文学女子は、春に溶ける

 冬の夜が寒いことも、ゆびさきが冷えることも、先程まで自分がうじうじと悩んでいたことさえも溶けて忘れてしまうほど、小説を書くことにのめりこんだ。
 髭を剃るのも忘れ、食事もとるのも忘れるほどだった。空腹に気づくのは、腹が鳴ったとき。体が合図してくれるまで、飲まなかった。
 かつてないほどの集中力が生まれていた。
 以前は小説を書くときは、25分書いたら5分休憩を取っていたのに、今の雫原は4時間ぶっ通しで書き続けても疲れず、飽きなかった。
 電話が鳴り、はっと手を止める。急ブレーキがかかったので、万年筆のペン先が、さっと原稿の上を走りそうになった。寸でで止める。
 居間へ向かい、黒電話を取る。

「はい」
「先生! 浅田です」
「きみか」
「ご体調はどうですか? もっとも、先生がご体調悪いのであれば新刊は延期、しばらくおやすみいただいても良いかと思っていまして、その件でご相談に……」
「やすみなどいらない。絶好調だ。このまま突っ走らせてくれ」
 
 自分でも驚くほどの、凄みのある声が出た。
 電話の向こうで、浅田が息を飲む気配があった。

「先生……。狼のような鋭さを身につけられましたね」

「はは……、そうかな」

 その後、浅田と小説についての軽い打ち合わせをし、受話器を置いた。振り返ると、昼の太陽は中空まであがっていて、雲を透かしながら、さめざめとしたひかりを窓越しにこちらへ注いでいる。
 目の下に滲むような痛みを感じ、眼鏡を取って眉間を揉む。
 ずっと酷使していたからか、眼精疲労が出ていた。

(顔を洗って……、水を飲もうかな)


 洗面台に向かい、顔を洗って手ぬぐいで拭い顔をあげる。
 鏡に映る己の顔を見た。
 目には灰色の隈が出来て、二重がさらにくっきりと出ている。頬はかすかに落ちくぼみ、以前よりも全体の印象が細く鋭くなっていた。

(痩せたな……)

 右手のゆびさきで、顎を覆うように両頬を撫でると、乾いていた。
 そのことに今更ながら改めて気付いて、冷えた笑いがこぼれる。
 てぬぐいを置くと、蛇口をひねり、新たな水を出す。片手で水をすくい、髪を適当になでつけて乱れを整えると、手を払って踵を返し、仕事部屋へ戻った。
 膝を折り、仕事机の前に正座する。
 まぶたを閉じ、息を吐く。ふたたびまぶたをひらいたときには、意識は目の前の原稿へ集中していた。
 かたわらに置いていた万年筆を取り、ふたたび小説の続きを執筆し始める。


「先生。原稿詠みました。色々と修正は入りますが、以前よりも文章と内容がより華麗に、読みやすく、研ぎ澄まされています。これはすごいことです。先生の技術が、短期間で進化したということですよ」

 浅田に、打ち合わせの電話でそう言われた。
 
「はい、ありがとう……」
「声、掠れてますね。大丈夫ですか。ちゃんと寝ていますか」
「寝てはいるよ。休める時に休んだほうが本当はいいのだろうが……」
「そのぶんだと休んでませんね。ちゃんと休んでください!」
「はは、母親みたいだな。きみは」
 
 笑い事じゃないです、と言う浅田の声が遠く聞こえる。
 小説が洗練されてゆくのと比例して、雫原の体や生活は(すさ)んでいった。このことに気づきながらも、小説を書く手が止められなかった。
 螺子(ねじ)が外れたことでやっと気付いた。自分は小説を書くために生まれてきたのだ。それ以外のことがおろそかになっても気にならないくらい、小説を書くことが生きる使命だったのだと。
 
(逆に小説が無かったら、俺なんて役立たずの廃人だな)

