は、ゆびのあいだを淡く包み込む。そのまましばらくじっとしていたが、ひじのあたりが震えはじめた。
救いを求めるように、ショルダーバッグの中へ右手を差し込んだ。取りだしたのは、雫原の本だった。
片手に握った本の輪郭が、ぼんやりと発光しているようだった。
言葉はしばらく、本をみつめたまま動きを止めていた。
ココアをかたわらへどけて、縁に薔薇の花模様があしらわれた、卯の花色のレースハンカチで、丸テーブルに落ちた水滴をそっと拭うと、うす紫のブックカバーを纏った本を、目の前に置いた。
ゆびさきで糸をくゆるように、本をひらく。読み始めると、文章がすっとからだに染み込んで、心地好かった。いつの間にか、不安だった気持ちも、からだの不調も、不穏な耳鳴りも、本の世界に溶け込んで消えていた。
鎌倉が舞台の今作は、古風な建物や雰囲気が、目の前にたちあわられるような描写力で、いつの間にか言葉は、東京の目白の大学から、神奈川の鎌倉の中で、潮風を肌にあびながら、深い呼吸をしていた。
まばらにあたたかなこもれびが落ちる道を、言葉は、友人の詩子と歩いていた。
「楓ってふしぎだよねー。あんなに真っ赤に染まるなんて、神様が作ったみたいにきれい。いつも嘘だろって思いながら見てるもん」
詩子がテニスコートの横に植えてある、楓の木を見ながら言う。他愛ない話しばかりを勝手にふってくる友人だった。
すれちがう学生たちが、言葉をみては、瞠目し、頬をうすらに染めてゆく。
言葉には、親しい友人と教師以外の学生たちは皆、おぼろにしか目に映っていなかった。自分から興味を持ったひとにしか、興味を抱けない。そんな自分に慣れつつも、どこかつめたい人間だと思っていた。
黒のショルダーバッグの、金の留め具を回し、ひらいた中から文庫本を取り出す。雫原の本だった。紫地にうす紅の山桜柄のカバーをかけているので、表紙から内容はうかがえないようにしてある。
隣で詩子が、「はは、十一月なのに桜柄かよ。季節感なしの変わりもんだな。言葉らしいや」と、へらへらとしたわらい声が聞こえてきたが、無視した。
そよ風が吹く。金や紅に萌える学内の木々と、言葉の先を切りそろえた長い髪をはらはらとゆらした。
「ほんっと髪きれい。そんなに黒髪ロング似合うひといないよ。最近顔周りにレイヤーも入れたんだね。ますますおとなの女ですなぁ」
詩子が言葉の顔をのぞくように、腰を屈めて近寄った。白い歯を見せて、あかるい笑顔を向けてくる。
気にせず本をめくる。段を入れた顔周りの髪が、ひとふさくちびるにふれそうになったので、手ですくって耳にかけた。
詩子の話を無視して、自分のやりたいことを貫くのは、ふたりの常だった。互いに慣れているので、いやな思いもしない。これが自然な関係だった。言葉には、限られた親しさだ。
本に書かれた文章を読みこむごとに、頭の中で、否応にもサイン会での雫原の姿がくっきりと浮かびあがってくる。正直、本の内容に集中できなかった。あのふしくれだった手が、自分にふれた手が、万年筆で、このいやらしくもうつくしい文章を生み出したのかと思うと、しずかな興奮が胸の内を駆けめぐる。
内側の見えない震えをおさえようと、はたと胸元に置いた右手。それに太陽のような熱がふれ、言葉は、はっと顔をあげた。
「ことのは~!」
白く、青い血脈が見えるほど透明な肌をした手の甲の上に、詩子の血色の良い小麦色の手が、そっと重ねられていた。別の生き物であるかのように、温度が違う。
「……詩子……」
呼びかけへの無視に、あきてしまったのか、幼いこどものいたずらのように満足そうな笑みを浮かべた親友。
言葉はその親友に、半分まぶたをふせて、つめたい視線を送った。
__読書の邪魔なのだけれど。
そう言ってやろうかと考えたが、さすがにつめたすぎるかと気が引けて、言わずにおいた。
詩子は、そのままそっと言葉の二の腕に手をすべらせ、己の腕にからめて、なつくように顔を寄せた。たのしそうだ。
「ちょっとやめて。周りが見ている」
言葉は、腕をふって、からんだ詩子の腕をほどいた。
「なんで!?」
「恥ずかしいからよ」
「ははーん。常に冷静沈着な言葉ちゃんにも、そういう乙女な感情あるんだ」
「うるさい」
言葉が眉を寄せて、暗く睨むと、詩子はより笑みをかがやかせた。
「文学部日本文学科きっての秀才も、ふっつーの女の子ってことですよ」
