言葉は、夜がすきだった。昼よりも自分に似合っているし、ひとりでいることを、神様に許されているようで、心落ち着く。しんと冷えた空気が澄んだ気がして、より深く息を吸いたくなる。今宵は、特に夜を素敵に感じていた。それは、昼間の出来事、が大きく占めている。未だに、あの場所に張っていた水色の空気や、凛としたあのひとの輪郭を、網膜と肌に焼きつけて覚えている。
言葉は、ゆるく温めた自室のベッドの上で、ひとりたゆたっていた。コットンの桜色のシーツの上は、いつにもまして極上のやわらかさだった。
からだ全体が、溶けるように湿っている。特に下半身の花は、男を受け入れたわけでもないのに、熱くうるおっていた。
シーツの波をかくように、言葉の右手のゆびは、まっすぐに広がっていった。ゆびとゆびのあいだを水が抜けるように、等間隔にあけて。ゆびさきは、白魚となってどこまでも伸びてゆく。
それと呼応して、視線も己のゆびさきを追っていった。爪の端まで。ネイルをほどこしていないというのに、常に桜色になめらかにかがやいている爪。ほどよく伸びたそれに宿った、部屋の薄橙の淡い照明の、ぽつりとしたひかりの中へ、吸い込まれてゆく。
記憶は、昼間の書店へと戻っていた。あの人工的な生ぬるさのただよう、無機質の中へ。
すっと立った言葉の下に、雫原蔵之介のからだが、確かにあった。紺色の着物を着て、しずかにサインを書いていた。肌は白いが、言葉とはかすかに違う血色だった。
黒い髪は、ところどころ渦を巻き、癖毛だった。つやはあるが、波打つ線によって、本来持っているつやが少しかすんでいた。つむじは、左巻きだった。
かけていた眼鏡は、黒縁のポストン型だった。それが、切れ長の瞳の視力を守っていた。眸のいろは、真冬の夜空のように、青みを帯びた黒だった。
彼が顔をあげた。
言葉と目があった。
瞬間、周囲に風が吹いた。水色の膜が溶けて、薄紅の、春の陽気がただよった。
雫原は、レンズの奥で、ひとみをふるわせていた。
列の中から、別の読者へサインしている姿は垣間見えていたが、あきらかに言葉を目の前にしたときと、反応が違っているのを感じた。それは、驚いているときのひとの反応だった。
自分が、女だからだろうか。サイン会の来場者は、見渡せば妙齢の男ばかりで、若い女など、言葉ひとりしか来ていなかった。言葉自身は、そのことに驚くことはなかった。だろうな、という感じだった。だって、雫原蔵之介の官能小説は、元々男性向けで、ネットのレビューをみても男性読者ばかりだったからだ。女性読者のほうが少ないに決まっている。それにしても、サイン会まで来るような熱心なファンは、言葉だけだったとは。かわいそうなような、うれしいような。
伏せていたときは、しろい鼻筋や、うすいくちびるしか見えていなかったが、やはりうつくしい男だった。未だ若いというのに、年輪を刻んだ古木のような落ち着いたおもむきがある。それでいて、他人を寄せ付けない、月のような孤高のおだやかなさがある。しずかだが、身のうちに激しいものを抱えているのであろうことは、彼の書いたものを読めばわかった。
言葉は、さらにゆびさきをひろげた。筋が伸ばされつくして、はざまに痛みが走るほどに。しろいゆびは、うす紅に染まり。
サイン会の列に並んでいたときの心情を思い返すと、からだが冷えたり、熱くなったりを繰り返した。数年、頭の中で空想し続けたあこがれの雫原に、やっと会えることへの高揚と、こんな自分が生身で会ってよいのかという恥ずかしさで、ぐちゃぐちゃにゆれていた。
夏でもないというのに、頬に黒髪のすじが、蜘蛛の巣のように張りついていたのさえ覚えている。彼の目の前にのぼるまえに、そっとゆびさきで払ったものだ。そのゆびさきさえも震えていて、左手でぎゅっと握りしめた際には、汗のしずくがうつった。
