自室の窓を少しひらき、部屋の中にこもった熱を逃す。その熱は暖房でもなく、言葉の体からうまれている。熱くもなく、本当は、ゆびさきまで凍えるほど寒いはずなのに、額や頬に火が灯ったようだった。雫原の新刊は、言葉に火照りと焦りを与えていた。彼の書く小説の性行為は、この生身で体験したことがあると確信してしまってからは読み方が変わってしまった。
彼の作風を変えてしまった原因は、自分の存在にある。そのことに気付いているのは、雫原の読者の中で言葉だけだろう。
ゆびがふるえ、本のページを開けなくなる。続きが気になり、早く読みたいほどに雫原の小説は面白い。なのに、心が追いつけなくなっていた。
本を閉じ、机の上に置くと、両手を太ももの上に乗せてうつむいた。長い黒髪が、カーテンのように顔を覆う。いまはその帷がありがたかった。
「寒さのせいよ。きっと、そうに決まってる」
いつわりをうそぶいて、心を落ち着かせようとする。体を労らず、暖房もつけずに本を読んでいたので、吐く息すら透明な白だった。なんとなく、罪の意識を感じてしまっていた。
そのまま体が動かなくなりそうになり、これではいけないと頭を振ると、立ち上がり、黒いコートを纏った。
家を出て向かったのは鎌倉駅だった。冷静な判断ではなかった。何も考えず、心のままに赴いて、いつの間にか鎌倉駅に着いてしまっていた。着いて、頬につめたい空気を感じてから、自分は一体何をしているのだろうとしばらく呆然としていた。
電車に乗っている間も、普段ならば文庫本を片手に過ごしているというのに、今日はじっと窓の外ばかり眺めていた。景色は脳で結ばれず、ただ瞳の上を流れてゆくばかりであった。
師走の鎌倉は遠くに見える山々がところどころ剥げ、秋の名残が終わろうとしている。これからさらに白く掠れてゆくだろう。そのとき、自分はどのような立ち位置にいるのだろう。
雫原の家に寄ろうか悩み、動けなくなる。新刊のことを思い出すと、行く勇気が出せず、ふらふらと鎌倉をさまよった。気が済むまで歩いて、疲れれば頭の中もすっきりするだろう。もし雫原とばったり会ってしまったとしても、そのときはそのとき。そう考えて鎌倉の風を浴びる。
青いカシミアのマフラーも巻き、黒い革の手袋もしてきたので、しっかり防寒はできていた。こもる熱と、額や頬、ときおり後ろ髪が舞い上がり、うなじにふれるつめたさの対比の感覚だけが、無心になろうとしている言葉を現実に戻す。
どうしても寒いと、雫原に抱かれたいという切ない気持ちになってしまう。それは衝動ではなく本能だった。まなじりに涙がたまり、こぼれおちそうになるのを、くちびるを噛んで耐えた。
脚だけを動かし、脳で考えることから、体を動かすことに集中しようとする。
いつの間にか鎌倉駅から結構離れてしまった。
「あれ、ここ雫原先生の家の近くじゃないかしら……」
ふと気づき、見上げると、見慣れた通りや家々がつらなっている。道順は完全に一緒ではないが、この通りをふたつほど過ぎてまっすぐ行けば雫原邸に辿り着いてしまう。
「なんで……、なんで!」
引き返そうと踵を返すが、思ったよりも早足だったので、脚がぐらついてよろけてしまいそうになる。かかとで地を強く押して、なんとか体勢をととのえる。視界の方向が変わり、まっすぐみつめた先に古民家カフェがあった。
とりあえずココアを飲んで、心を落ち着けたい。帰るにしても今の状態ではぐらぐらと揺れてしまっているだろう。雫原と入ったことのないカフェだったので、彼はおそらくここにはいないだろうと検討をつけて、歩みを進め、中に入った。
店内に入ると、ヒノキの良い香りがした。全体が木造だからだろうか。真ん中に囲炉裏が炊かれており、炭の上で踊るあざやかな炎が目に痛い。柱は飴色がかったつやがあり、年月を感じさせた。
店員に案内された席に向かう途中で、衝立の向こう側に、見慣れた頭髪が見えた。
