雫原は書斎がすきだった。夕暮れ時になると、()き出し窓からこぼれる淡々とした(あかね)の、溶ける陽光をにじませたいろが、折りたたんだ膝のうえでゆるやかに踊っている。言葉を何も発さず、何も思考をめぐらせず、その色を、首を落としてみつめているだけで、疲れていた心やからだが休まるのだ。
今日も浅田が帰ってから、雫原はひとり、書斎のすみでしずかに正座してたたずんでいた。
部屋は季節の気温でほどよく冷えていて、夜に向かうにつれて、着物とひとしい紺の羽織を着て、そっと(だん)を高めた。あかりもつけず、中指とひとさし指のあいだに、浅田からもらったファンレターをつまみ、ひらひらと遊ばせている。やがてぴんと二本のゆびを伸ばすと、そこにうつった夕の影をじっとみつめてから、紫檀(したん)書斎(しょさい)(づくえ)にひざを進めた。
机の上の真中(まなか)に、やわらかく灰青色の封筒が主張している。濃い赤紫の机の色とあいまって、輪郭(りんかく)が淡くぼやけているようだ。秋のいろをした机に、空を切り取った花弁がひとひら落ちている風情(ふぜい)がある。
雫原は右の手首を曲げて、甲に頬をのせ、じっとその封筒を見落としていたが、やがてうすくくちびるを開けると、ゆるくゆびを内側にまげて、ひとさしゆびでそっと封筒を示した。
「丁寧な包装(ほうそう)に、うつくしい筆致(ひっち)文体(ぶんたい)。現代の若者にあまり見ない古風さを感じる。ファンレターなんてもらうのは、いつ以来だろうか」
 ゆびの腹で撫でると、やはりさきほどと同じ、乾いているが、どこかしっとりとした感触がする。そのまま、ふれるかふれないか、というほどの距離で、差出人「浅桜言葉」の書いた文字をゆっくりとたどっていった。
「送り主は老紳士(ろうしんし)だろう。俺の官能小説は男向けで、読者なんて、ほとんど男しかいないんだからな」
 紙と文字のあいだの、かすかなへこみさえも(すく)うようにたどっていたゆびさきが、最後の一字をなぞった。爪でかるくひっかいてから、ゆびを離す。その手をふたたび頬にあて、うすく(ひら)いたくちびるに、小指のさきをそっと当てる。
 にぶい陽光が、舐めるように雫原の頬と手の甲を撫でてゆく。
夕の茜が夜の藍に溶け、つめたい(よい)にあたりが包まれても、雫原は体勢を変えることはなかった。
ただ凛とした時ばかりが、彼のまわりを流れてゆくだけ。

空気がより澄み渡り、肌が透明になって、闇に溶けて混ざってゆく。夜になると、黒の中に存在する己の感覚が不可思議になり、よりひえた孤独を感じる。
また、苦手な夜がやって来た。仕事は常に昼に終えるようにしており、字数のノルマを達成すれば、夜は作業しないと決めていた。そのため、午前零時(れいじ)を過ぎれば、いつもねむりに落ちている。ときおり不可思議な夢をみて、苦しんだり、かなしんだり、よろこんだり、普段あらわにしない感情の波に洗われているときもあるが、起きると内容も(おぼろ)になり、動き出せば、ほぼ忘れてしまう。大抵は深いねむりから覚めたおかげで、疲れもあまり残さない。毎日、効率良く仕事できる方法を優先している。ねむりもそのひとつだ。
だが、今宵(こよい)はめずらしく、夜と朝のはざまで目覚めてしまった。
遠くのほうで鳴いている鈴虫の高い声が、かたわらで鳴いているように鮮明に聞こえている。その音に耳を研ぎ澄ませていると、森の葉がゆれて、互いにさわりあう、さらさらとした音や、夜風のそよぎすら耳に入る。それでようやく、自分がいつものねむりから、夜に置き去りにされたことを知る。そよそよと皮膚の上を流れる風のつめたさを浴び、ねむりでこもったかすかな熱を冷ますと、ゆっくりと起きあがった。