手に持っていたチョコレート菓子の袋は、大丈夫だっただろうか。握りしめすぎて、破れたり、歪んだりしなかっただろうか。いまさら不安にもなった。それくらい、あのときの自分は異常だった。
言葉は、大学三年生だった。もう単位の大半は取り終えていたが、必修科目と、好奇心で取った講義が残っていたので、週に三、四回は必ず大学に通っていた。しかし、授業中も、どうしても気になって、レジュメや教科書ではなく、雫原の本をひらいてしまうことがあった。教授が淡々と前回と同じ話を繰り返しているときだ。
手元にひらいた本の中へと、視線はいってしまう。つづきが気になってしょうがなかった。官能小説にこれほどはまったのは、はじめての経験だった。本の虫だと、友人や家族に言われている。自分でも自覚がある。おもしろい本が手元にあれば、暇さえあれば読んでしまう。いや、授業中は、暇ではないという体にしているはずなのだが。
言葉は、十代の終わりから、雫原の本を、実はこっそり、たのしんでいた。
家族の目を盗んで、本棚の奥のおくへと。雫原の本のカバーを外し、別の本のカバーで覆って、カモフラージュさせてまで。
うつくしく耽美な文章と世界観に惹かれていたが、情事のシーンや設定に過激なところがあったので、周囲に読んでいることを知られるのがはばかられた。
中高生のころから図書委員で、成績も良かったので、真面目でおとなしい印象を持たれがちだった。それがいやになるときもあったが、処世術として、その印象でとおしていた。
雫原の本と出会ったのは、高校二年生の、帰り道で立ち寄った書店の中だった。
白い髭の生えた、穏やかな老人が、ひとりで切り盛りしているような、しずかでちいさな店だった。
言葉にとって、心落ち着く場所だった。ここでなら、自分のすきな世界に、思う存分ひたれる。そう思い、学校帰りに自分をリセットする意味をこめて、よく足を運んでいた。
はらはらと適当に選んだ本のページをめくり、興味が持てないとまた別の本へ目移りする。そんな春の蝶のような、本選びばかりしていた。
ひとつだけ、ひかるようにあざやかに目に映った本があった。割と高い位置に配されていたので、踵をあげて腕を伸ばす。ゆびさきでひっかけて、てのひらの中へ落とした。ほとりとした重みと、布張りの本のやわらかな質感が印象的だった。
両手で端を摑み、目の前にかざしてみる。
上品な紫色の表紙に、銀の文字でタイトルと名前が書かれていた。行書体だ。
「淫欲の虎は、竹の海で眠る」。
今まで目にしたことのないタイプのタイトルだった。淫欲__。言葉のこれまでの生活とは無縁のことばだ。
細い手で、そっと本の表紙を撫でる。銀のタイトルに、ひとつばかり、きらりとひかりが浮いた。淡い照明があたっただけだったのだが、そのときばかり、星が宿ったように見えた。
待ちきれず、その場で本をひらいてしまった。ちいさい書店なので、立ち読みが割と見逃されている。
昭和の文豪が書いたような、難しい言葉使いが並ぶ。しかし、読み進めていくうちに、溶けるようにすらすらと読めた。古風な表現を使いながらも、読者への読みやすさに配慮しているやさしさを感じた。流麗で、目の前に景色がたちあらわれるような描写。作者によって選ばれたことばの数々が、うつくしかった。
頬に、夕日のなめらかな橙があたり、周囲の温度がいち温下がっていたことに気づいたのは、最初のページをひらいてから、ずいぶんと時間が経ってからだった。
それからというもの、雫原蔵之介の作品ばかり作家読みしてしまっていた。他にも興味のあった作家は数々いたが、雫原の本と出会ってからは、どれもしっくりからだに馴染んでこなくなってしまった。雫原の文章を読んでいるときが、至福の時間だった。きよらかな水が、自然と血液に浸透してゆくように、しっくりとからだに馴染み、落ち着いてくる。読んでいないあいだは、彼の美文を欲してやまない。恋のような求め方だった。