 皮肉な思いが胸に込み上げ、自嘲が漏れる。打ち合わせを終え、飯でも食おうかと思っていたのに、無意識のうちに仕事部屋へと足は進み、ふたたび休みなく小説を書いていた。ゆびや脳が原稿に吸い寄せられるようだった。紙と空気の境界は溶け、小説世界と自分が一体となる。この感覚は、一身になって書いた者だけが理解できる境地だった。
 自分の脳内の映像が、確かな形で文章に表されてゆく。今までは、頭で考えたことを100%伝える技術はないと諦めていたが、今ならばうつくしい形で表現することができる。悩んでいた人間関係も、いやなことも、小説を書いているあいだは濾過されて、ちいさな粉となって原稿に散りばめられ、登場人物たちのことで頭が埋め尽くされてゆく。
 やっと雫原は、紙の上で自由を手に入れたのだ。

 雫原の家の前まで来ると、いつも厳かな気分になる。普段自分が過ごしている層とは別の層へ、足を踏み入れたような肌触りがある。澄んでいてなお、静まっていて。和風な造りなのにベルがついていたり、褪せた緑の窓硝子だったり、ところどころ洋風なのがまた独特の瀟洒(しょうしゃ)さを醸し出していた。
 雫原から小説がもう少しで完成しそうだ、という連絡をもらい、家まで取りに行くと約束をした。拒否されず、歓迎されたので、勇み足で辿り着いたはよいものの、どこか身が(ひる)んでもいた。

(小説が完成してから来たほうがよかったんじゃないか……。先生が小説をふたたび書いてくれたのがうれしくって、あまり深く確認せず、勢いに任せてしまった)

 浅田は引き戸の前で躊躇していた。ベルを鳴らすか、鳴らさないか。人差し指が引っ込んだり、進んだりを繰り返している。
 
「だーれだ」

「うわっ!」

 背後から声をかけられ、肩が冷えて飛びあがった。
 振り返れば、背の高い男が波打つ髪をうなじで束ね、馬の尾のようにそろりとなびかせている。
 透けたベージュのレンズのサングラスをかけた瞳は、夜に出会う猫の目のように鋭く、驚く浅田を不思議そうに覗いていた。
 髪色よりも少しあかるいグレージュのファーコートを纏った下は、深緑の地に白のハイビスカスを咲かせたアロハシャツだ。真冬に季節外れの格好で、他の男だったら不審者同然だが、肩幅広く長い髪につやもあるこの男が纏うと、不思議と洒落ており、色気が出ていて似合っている。
 襟にかかりそうなワンレンの前髪を片手で払い、耳にかけると、男はくちをひらいた。

「えーっと……。どなたでしたっけ。雫原のお知り合いの方ですか? あいつ、交友関係狭いんで、これからも仲良くしてやってください」

 棒読みな声だった。うなじを左手で掻いてどこつかぬ視線を投げていた。
 
「ああ、いやいや私は、浅田と申します。雫原蔵之介先生の担当編集者です」

 名刺を出そうとし、この男の素性が知れないので、そんな相手に渡してよいものかと戸惑っていると、男は「あー」と気の抜けた返事をした。
 うなじにかけた手を後頭部へあげ、ぽりぽりと頭をかきながら「担当かー……」とつぶやいた。
 
「すみません。俺、こういうもんですっ」

 男はファーコートの中へ手を突っ込むと、アロハシャツの胸ポケットから銀の平たい名刺入れを取り出し、そこから一枚名刺を浅田の前に片手で差し出した。
 一連の流れが颯爽としすぎていて、浅田は固まっていたが、差し出された名刺を両手でそっと受け取り、名前を確認するとくちを開けた。

「えっ!? 東雲冬彦先生?」

「そーです。ごめんなさいね。名乗るのが遅れてー」

 和やかな笑みを浮かべる男は新進気鋭の成人向け漫画家・東雲冬彦だった。そういえばどこかの雑誌の取材で、写真を見た気がする。確かこんな出で立ちだった。ひとは突然の出逢いには記憶が飛んでしまうのかもしれない。
 だが、雫原は他の作家とあまり交友関係をにおわせないので、東雲と友人関係だという話は聞いたことがなかった。
 