前髪以外を短く整えた髪が、夜のしんとした空気を残して、溶けるように湿っていた。片手のゆびを曲げたまま、添わせるように髪のはざまに入れて掻くと、ひらひらと癖のついた髪がゆれる。たわんで波打つぬばたまの黒髪は、青い光沢を宿し、ゆびを離すと落ち着いた。前髪が、半分伏せられたまぶたの上で踊っている。その隙間からまっすぐに見えていたのは、書棚(しょだな)、それから、その下にしんと低く置かれている文机(ふづくえ)であった。夜に溶けた色をしている、紺のカーテンが、夜を透かし、こちらまで、月をまとったひかりがうっすらと忍び寄り、文机の上に、道を作っていた。細く、そこだけくっきりと水色の筆で、腰をかがめて絵師が塗ったようだ。
雫原は、ぼやけていた視界が、その道をみているときの中で、落ち着いてくるのを感じていた。左膝を立てて、そこに置いていた手をはら、と敷布団の上に落とし、文机までにじり寄ると、引き出しを開ける。水をふくんでほどよく湿った秋の夜に、からりと乾いた音をたてて、木材がこすれる音が鳴る。
物は少なく、執筆のときに使う、こっくりと深い紅色をした万年筆と、ブルーブラックと、黒のインクが入った硝子(がらす)(びん)。その横に、日がある今日に浅田からもらったあの封筒が一通、ぽつりと置いてあった。封を裏返し、ふたたびあの(しろがね)の文字を追う。
「浅桜言葉」。
昼に目にしたのと同じ、上品な筆致で書かれた名前。それじっとみつめたまま、ふたたび布団に戻ると、天を仰いで寝転がり、封をはらりとひらいて読んだ。
自然と寝間着がはだけて、胸元があらわになる。冷えた空気が肌にふれる面積が広くなり、より夜に浸透してゆく。
「浅桜、言葉」
 声にだしてみる。しっとりと湿度のある雫原の声は、昼よりも夜に馴染んだ。あまい余韻(よいん)が語尾に残り、空気がふるえるようだった。
 封筒に書かれたのと同じ、上品な筆跡がある流暢(りゅうちょう)な日本語で、手紙は書かれていた。うすい素材の紙で、闇を透かして発光しているようだ。まだ浅田からもらってから、一日しか経ていない。だというのに、もう何度も読んでしまっている。自作の小説ですら、推敲(すいこう)が終わってしまえばほとんど読み返すことはないというのに。文字に心とからだが吸い寄せられるようだった。こんなことは初めてだった。内容はありきたりにも、独自性があるようにも読み取れた。丁寧な季節の挨拶から始まり、本の感想、また次の作品もたのしみにしているという、未来への期待を込めた終わり。すべてが雫原の小説に向けられた、愛のあるものだったが、そこから書き手自身の情報は得ることはできなかった。いい意味で落ち着いているが、感情が感じられないとも言えた。書かれた言葉のすきまから、この書き手の感情や意思が何か伝わればよいのだが、と考えたが、古風な言葉遣(ことばづか)いと、上品な物言いから、老紳士(ろうしんし)(ぜん)とした印象ばかりが、思い浮かばれた。
 妙齢(みょうれい)な武士のような凛とした(たたず)まいのご老人が、しずかに淡いライトのついたデスクで、就寝前にことばを選んで紡いでくれた(さま)を思い浮かべて、まろやかに微笑んだ。そして、ふたたび失われていた眠気が、頬に羽がふれるように訪れる。
 ゆびさきで丁寧に、ふたたび手紙を元の形へ折りたたみ、封に入れて枕元に置いた。
 暗くなってゆく視界の中で、「ことばか……」とつぶやく、自分のかすれた声が聞こえた。完全におとずれたくらやみの中で、もう一度枕元に手を伸ばし、無意識にひとさし指の先でふれていた。
 
 仕事と日常で時間をやり過ごしていたら、もうその日になっていた。空気がさらに澄んで、冬のにおいを(まと)いはじめた十一月。穏やかに流れる空気に身を任せていたら、気づかぬあいだに、時はかたわらで、確実に流れ続けている。ゆびでつまめない速度で。