何度か雫原のサイン会が、ひらかれていることは知っていた。だが、まだ子供だった言葉は、家族の目を盗んで官能小説家のサイン会に足を運ぶことが、どうしてもできなかった。
家族は言葉のことに淡白で、上の姉ばかり気にかけていたが、時々なぜか過干渉になった。それがとても、居心地が悪く、外でも内でも、自分を完全に開放することができずにいた。本の中だけ、激しい愛を描いた、物語の中へ旅しているときだけ、自由になれた。
大学に入学してから、山梨の家を出て、ひとり暮らしを始めた。二十歳を過ぎ、十代のころより、時間も行動も自由になれて、ようやく雫原のサイン会に行くことができた。帰り道は、歓喜で頬を紅く染め、ひしと本を抱きしめて、熱いなみだをほろほろと流していた。感情的になることがあまりない自分が、これだけでこんなに感情の変化をしたことに、自分自身で驚いていた。
伸ばしたゆびさきに、とんと、今日手に入れた雫原のサイン本がふれた。それをからめとるように摑むと、身をひるがえし、胸と腹のあいだにおさめて抱きしめた。
産まれたての我が子のように、硬い紙の束に、いとしさがあふれる。
「やっと、会えた……」
本をしっかりと摑むゆびさきに、むずがゆいような快楽が走る。
雫腹が言葉の本にサインしていたときに、言葉の手を包み込むほどに、大きな手だったことを頭が忘れようとしても、肌が覚えたままだった。節くれだっていて、いくつか筆まめが出来た跡があった。おとなの男の手。
サイン本を言葉に渡す時に、ゆびさきがかすかにふれたことに、彼は気づいていただろうか。
体温が、いち温あがる。こめかみに、うすい汗が湧く。かすかに頬に流れていた、黒髪のすじを濡らす。
腕を解いて、本を両手で持って、天へかざすとそっとひらいた。
書かれた文章が、目の前に迫るようだった。たおやかでしずかだが、内側に烈しさを隠した川のように、からだのすみずみを流れてくる。血液を洗い流して、新たなものにするように。
主役の男と女が、薄暗い和室でくちづけを交わし、情事が始まった。
さらりとした唾をしずかに飲み込む。
互いのからだを慈しみ合うようだった情事は、徐々に男が女を喰らう、激しいものへと変わってゆく。
額に、ちいさな汗のつぶが浮く。
男が、女の中へと挿入した。硬い蛇が、やわらかな女の肉の中へ沈み、溶けて、貫いてゆく。激しく、淡く、快楽のかなたへといざなうように__。
右手が本から離れ、横向きでベッドに倒れ込んだ。片手で本を支える。右手は、ゆっくりと自身の太腿の上を這うと、股のあいだへと辿り着いた。大切な花芯は、青い光沢を持つ黒いサテン生地のボウタイワンピースによって隠されている。やわらかな布を持ちあげて、ゆびさきで秘めた場所をあばいた。ふれただけで、おどろくほど濡れて、熱くほてっていることがわかった。たまらず、ゆびで掻き出すと、痺れるような、あまい快楽が生まれてゆく。止められなくなった。
言葉は、雫原の本を読みながら、己を快楽の果てへと落とし続けた。
ときが経ち、最終ページを読み終わるころには、本を支えていたゆびは小刻みに震えて、使い物にならなくなっていた。ほとりと本をベッドに落とすと、ひらいたままの本のページが、開けた窓からこぼれる夜のそよ風に、はらはらとゆれてめくられてゆく。
荒い吐息をつきながら、深く埋まってしまった中指を、そっと己の花芯から取りだした。こぷりとした良い音とともに、ぬめった愛液が空に飛び散る。部屋の真珠色の照明に、きらきらとかがやいて、汚い恋情のかけらが、うつくしく見えた。
そう恋情__。
「……私は、おかしくなってしまったの?」
うす紅に染まる頬の熱を感じながら、言葉は、恋に落ちたことを悟った。
濡れたゆびを持つ手を、額に当てる。火のような熱さが手の甲に伝わった。ゆっくりとまぶたの上まで下ろすと、うれしいのか、せつないのかわからない涙が、ひとしずく、まなじりから頬を伝った。