__うそでしょう。
足を止めそうになるが、今止めたら店員に不思議がられ、声をかけられるだろう。それを避けるために、言葉は早足で席に着いた。
店員が近づき、今声が出しづらいと嘘を示すために、喉に手をあて眉を寄せる。
メニュー表の中に書かれたホットココアを、ひとさしゆびで指し、頼んだ。
衝立の向こうから、男の声がふたつ聞こえる。慣れた間柄だけに発生する、ゆるやかさと他愛もなさがあった。
ひとつの声は、あきらかに雫原だった。閨での尖ったようなあまい声とは違うが、落ち着いているときの日常の声がする。いとおしさで胸が満たされ、同時に切なさや不甲斐なさも込み上げてきて、太ももに置いた手が震え、熱くなる。うつむき、黒髪が影を落とした。
(聴いたことのない先生の声。とても楽しそう。私といるときは、あんなふうに喋ったことはなかった……。私がいなければ、雫原先生は他のひとと、あんなふうに楽しい時間を過ごすことができるんだ。小説の内容も、変わることはなかっただろう……。私がいなければ)
こちらに気づかれてはいなかった。衝立の向こうの雫原は、きっと見たこともない表情をしているのだろう。
テーブルにココア分のお金を置き、そっとしずかに席を立った。誰とも話したくなく、視線を交わしたくなかった。
不思議そうにする店員の視線を感じながら、早足でカフェを出てしまう。
時間が少し経っただけなのに、外は切るように冷えてしまっていた。両手で己の体を抱きしめながら駆け足で走る。黒髪が右へ左へ舞い、細い髪の間から冬の凍てつく風がふれてくる。
どこに向かっているのかもわからず、前を見ないまま闇雲に走り、立ち止まると額から汗がこぼれ落ちる。荒い息をつき、スマートフォンを取り出すと、雫原の連絡先を検索し、勢いのまま削除してしまった。
乱れた髪が汗で額やこめかみに張り付いている。
視界にうっすら白い靄がかかっているようだった。
(私は……、私たちはこのままではいけない。彼の仕事のことや自分の進路のことを考えたら、お互いがめちゃくちゃになってしまう。離れなくては。この愛をやめなくては……)
スマートフォンのひかる画面をまばたきもせずにみつめたまま、言葉はしばらく冬の中に孤独だった。
彼の作風を変えてしまった原因は、自分の存在にある。そのことに気付いているのは、雫原の読者の中で言葉だけだろう。
ゆびがふるえ、本のページを開けなくなる。続きが気になり、早く読みたいほどに雫原の小説は面白い。なのに、心が追いつけなくなっていた。
本を閉じ、机の上に置くと、両手を太ももの上に乗せてうつむいた。長い黒髪が、カーテンのように顔を覆う。いまはその帷がありがたかった。
「寒さのせいよ。きっと、そうに決まってる」
いつわりをうそぶいて、心を落ち着かせようとする。体を労らず、暖房もつけずに本を読んでいたので、吐く息すら透明な白だった。なんとなく、罪の意識を感じてしまっていた。
そのまま体が動かなくなりそうになり、これではいけないと頭を振ると、立ち上がり、黒いコートを纏った。
家を出て向かったのは鎌倉駅だった。冷静な判断ではなかった。何も考えず、心のままに赴いて、いつの間にか鎌倉駅に着いてしまっていた。着いて、頬につめたい空気を感じてから、自分は一体何をしているのだろうとしばらく呆然としていた。
電車に乗っている間も、普段ならば文庫本を片手に過ごしているというのに、今日はじっと窓の外ばかり眺めていた。景色は脳で結ばれず、ただ瞳の上を流れてゆくばかりであった。
師走の鎌倉は遠くに見える山々がところどころ剥げ、秋の名残が終わろうとしている。これからさらに白く掠れてゆくだろう。そのとき、自分はどのような立ち位置にいるのだろう。
雫原の家に寄ろうか悩み、動けなくなる。新刊のことを思い出すと、行く勇気が出せず、ふらふらと鎌倉をさまよった。気が済むまで歩いて、疲れれば頭の中もすっきりするだろう。もし雫原とばったり会ってしまったとしても、そのときはそのとき。そう考えて鎌倉の風を浴びる。