言葉は、より冷めた顔になった。
詩子は、ほどかれた腕を、今度は言葉の肩にまわし、ゆるくかけた。
言葉はふりほどくのもあきらめ、そのまま自由にさせておくことにした。
「言葉はあったまいいからさ。日文の教授と、ゼミの子たちは、皆、大学院行くんだと思ってるよ。みぃんな期待してるんだよ。あんたに」
確かな口調で語られる。詩子が放つことばのひとつひとつに、なぜか説得力があった。自分よりほど遠いあかるさを持つ女が放つからだろうか。
言葉は、くちびるを引き結ぶと、詩子から顔をそらし、詩子と速度を合わせながら、ただただ無言で歩いていた。
いつの間にか雫原の本は閉じられ、下ろされた言葉の手の中で、物体のひとつと化して、共に秋の空気の中に混じっていた。
学内には山桜ラウンジという、ちいさなカフェがあった。皆、講義やゼミの空き時間は、人気のある食堂か、学科の閲覧室で話しているので、ひとは少なかった。言葉はひとの少ない場所がすきなので、詩子と別れた後は、よくここで、ひとりで過ごしていた。ココアを頼んで、本をしずかにひらいて。そういう時間が心落ち着き、好ましかった。だが、今日は、心に波が立っていた。しずかだが、さわさわと五月蝿い波が。
紙製の白いストローで、うす紫のココアにしずんだ氷たちを、からからとかき回して高く澄んだ音を鳴らした。氷は、照明の平たいひかりをあつめて、鈍く発光している。
左肘は、お行儀悪く丸テーブルについて、やわらかな頬を手の甲につけて傾いていた。ゆびさきがうねって、ストローの上でくるくると踊っているのを、感情の無い表情でみつめていた。
「就職して社会人としての道に進むか……。大学に残って文学の研究を続けるか……。私の進路について、両親はどう思うのかしら。私はどうしたいのかしら……」
丸いまぶたを伏せ、顔にかかった黒髪をひとふさ、ゆびですくって耳にかけた。
店内には、まばらに他の学生たちも座っていた。皆仲の良い友人たちと、今後の進路について、あかるく話しているようだ。
言葉には、そんな学生たちが苦しいほどまばゆく見えた。うっと、目を細めて、逸らしてしまいたくなるほどのかがやき。言葉にはないもの。
言葉の心の中は、目の前のココアのように、うす紫に濁って、前が見えなかった。
(何故、きちんと決められないの。私は、私の人生をどう生きていきたいの……?)
__からん。
ストローで回した氷たちが、ひときわ大きく澄んだ音を奏でた。
周囲の景色が、とぷりと赤黒い闇に染まって暗転した。
きらきらとした学生たちの笑い声が、けらけらといやしい悪魔の笑い声に変わり、泡のように弾けて消えてゆく。
やがて、耳朶の奥深くから、ぶうんという鈍く低い音が響いた。強いものではなかったが、長くじれったく鳴り続け、言葉を疲弊させ、闇に落としていった。
まぶたをひらく。
さきほどまで暮れていた闇の世界は晴れて、いつもの昼間だけが広がっていた。だが、重たくけだるい感覚が残り続けていた。
頬を支えていた手を、外し、持ちあげて、額の真ん中に当てる。かすかに湿って冷えていた。いつの間にか、汗をかいてから、いくぶんか時間が経過していたことを悟る。首を落とすと、ゆびの腹が、なめらかな額を滑って、髪の生え際を突いた。かすみのようにけぶる生え際は、ゆびのあいだを淡く包み込む。そのまましばらくじっとしていたが、ひじのあたりが震えはじめた。
救いを求めるように、ショルダーバッグの中へ右手を差し込んだ。取りだしたのは、雫原の本だった。
片手に握った本の輪郭が、ぼんやりと発光しているようだった。
言葉はしばらく、本をみつめたまま動きを止めていた。
ココアをかたわらへどけて、縁に薔薇の花模様があしらわれた、卯の花色のレースハンカチで、丸テーブルに落ちた水滴をそっと拭うと、うす紫のブックカバーを纏った本を、目の前に置いた。
ゆびさきで糸をくゆるように、本をひらく。読み始めると、文章がすっとからだに染み込んで、心地好かった。いつの間にか、不安だった気持ちも、からだの不調も、不穏な耳鳴りも、本の世界に溶け込んで消えていた。
鎌倉が舞台の今作は、古風な建物や雰囲気が、目の前にたちあわられるような描写力で、いつの間にか言葉は、東京の目白の大学から、神奈川の鎌倉の中で、潮風を肌にあびながら、深い呼吸をしていた。