窓に四角く切り取られた、透明な夜が運ぶそよ風だけが、やさしく顔を撫でて、言葉の熱を落ち着かせようとしていた。
言葉は、ゆるく温めた自室のベッドの上で、ひとりたゆたっていた。コットンの桜色のシーツの上は、いつにもまして極上のやわらかさだった。
からだ全体が、溶けるように湿っている。特に下半身の花は、男を受け入れたわけでもないのに、熱くうるおっていた。
シーツの波をかくように、言葉の右手のゆびは、まっすぐに広がっていった。ゆびとゆびのあいだを水が抜けるように、等間隔にあけて。ゆびさきは、白魚となってどこまでも伸びてゆく。
それと呼応して、視線も己のゆびさきを追っていった。爪の端まで。ネイルをほどこしていないというのに、常に桜色になめらかにかがやいている爪。ほどよく伸びたそれに宿った、部屋の薄橙の淡い照明の、ぽつりとしたひかりの中へ、吸い込まれてゆく。
記憶は、昼間の書店へと戻っていた。あの人工的な生ぬるさのただよう、無機質の中へ。
すっと立った言葉の下に、雫原蔵之介のからだが、確かにあった。紺色の着物を着て、しずかにサインを書いていた。肌は白いが、言葉とはかすかに違う血色だった。
黒い髪は、ところどころ渦を巻き、癖毛だった。つやはあるが、波打つ線によって、本来持っているつやが少しかすんでいた。つむじは、左巻きだった。
かけていた眼鏡は、黒縁のポストン型だった。それが、切れ長の瞳の視力を守っていた。眸のいろは、真冬の夜空のように、青みを帯びた黒だった。
彼が顔をあげた。
言葉と目があった。
瞬間、周囲に風が吹いた。水色の膜が溶けて、薄紅の、春の陽気がただよった。
雫原は、レンズの奥で、ひとみをふるわせていた。
列の中から、別の読者へサインしている姿は垣間見えていたが、あきらかに言葉を目の前にしたときと、反応が違っているのを感じた。それは、驚いているときのひとの反応だった。
自分が、女だからだろうか。サイン会の来場者は、見渡せば妙齢の男ばかりで、若い女など、言葉ひとりしか来ていなかった。言葉自身は、そのことに驚くことはなかった。だろうな、という感じだった。だって、雫原蔵之介の官能小説は、元々男性向けで、ネットのレビューをみても男性読者ばかりだったからだ。女性読者のほうが少ないに決まっている。それにしても、サイン会まで来るような熱心なファンは、言葉だけだったとは。かわいそうなような、うれしいような。
伏せていたときは、しろい鼻筋や、うすいくちびるしか見えていなかったが、やはりうつくしい男だった。未だ若いというのに、年輪を刻んだ古木のような落ち着いたおもむきがある。それでいて、他人を寄せ付けない、月のような孤高のおだやかなさがある。しずかだが、身のうちに激しいものを抱えているのであろうことは、彼の書いたものを読めばわかった。
言葉は、さらにゆびさきをひろげた。筋が伸ばされつくして、はざまに痛みが走るほどに。しろいゆびは、うす紅に染まり。
サイン会の列に並んでいたときの心情を思い返すと、からだが冷えたり、熱くなったりを繰り返した。数年、頭の中で空想し続けたあこがれの雫原に、やっと会えることへの高揚と、こんな自分が生身で会ってよいのかという恥ずかしさで、ぐちゃぐちゃにゆれていた。
夏でもないというのに、頬に黒髪のすじが、蜘蛛の巣のように張りついていたのさえ覚えている。彼の目の前にのぼるまえに、そっとゆびさきで払ったものだ。そのゆびさきさえも震えていて、左手でぎゅっと握りしめた際には、汗のしずくがうつった。
手に持っていたチョコレート菓子の袋は、大丈夫だっただろうか。握りしめすぎて、破れたり、歪んだりしなかっただろうか。いまさら不安にもなった。それくらい、あのときの自分は異常だった。