雫原は、新宿の大型書店のサイン会場に、浅田と共にやって来ていた。元々イベントを行うためのスペースが確保されている場所で、サイン会までの運びもスムーズに行われていたので、雫原自身の日常が害されるなどの負担は無かった。だが、普段引きこもって作業しているばかりの日々を送っているので、大勢の人々と一度に顔を合わせて接するのは慣れていない。サイン会を今までの作家人生の中で(おこな)ったことがないわけではないが、以前行ったのがいつだったか(さだ)かではないほど、仕事の中に記憶が溶けてしまっている。
それに、雫原はひとの顔と名前を覚えるのが苦手だった。自分から興味を持った人間やことがらにしか、関心を抱けないからだ。申し訳ないが、以前サイン会に来てくれた読者のことも、もうおぼろにしか覚えられていない。だから、前回のサイン会であったことを、もし会話の中で尋ねられたとしても、まっとうなこたえを返せるか、自信がなかった。
作家の気持ちの億劫(おっくう)と、()だ見ぬ原稿の向こう側に、確かにいてくれていた読み手に会えるという高揚入り混じった気持ちが、からだの中で()ぜていた。雫原に用意された席は、あざやかなブルーのパイプ椅子だった。
店内の、人工的な照明に鈍い鉄のひかりと、ほどよいつめたさが、なぜか心を落ち着かせてくれる。
長机には、銀のサインペンと、青紫のりんどうのフラワーアレンジメントが置かれている。どちらも、新刊の青い表紙の本に似合うようにと、用意されたものだった。
隣には、ブルーグレーのスーツを着た浅田が、神妙な顔でいた。彼もかすかに緊張しているのだろう。
待っていると、最初の読者が段をのぼってやってきて、サイン会が開始された。
最初の読者と、二言(ふたこと)三言(みこと)、会話を交わした。他愛ない雑談と、本の感想についてなど。そして、本を置き、表紙をひらき、本扉(ほんとびら)にサインをする。雫原のサインは、凝ったデザインのものではなく、自分の名前をそのまま書いただけのものだった。サインを考えるのが苦手で、気を回していないあいだに、最初のサイン会が来てしまって、これが定着してしまっていた。簡素だが達筆(たっぴつ)で、払いの部分に独特の癖があり、見るひとが見れば、雫原の字とすぐにわかる。
このときばかりは、普段無表情が常の雫原も、笑顔を浮かべて対応していた。ひとと接するのは苦手だと思っていたが、自分の本を読んでくれていて、自分と編集部しか知らなかったかもしれない世界を、ことばで共有できるのがうれしかった。()かれる質問にも、答えられる範囲で答えた。
予想通り、来場者は男性ばかりだった。十数人の読者を見送り、次の読者がまた、目の前にやってくる。今度は四、五十代の男性だった。きちんと油でオールバックにまとめた髪は、しっかりとした質感で照明に鈍くかがやき、白髪がまばらに散っている。肌は小麦色で、休日にスポーツをしていそうな会社員といった風だった。
様々な男たちと話すことで、今まで考えもしなかったキャラクター像が浮かびあがり、次の作品づくりに生かせる要素も手に入れられる。そういったよこしまな考えも生んでしまっている自分は小汚い作家だなと、ひとり心の中で、あきれたため息を吐いた。
男が持つ本を両手で受け取り、ふたたび中扉(なかとびら)にサインをほどこした。今回の本の中扉は、(へき)瑠璃(るり)(いろ)の表紙に合うように、(あわ)藤色(ふじいろ)のなめらかな薄青(うすあお)だった。そこに銀色のサインが走り、さわやかな仕上がりになる。それをひとりひとりの読者が持って帰ってくれる背を見送るのは、言いようのない幸福感があった。
「ありがとうございます。雫原先生の小説、いつも読んでます」
「ありがとうございます」
 当たり(さわ)りのない返答になってしまった。それほど深い会話が得意ではないことに、多くの読者と話す機会を得て気づく。
 男は神妙な顔になり、まぶたを閉じて満足そうにこぶしを胸の前で握りしめた。
「いやっ、もう、濡れ場に至るまでの描写が最高で……」
 雫原は手を止めて、乾いたわらいをこぼした。
