文学女子は、春に溶ける

 瑠璃を溶かしたような海が真横に広がっている。
 春の鎌倉の海はいつだってやさしい。荒い波風も立たず、今日の平和を祝福する白い波が、きらきらとアイボリーの砂浜へ手を伸ばしては引いてゆく。

「遠くにあるときはあんなに青く見えるのに、近づくとこんなにも透明ですね」

 微笑みながら、かたわらで雫原がひとりごちる。そのつぶやきは空気に消えずに、彼の新たな恋人が受け取った。

「そうですねぇ」

 他愛ない会話の応答でさえ、たのしかった。本格的に付き合い始めてみると、雫原の感性はときおり子供のようで、可愛げがあり、さらに彼のことがいとしくなってくる。

「あ、あぶないっ」
「え」

 握っていた手を雫原に強く横に引かれ、倒れそうになる。だが、肩に腕を回され、彼に抱き寄せられる形で背の高い恋人にもたれかかった。
 冬の名残をつれたような風が、さきほどまで言葉が立っていた場所にひゅうと流れる。
 下を見やれば、先程まで立っていた言葉の白サンダルから出るつま先に触れそうな位置に、スライムのような形をした波が手を伸ばしていた。
 礼を言おうと雫原を見上げると、目と鼻の距離に彼の顔がある。 
 互いにぽかんとし、なんだかおかしくなって笑い合うと、そのまま浅いくちづけを交わす。くちづけは初めて少ししょっぱい潮の味がした。
 今日の言葉は、白波のようなノースリーブのホワイトシャツワンピースで、チュールを重ねたうす紅のショールを羽織っている。丸い肩はショールに透けて桜の空気を纏ったようだった。
 ひだの大きな白い帽子は、砂浜の少し強い日差しをゆるやかに遮ってくれて、彼女の顔にうす墨の影をもたらしていた。
 そこから伸びる黒髪はさらさらと潮風に揺れて、紗幕のように春の空気の中を漂っている。耳にはしずく型のうす紅のイヤリングをつけて、こちらも風が吹くとちらちらとゆれてきらめく。
 白い霞の中で小さく咲く桜の花のようなファッションだった。
 対して雫原は、深緑の着物に同じ色の羽織、下駄と、色こそ春めいているが、いつも通りの地味な格好だった。
 だが、それでも言葉は海のひかりを受けて頬をしろくひからせる雫原に、また新たな魅力を感じていた。
 陽光にひかる海はゆらゆらと変形した丸いひかりを反射させて、それが伏せた雫原の切れ長のまぶたの上を踊ったりする。それがうつくしかった。
 ふたたび手を握り直すと、さらにあたたかくて、言葉はなにか切ないような気持ちになって、からまるゆびを深くした。
 歩き出す。
 すると、前方から日向を浴びに来たのか、50代ほどの年齢の女性が、こちらへ向かってゆったりと歩いてくる。腕には薄緑に白い鳥が描かれたエコバッグを持っている。中には夕飯の食材でも入っているのだろうか。
 通りすがり同士、軽く挨拶を交わして立ち去る。
 だが、女性ははっと何かに気付いたように顔をあげた。
「先生! 美男子の先生じゃないの」

 早足でこちらまで戻ってくると、雫原の前に立ち、鎌倉の世間話を始める。
 雫原は困り笑顔で、腕を頭の後ろにやると緩く掻いていた。
 談笑するふたりを交互に見やりながら、言葉はくちもとに手を当ててはっと目を瞠った。
 
(だから先生、外でデートしなかったんだわ……)

 雫原の家でばかり逢瀬を重ねていたころを思い返して納得する。
 外に出れば、地元の女性陣にこうやって声をかけられ、立ち止まらざるを得なくなる。
 だから、家でばかり逢っていたのだ。
 雫原は女性と会話している途中で、舌を噛んでむせた。

「ちょっと彼女さん、大笑いよ」

 言葉はそれがツボに入ってしまい、きゃらきゃらと海鳥のようにかがやかしい笑顔でいつまでもわらっていた。(完)


参考文献

・永田守弘(2016年),『官能小説の奥義』,KADOKAWA
・TUGE、“煙管の基礎知識”、2025-04-21、https://tsugepipe.co.jp/kiseru-basic/
・株式会社JR東日本建築設計、“鎌倉駅・シァル鎌倉リニューアル”2025-04-21、https://www.jred.co.jp/projects/p031.html
・Alwais Listening 音にこだわる人、モノ、コトをお届け、“蓄音機の歴史と仕組み〜オーディオライターのレコード講座〜”2025-09-06、
https://www.audio-technica.co.jp/always-listening/articles/gramophone/
・かずと、「【絶景桜】鎌倉で一番美しい桜スポット 段葛(鶴岡八幡宮 参道 若宮大路)」、絆と旅をテーマに、「ふたり」のライフスタイル情報をお届け futari style、https://futaristyle.com/kamakura-cherryblossoms-dankazura/、2026‐01‐15