言葉は、大学三年生だった。もう単位の大半は取り終えていたが、必修科目と、好奇心で取った講義が残っていたので、週に三、四回は必ず大学に通っていた。しかし、授業中も、どうしても気になって、レジュメや教科書ではなく、雫原の本をひらいてしまうことがあった。教授が淡々と前回と同じ話を繰り返しているときだ。
手元にひらいた本の中へと、視線はいってしまう。つづきが気になってしょうがなかった。官能小説にこれほどはまったのは、はじめての経験だった。本の虫だと、友人や家族に言われている。自分でも自覚がある。おもしろい本が手元にあれば、暇さえあれば読んでしまう。いや、授業中は、暇ではないという体にしているはずなのだが。
言葉は、十代の終わりから、雫原の本を、実はこっそり、たのしんでいた。
家族の目を盗んで、本棚の奥のおくへと。雫原の本のカバーを外し、別の本のカバーで覆って、カモフラージュさせてまで。
うつくしく耽美な文章と世界観に惹かれていたが、情事のシーンや設定に過激なところがあったので、周囲に読んでいることを知られるのがはばかられた。
中高生のころから図書委員で、成績も良かったので、真面目でおとなしい印象を持たれがちだった。それがいやになるときもあったが、処世術として、その印象でとおしていた。
雫原の本と出会ったのは、高校二年生の、帰り道で立ち寄った書店の中だった。
白い髭の生えた、穏やかな老人が、ひとりで切り盛りしているような、しずかでちいさな店だった。
言葉にとって、心落ち着く場所だった。ここでなら、自分のすきな世界に、思う存分ひたれる。そう思い、学校帰りに自分をリセットする意味をこめて、よく足を運んでいた。
はらはらと適当に選んだ本のページをめくり、興味が持てないとまた別の本へ目移りする。そんな春の蝶のような、本選びばかりしていた。
ひとつだけ、ひかるようにあざやかに目に映った本があった。割と高い位置に配されていたので、踵をあげて腕を伸ばす。ゆびさきでひっかけて、てのひらの中へ落とした。ほとりとした重みと、布張りの本のやわらかな質感が印象的だった。
両手で端を摑み、目の前にかざしてみる。
上品な紫色の表紙に、銀の文字でタイトルと名前が書かれていた。行書体だ。
「淫欲の虎は、竹の海で眠る」。
今まで目にしたことのないタイプのタイトルだった。淫欲__。言葉のこれまでの生活とは無縁のことばだ。
細い手で、そっと本の表紙を撫でる。銀のタイトルに、ひとつばかり、きらりとひかりが浮いた。淡い照明があたっただけだったのだが、そのときばかり、星が宿ったように見えた。
待ちきれず、その場で本をひらいてしまった。ちいさい書店なので、立ち読みが割と見逃されている。
昭和の文豪が書いたような、難しい言葉使いが並ぶ。しかし、読み進めていくうちに、溶けるようにすらすらと読めた。古風な表現を使いながらも、読者への読みやすさに配慮しているやさしさを感じた。流麗で、目の前に景色がたちあらわれるような描写。作者によって選ばれたことばの数々が、うつくしかった。
頬に、夕日のなめらかな橙があたり、周囲の温度がいち温下がっていたことに気づいたのは、最初のページをひらいてから、ずいぶんと時間が経ってからだった。
それからというもの、雫原蔵之介の作品ばかり作家読みしてしまっていた。他にも興味のあった作家は数々いたが、雫原の本と出会ってからは、どれもしっくりからだに馴染んでこなくなってしまった。雫原の文章を読んでいるときが、至福の時間だった。きよらかな水が、自然と血液に浸透してゆくように、しっくりとからだに馴染み、落ち着いてくる。読んでいないあいだは、彼の美文を欲してやまない。恋のような求め方だった。
何度か雫原のサイン会が、ひらかれていることは知っていた。だが、まだ子供だった言葉は、家族の目を盗んで官能小説家のサイン会に足を運ぶことが、どうしてもできなかった。