「男性読者の(かた)は、行為の部分に注目してくれる方のほうが多いのですが、行為に至るまでも、個人的に力を入れているので、感想をいただけてうれしいです」
やわらかな笑みを浮かべながら、両手で本を持ち、そっと男に手渡す。布張りの表紙の真ん中に、ひかりがふれた。 
男は、それをうれしそうに受け取り、去ってゆく。
いつも仕事終わりに、家族がいる家で隠れて読んでくれているのだろうか。自分の書斎で? それとも独身の、広々としているが質素な部屋のなかで、温かなライトのともしびをたよりに、眠る前のともとして読んでくれているのだろうか? 読者の生活まで、どうしても空想してしまう。
刹那、あたりの空気が一温澄み渡り、水色のとばりが訪れたように見える色彩が変化した。そして、どこからか桜のかおりがふわりと漂い、雫原の前髪と頬をそっと撫でた。
次のサインを書く準備をするために、かすかに顔を伏せていた雫原は、すみやかに顔をあげた。
それと同時に、風のような女があらわれた。尻まで届くような長い黒髪をなびかせて、雫原の目の前までやって来た。右に流れる黒髪が、照明のひかりに染まり、ひらひらと白い光沢を浮かべて、端から夜のいろに溶けてゆく。雪のように白い肌が、(まと)った黒いチェスターコートから覗き、よりいっそうしんとした白さが際立っていた。
 雫原は、彼女を見て驚いて瞠目(どうもく)していた。枯れた男たちばかりの群れの中で、花が一輪(いちりん)咲いたからだ。それも(あか)ではなく、(りん)とした黒き花。
 女は、焦点の定かではない夜の黒いひとみをしていた。ふちも黒。瞳孔(どうこう)もくろく、青みがかっている。かすかなひかりも浮かんではいなかったが、雫原と視線がかち合うと、泉の上に、ひとひらの花弁が落ちたようなひかりを浮かべた。
「雫原先生……」
 水滴がまっすぐに落ちてくるような、しずかだが質感のはっきりとした声だった。透明感があり、どこか濡れているようにも聞こえる。
 ゆれるまなざしに射止(いと)められ、雫原は身動きが取れなくなった。喉にためたつばが、意図せず、しずかに嚥下(えんげ)する。
 目の前に、両手が差し出される。花を抱く前の形にも似て。(とう)間隔(かんかく)にやわらかなふしのついた、まっすぐな細いゆびさきは、かすかに震えていた。
「サインを、これに」
 彼女の声がふたたび前髪にふれたことで、ようやく雫原は世界に意識を取り戻した。頬を打たれたような抜けた顔から、芯のしっかりとした作家の顔に戻る。読者と対峙したとき用の、さきほどまでの表情(かお)だ。ひらけていたまぶたが、すとんと(まなこ)の真ん中まで落ちてくる。
「ああ……、はい」
女のしらうおのゆびさきに、そっと乗せられた本に目を落とす。
彼女がやってくるまでの読者が、雫原に差し出したものよりも、表紙の色は()せていた。束ねられた紙は黄ばみ、端がかすかに破れているページもある。パステルカラーの付箋(ふせん)が、ところどころ挟まれている。全体的にふるびて、使い込まれていた。何度も読んでくれたことが()()る。
雫原はふたたび女を見上げた。今度は首を動かさず、目だけで。
女は、先ほどと(ひと)しくしずかな顔で、感情は感じられない。感じられないが、瞳にだけ意思が宿っていた。半分まぶたを伏せ、髪色とおなじ長いまつげの影が、白い頬に細長い青い影を刻んでいる。くちびるだけが、顔の控えめな色彩の中で、浮きあがって目立っていた。はっきりとした(あざ)やかな赤だった。血を塗ったように、ひとしずくの黒を混ぜたあか。秋の季節の中で、ひとりだけ真冬の空気を連れてきた。しんとしずかで、空気に氷の粒が浮き、ふれた肌を冴え渡らせる。暗い闇に浮かぶ白い星ぼしの灯りだけが、どれだけ温かか思い知らされる、そんな真冬の。
ひととのあいだに、彼女だけの境界を張るタイプだと思った。それが今、雫原と彼女のあいだでだけ、まるく破れている。彼女が張っていた、うすい水色の膜が破れているから、世界の色彩が変わったのだ。