「東雲先生が、雫原先生のご自宅になんのご用で?」
「あー、フツウにともだちっす。大学時代からの縁で」
「ええ!? そうなんですね」

 浅田は、あっ、と声をあげ、急いで自身も名刺を取り出し、東雲に両手を添えて差し出した。
 平謝りのように頭を下げ、「すみません、私、こういうものです」と地に向かって叫んだ。

「ああ、はいはい、ありがとね」

 東雲は人差し指と中指で名刺を挟むと、ぴっと浅田の手から抜き取り、目の前にかざして見やった。

「あさだサン」
「あっ、はいそうです。浅田烈といいますっ」
「いい名前ですね」
 
 名前を褒められたことはあまりなかったので、どぎまぎしてしまう。嬉しいという感情は、こそばゆいのかと知った。
 その後、共通の知り合いを持つ者同士特有の温度感のある雑談をした。芸能人のような華やかな雰囲気のある東雲に最初は気後れしていたが、会話のテンポをこちらに合わせてくれる気遣いが感じられ、緊張しいの浅田でもたのしく会話できた。
 その後、ふたりで交互に玄関のベルを鳴らしたが、雫原の反応はなかった。
 
「雫原先生、どうしたんでしょうね」
 
 浅田は息を呑んだ。

「……まさか、インフルエンザかコロナにかかって、中でひとり倒れてるとかじゃ……」

 東雲はファーコートのポケットに両手を突っ込み、なにか思案していると、ふいにひとりで歩き出してしまった。

「え。東雲先生?」

 東雲は大股で振り返らずに歩き、雫原邸の窓の前で立ち止まると、首を伸ばして中を覗き込んだ。
 浅田は肩に背負った鞄の紐を片手で押さえながら、急いで駆け寄り東雲の隣に並ぶ。
 
「いた」

 つぶやく東雲の視線の先に、雫原はいた。窓硝子越しに、半纏を着たまま背を屈めて一身に原稿に向かう、ぼさっと寝癖のついた頭があった。

「先生……」
「こりゃ反応しねぇわけだ」
 
 東雲はうれしそうに口角をあげた。

「やっぱ、はっぱかけといて良かったわ」

 なんの意味かわからなかった。だが、意味を問うこともしなかった。そのひとことで、このふたりの絆を感じ、雫原にもそういった気のおけない作家仲間がいたことに安堵した。浅田の知らない雫原の世界を垣間見ることができた。
 万年筆を動かしながら、何かを確認するように時折腕を止め、ふたたび書き始める雫原の姿に、こみあげるものがあった。胸のふちからお湯を流されたような温かい気持ちになる。気を抜くと泣いてしまいそうな。

「あいつなら大丈夫ですよ」
「雫原先生なら大丈夫です」

 浅田と東雲は、はっと顔を見合わせた。ほぼ同時に発言していた。
 東雲の驚く顔がみるみるゆるんでゆく。
 浅田も、腹からおかしみが湧きあがってきた。
 冬の冷えた空気の中、声を殺して笑い合った。くちびるの間から漏れる吐息は白く透明に重なりあって、湿って消えてゆく。


 最後の句読点を書き終えると、雫原は原稿のかたわらに万年筆をそっと置いた。
 インクでペン先は汚れ、芯の部分まで深い青に染まっている。

「あれ……ゆびさきまで、真っ青だ」

 万年筆を手から離して初めて気付いた。
 雫原のゆびさきは半透明に青く汚れている。

「まあいい。これでやりきった」

 原稿中、いつでも吸えるようにと、手の届く位置に置いていた煙管を取る。吸い口をくわえ、刻みたばこをつまみ、雁首にかるく押さえて入れ、マッチで着火する。
 淡い火がつき、煙を吸うと、胸をそらしてふーっとひとつ、吐き出した。
 透明になってゆく視界の向こうに、完成された原稿があった。
 もう何日もきちんと寝ておらず、食べてもいないというのに、不思議と心はかろやかで、澄み渡っていた。
 雫原は新たな境地に辿り着いていた。