家族は言葉のことに淡白で、上の姉ばかり気にかけていたが、時々なぜか過干渉になった。それがとても、居心地が悪く、外でも内でも、自分を完全に開放することができずにいた。本の中だけ、激しい愛を描いた、物語の中へ旅しているときだけ、自由になれた。
大学に入学してから、山梨の家を出て、ひとり暮らしを始めた。二十歳を過ぎ、十代のころより、時間も行動も自由になれて、ようやく雫原のサイン会に行くことができた。帰り道は、歓喜で頬を紅く染め、ひしと本を抱きしめて、熱いなみだをほろほろと流していた。感情的になることがあまりない自分が、これだけでこんなに感情の変化をしたことに、自分自身で驚いていた。
伸ばしたゆびさきに、とんと、今日手に入れた雫原のサイン本がふれた。それをからめとるように摑むと、身をひるがえし、胸と腹のあいだにおさめて抱きしめた。
産まれたての我が子のように、硬い紙の束に、いとしさがあふれる。
「やっと、会えた……」
本をしっかりと摑むゆびさきに、むずがゆいような快楽が走る。
雫腹が言葉の本にサインしていたときに、言葉の手を包み込むほどに、大きな手だったことを頭が忘れようとしても、肌が覚えたままだった。節くれだっていて、いくつか筆まめが出来た跡があった。おとなの男の手。
サイン本を言葉に渡す時に、ゆびさきがかすかにふれたことに、彼は気づいていただろうか。
体温が、いち温あがる。こめかみに、うすい汗が湧く。かすかに頬に流れていた、黒髪のすじを濡らす。
腕を解いて、本を両手で持って、天へかざすとそっとひらいた。
書かれた文章が、目の前に迫るようだった。たおやかでしずかだが、内側に烈しさを隠した川のように、からだのすみずみを流れてくる。血液を洗い流して、新たなものにするように。
主役の男と女が、薄暗い和室でくちづけを交わし、情事が始まった。
さらりとした唾をしずかに飲み込む。
互いのからだを慈しみ合うようだった情事は、徐々に男が女を喰らう、激しいものへと変わってゆく。
額に、ちいさな汗のつぶが浮く。
男が、女の中へと挿入した。硬い蛇が、やわらかな女の肉の中へ沈み、溶けて、貫いてゆく。激しく、淡く、快楽のかなたへといざなうように__。
右手が本から離れ、横向きでベッドに倒れ込んだ。片手で本を支える。右手は、ゆっくりと自身の太腿の上を這うと、股のあいだへと辿り着いた。大切な花芯は、青い光沢を持つ黒いサテン生地のボウタイワンピースによって隠されている。やわらかな布を持ちあげて、ゆびさきで秘めた場所をあばいた。ふれただけで、おどろくほど濡れて、熱くほてっていることがわかった。たまらず、ゆびで掻き出すと、痺れるような、あまい快楽が生まれてゆく。止められなくなった。
言葉は、雫原の本を読みながら、己を快楽の果てへと落とし続けた。
ときが経ち、最終ページを読み終わるころには、本を支えていたゆびは小刻みに震えて、使い物にならなくなっていた。ほとりと本をベッドに落とすと、ひらいたままの本のページが、開けた窓からこぼれる夜のそよ風に、はらはらとゆれてめくられてゆく。
荒い吐息をつきながら、深く埋まってしまった中指を、そっと己の花芯から取りだした。こぷりとした良い音とともに、ぬめった愛液が空に飛び散る。部屋の真珠色の照明に、きらきらとかがやいて、汚い恋情のかけらが、うつくしく見えた。
そう恋情__。
「……私は、おかしくなってしまったの?」
うす紅に染まる頬の熱を感じながら、言葉は、恋に落ちたことを悟った。
濡れたゆびを持つ手を、額に当てる。火のような熱さが手の甲に伝わった。ゆっくりとまぶたの上まで下ろすと、うれしいのか、せつないのかわからない涙が、ひとしずく、まなじりから頬を伝った。
窓に四角く切り取られた、透明な夜が運ぶそよ風だけが、やさしく顔を撫でて、言葉の熱を落ち着かせようとしていた。



