浅田と決めていた次の締切日までに、原稿が完成できなかった。いつも雫原は、締切ギリギリまで原稿を提出しないことはなかった。これまで余裕を持って締め切りを守ってきていた。
こんなことは、デビューしてから初めてだった。
締切日を過ぎてから、浅田に謝罪のメッセージを送ったが、原稿が遅れてしまった理由は書かなかった。原稿をいつまでには仕上げると打とうとして、その文章を削除する。今は何もアウトプットできる気がしなかった。ひとりの女にかまけ、多くの大切な読者をないがしろにした自分に何が書けるというのか、いや、言葉もその読者のひとりではないか。そうだ、自分はファンに手を出した最低の作家くずれだ。自責の念は続き、睦月の冷えた空気は一層肌に染み込んで心を刺してくる。
浅田への連絡を返せずにいると、向こうから再度連絡が来た。
体調や精神面が心配なので、一度会って話したいということだった。
雫原はその連絡を読み、ゆびを動かそうとするが、活力を失ってふっと動きを止めてしまった。以来、パソコンをひらけずにいる。
数日経った、寒い朝に、突然玄関を叩く音がした。昨日は雪が降った。まだ溶けておらず、まぶしいほどに白い雪の原が庭にも広がっている。こんな時に誰だというのだろう。
厚い布団にこもって横になり、文庫本を読んでいた雫原は、かたわらに置いていた眼鏡をかけて、そっと起き上がり、玄関がある方角を眺めた。寝間着がはだけ、首筋や鎖骨が、澄んで冷えた空気にしんと張る。ゆびでふれると、熱がそこにだけ集まった。起き抜けに、ふと言葉の横顔がフラッシュバックし、頭を強く振る。最近の癖だった。何もしていないと、自動思考で彼女のことを考えてしまう。
(今は、玄関の主に集中しろ……)
背筋を伸ばし、布団を剥いで立ちあがると、身なりを整えながら玄関に向かった。
相手を確かめもせずに引き戸を開けると、心配そうな顔の浅田が立っていた。赤白のニット帽であかるい茶髪を頭を包み、厚いノルディック柄の赤いミトンをはめて、背負った黒いキルティングのリュックを背負っている。ちいさな雪山に挑むおしゃれ登山者のような出で立ちだった。
雫原が流行り病だったときの対策だろうか、きちんとマスクもしていた。
眉を寄せ、眸を揺らし、心配そうにこちらを見やっている。
「先生、どうされたんですか? すみません、どうしても心配でご自宅まで来てしまいました。ご無礼をお許しください!」
マスクの布越しに、こもってはいるが、聞き慣れた浅田の伸びやかな声がした。そこに掠れた不安が混じっている。
「寒い中来てもらってすまないが……、帰ってくれ」
瞬間、何故か怒りが胸の内側からふっと沸いてきて、ひらいた引き戸を勢いよく締めた。
バン、と大きく音が鳴り、引き戸の向こうで浅田が息を吸って身を縮めたのがわかった。
鍵をかけ、浅田を拒絶する。
腕を伸ばし、引き戸に手をついたまま上半身を倒して、雫原は荒い息をついていた。
(俺を心配して雪の日にも関わらずこうして訪ねてくれた浅田くんにまで、こんなふうに当たるなんて、本当に最低なやつだ。俺は__)
浅田が先生、先生と、こちらを呼びながら引き戸を叩く音がする。
雫原は腕をおろし、虚脱したように引き戸に背をつくと、その静かな揺れを感じながら、ただじっと虚空をみつめていた。
引き戸の硝子から漏れる冬の朝陽が雫原の頬を撫でる温かさだけが、唯一の救いだった。
こんなことは、デビューしてから初めてだった。
締切日を過ぎてから、浅田に謝罪のメッセージを送ったが、原稿が遅れてしまった理由は書かなかった。原稿をいつまでには仕上げると打とうとして、その文章を削除する。今は何もアウトプットできる気がしなかった。ひとりの女にかまけ、多くの大切な読者をないがしろにした自分に何が書けるというのか、いや、言葉もその読者のひとりではないか。そうだ、自分はファンに手を出した最低の作家くずれだ。自責の念は続き、睦月の冷えた空気は一層肌に染み込んで心を刺してくる。
浅田への連絡を返せずにいると、向こうから再度連絡が来た。
体調や精神面が心配なので、一度会って話したいということだった。
雫原はその連絡を読み、ゆびを動かそうとするが、活力を失ってふっと動きを止めてしまった。以来、パソコンをひらけずにいる。
数日経った、寒い朝に、突然玄関を叩く音がした。昨日は雪が降った。まだ溶けておらず、まぶしいほどに白い雪の原が庭にも広がっている。こんな時に誰だというのだろう。
厚い布団にこもって横になり、文庫本を読んでいた雫原は、かたわらに置いていた眼鏡をかけて、そっと起き上がり、玄関がある方角を眺めた。寝間着がはだけ、首筋や鎖骨が、澄んで冷えた空気にしんと張る。ゆびでふれると、熱がそこにだけ集まった。起き抜けに、ふと言葉の横顔がフラッシュバックし、頭を強く振る。最近の癖だった。何もしていないと、自動思考で彼女のことを考えてしまう。
(今は、玄関の主に集中しろ……)
背筋を伸ばし、布団を剥いで立ちあがると、身なりを整えながら玄関に向かった。
相手を確かめもせずに引き戸を開けると、心配そうな顔の浅田が立っていた。赤白のニット帽であかるい茶髪を頭を包み、厚いノルディック柄の赤いミトンをはめて、背負った黒いキルティングのリュックを背負っている。ちいさな雪山に挑むおしゃれ登山者のような出で立ちだった。
雫原が流行り病だったときの対策だろうか、きちんとマスクもしていた。
眉を寄せ、眸を揺らし、心配そうにこちらを見やっている。
「先生、どうされたんですか? すみません、どうしても心配でご自宅まで来てしまいました。ご無礼をお許しください!」
マスクの布越しに、こもってはいるが、聞き慣れた浅田の伸びやかな声がした。そこに掠れた不安が混じっている。
「寒い中来てもらってすまないが……、帰ってくれ」
瞬間、何故か怒りが胸の内側からふっと沸いてきて、ひらいた引き戸を勢いよく締めた。
バン、と大きく音が鳴り、引き戸の向こうで浅田が息を吸って身を縮めたのがわかった。
鍵をかけ、浅田を拒絶する。
腕を伸ばし、引き戸に手をついたまま上半身を倒して、雫原は荒い息をついていた。
(俺を心配して雪の日にも関わらずこうして訪ねてくれた浅田くんにまで、こんなふうに当たるなんて、本当に最低なやつだ。俺は__)
浅田が先生、先生と、こちらを呼びながら引き戸を叩く音がする。
雫原は腕をおろし、虚脱したように引き戸に背をつくと、その静かな揺れを感じながら、ただじっと虚空をみつめていた。
引き戸の硝子から漏れる冬の朝陽が雫原の頬を撫でる温かさだけが、唯一の救いだった。



