文学女子は、春に溶ける

 伸ばしたてのひらの隙間を、透明な夜の紺が塗っている。自分のゆびさきから、このまま夜に溶けてしまえばいいのにと思う。
 そうでもしなければ、雫原との恋を忘れられなくなってしまう。頭が忘れようと心がけても、彼に抱かれ続けていた体が覚えていて、また熱を発してうずきはじめる。
 鳥肌が立つようだ。腕をおさえ、渇きはじめる体を押し込む。身に纏った桜色のパジャマのやわらかさだけが支えだった。このパジャマは、雫原の家では着ていない。私しか知らない素材。
 
「もう……いや」

 体を解いて本棚へ駆け寄ると、大切に並べていた彼の本をひとつひとつ床に落としてしまう。このまままとめて、どこかへ捨ててしまおう。そう決意したのに、最後にゆびにふれたのは、サイン会でサインしてもらった彼の本だった。
 
「あ……」
 
 驚いて身を縮めたら、ゆびに引っかかってサイン本が床へ落ちてしまいそうになる。
 両手で水を汲むように合わせ、腰を屈めて本を受け止めた。そのまま胸に抱きしめ、膝を床につくと、うつむいて唇を噛む。
背が震え、体が熱くなってきた。気付けば瞳が震え、大粒のなみだが、次から次へとあふれはじめる。
 ふとももへ、つめたい床へ、床と桜と白のまだらな色をしたカーペットの(はざま)へ。
 終わらない雨のようだ。
 月のやわらかなひかりが、そよぐカーテンを抜けて頬を伝うなみだをやさしく拭うように撫でてくれる。そのかがやきさえ、今はうっとうしいほどにひとりにしてほしかった。それほどに、孤独を望んでいた。
 言葉は抱えたままの雫原の小説を両手で持ち上げた。目の前に、読んだことで褪せた表紙とタイトル、そして雫原の名前がある。雫原の名前だけが、発光して浮き出しているようだった。
 ひといきつき、なみだも拭わずに本をひらく。
 文を目で追いながら、目の前に情景が立ち現れる。そのまま自分も透き通り、その中の一部になってしまう。
 本を持ったまま、後退り、ベッドへと座る。
 本は男女のセックスシーンに至った。
 言葉は無意識のまま右手を本から離すと、自身の股間へそっと下ろす。
 そこは、熱い液で濡れており、男を受け入れる準備がととのっていた。
 ゆびをそのまま進める。くちをうっすらと開け、喉の奥からくぐもった声が漏れた。それを恥ずかしいとも思わなかった。
 むしろ、未だに自分はうるおい、乾いていないことにどこか安堵していた。
 前進の力を抜き、ゆびさきと股間にだけ意識を集中し、仰向けに倒れる。
 胸の上を、冷めて澄んだ空気が通り過ぎる。どこか神聖な儀式めいていた。古来から、女と男が混じり合うのはもとを正せば子を作るため。そこに恋愛感情が生まれているからこれほどまでにセックスは切なく、いとおしく、ややこしくなっている。
 
(なぜ私は……、これほどまでに、あのひとへの恋愛に対して意地汚くて、執着が捨てられなくて、自分で自分を苦しめるんだろう……)

 気付けば、言葉は雫原の小説を右手でひらきながら、ふるえる声でしずかに朗読していた。そして、
その文章と己の声で高まり、自慰する左手は止められなかった。