「本名でサインしてよいですか。いつもサインは、その方の本名を書かせていただくので」
 毎度目の前にやってくる読者に、尋ねていることばを重ねた。
 女は、列に並んでいるときに事前に渡されていたちいさな四角い紙に、自分の名前を書いていた。
 まぶたを伏せて、エナメルの黒いショルダーバッグに仕舞われていたその紙を、優美な仕草で取りだし、雫原の前にそっと差し出した。 
 ゆびさきで摘むように受け取る。そこには、「浅桜 言葉」と書かれていた。
雫原は驚いて、ふたたび目を(みは)った。
「あさくら、ことば……」
視界がゆれる。脳裏で、書斎の机の引き出しに、大切に仕舞われている一通のファンレターを思いだしていた。陽炎(かげろう)のように、灰青の手紙が、目の前の四角くちいさな紙に重なって溶けてゆく。
控えめだが優美(ゆうび)なその文字は、何度も目にしたことのある字だった。
(あさ)(くら) 言葉(ことのは)です」
 読みを間違えられたと思ったのか。とっさに女__言葉は口をひらいた。焦ったように早口になっていた。
「ことのは……」
 口にだすと、なめらかな輪郭をともない、胸のあいだに落ちてきた。花が一輪落ちてきたような、やわらかなつめたさで。
「先生、せんせーい。 手が止まってますよ!」
 浅田が腰をかがめ、雫原に顔を寄せて、小声でささやく。
 それでやっと気づき、体の筋を動かして、顔を落とすと、サインを書くことに意識を集中させた。自分の名前よりもちいさな字で、横に「浅桜 言葉」と入れる。とめ、はね、はらいで、字をなぞるように、何度もその名を確認した。
「あの……、これも……」
言葉が、手に持っていた、紙袋をそっと差し出した。左手を底に添えて。ライトブルーの爽やかな色だった。
浅田が受け取り、かるくひらいて中身を確認すると、ぱっと顔をあげ、雫原を見下ろして、あかるい笑顔を咲かせる。 
「ああ! ありがとうございます。よかったですねっ。先生! 先生の好物の、チョコレートですよっ。それもゴダバの!」
 後でご確認してくださいね。と言葉を添えて、他の読者からもらったプレゼントを入れたプラスチックの箱に、丁寧に入れてくれた。
 言葉は、ふたりから目をそらして、頬の横をまっすぐに流れていた、ひとふさの黒髪を、ましろい耳にかけた。浅く頬が薄紅に染まっている。照れているのだろうか。
「……先生のイメージだったので」
「ああ、ありがとうございます」
 確かに、青とチョコレートは、雫原のすきなものだった。そういえば、どこかの本の作者紹介欄に、それとなく書いた気がする。自分でも忘れていたことを、思いださせてもらえた。ちゃんと自分の本をすみずみまで読んでくれていたことが、それだけで伝わった。
 雫原は、言葉に本を片手で渡した。
 言葉は本を両手で受け取ると、中扉をひらいてサインを確認する。目でなぞるように、さきほどよりも大きく見開いて。黒にひとつ(ぼし)だけのひかりが浮かんでいるばかりだった瞳に、ひらひらと白い花がふりそそぐように、ひかりが次々と浮かんでくる。再度いのちを取り戻して。
突然、流れるような仕草で本を胸におし抱いた。まるいまぶたを伏せたかと思えば、頬に、ひとしずくの涙が流れ落ちる。透明なそれは、やわらかな頬に透けて、顎をつたって消えていった。
 雫原は唖然(あぜん)として、息を止めた。
 無意識に片手を伸ばしていた。
 しかし、それが女に届くことはなく、ひらと花弁が散るように黒髪をひるがえすと、背を向けて段を降り、彼の下から去ってゆく。颯爽(さっそう)とした動きだった。辺りを覆っていた水色のうすい空気の膜は消え、ふたたび無機(むき)(しつ)な照明の白に包まれる。いつの間にか、香りも変わり、さきほどまで鼻先にあまく気だるげなものがふれていたことに気付かされた。
彼女が消えたあとも、香りだけが、くっきりとした残像を、その場に焼き付けていた。