青いカシミアのマフラーも巻き、黒い革の手袋もしてきたので、しっかり防寒はできていた。こもる熱と、額や頬、ときおり後ろ髪が舞い上がり、うなじにふれるつめたさの対比の感覚だけが、無心になろうとしている言葉を現実に戻す。
どうしても寒いと、雫原に抱かれたいという切ない気持ちになってしまう。それは衝動ではなく本能だった。まなじりに涙がたまり、こぼれおちそうになるのを、くちびるを噛んで耐えた。
脚だけを動かし、脳で考えることから、体を動かすことに集中しようとする。
いつの間にか鎌倉駅から結構離れてしまった。
「あれ、ここ雫原先生の家の近くじゃないかしら……」
ふと気づき、見上げると、見慣れた通りや家々がつらなっている。道順は完全に一緒ではないが、この通りをふたつほど過ぎてまっすぐ行けば雫原邸に辿り着いてしまう。
「なんで……、なんで!」
引き返そうと踵を返すが、思ったよりも早足だったので、脚がぐらついてよろけてしまいそうになる。かかとで地を強く押して、なんとか体勢をととのえる。視界の方向が変わり、まっすぐみつめた先に古民家カフェがあった。
とりあえずココアを飲んで、心を落ち着けたい。帰るにしても今の状態ではぐらぐらと揺れてしまっているだろう。雫原と入ったことのないカフェだったので、彼はおそらくここにはいないだろうと検討をつけて、歩みを進め、中に入った。
店内に入ると、ヒノキの良い香りがした。全体が木造だからだろうか。真ん中に囲炉裏が炊かれており、炭の上で踊るあざやかな炎が目に痛い。柱は飴色がかったつやがあり、年月を感じさせた。
店員に案内された席に向かう途中で、衝立の向こう側に、見慣れた頭髪が見えた。
__うそでしょう。
足を止めそうになるが、今止めたら店員に不思議がられ、声をかけられるだろう。それを避けるために、言葉は早足で席に着いた。
店員が近づき、今声が出しづらいと嘘を示すために、喉に手をあて眉を寄せる。
メニュー表の中に書かれたホットココアを、ひとさしゆびで指し、頼んだ。
衝立の向こうから、男の声がふたつ聞こえる。慣れた間柄だけに発生する、ゆるやかさと他愛もなさがあった。
ひとつの声は、あきらかに雫原だった。閨での尖ったようなあまい声とは違うが、落ち着いているときの日常の声がする。いとおしさで胸が満たされ、同時に切なさや不甲斐なさも込み上げてきて、太ももに置いた手が震え、熱くなる。うつむき、黒髪が影を落とした。
(聴いたことのない先生の声。とても楽しそう。私といるときは、あんなふうに喋ったことはなかった……。私がいなければ、雫原先生は他のひとと、あんなふうに楽しい時間を過ごすことができるんだ。小説の内容も、変わることはなかっただろう……。私がいなければ)
こちらに気づかれてはいなかった。衝立の向こうの雫原は、きっと見たこともない表情をしているのだろう。
テーブルにココア分のお金を置き、そっとしずかに席を立った。誰とも話したくなく、視線を交わしたくなかった。
不思議そうにする店員の視線を感じながら、早足でカフェを出てしまう。
時間が少し経っただけなのに、外は切るように冷えてしまっていた。両手で己の体を抱きしめながら駆け足で走る。黒髪が右へ左へ舞い、細い髪の間から冬の凍てつく風がふれてくる。
どこに向かっているのかもわからず、前を見ないまま闇雲に走り、立ち止まると額から汗がこぼれ落ちる。荒い息をつき、スマートフォンを取り出すと、雫原の連絡先を検索し、勢いのまま削除してしまった。
乱れた髪が汗で額やこめかみに張り付いている。
視界にうっすら白い靄がかかっているようだった。
(私は……、私たちはこのままではいけない。彼の仕事のことや自分の進路のことを考えたら、お互いがめちゃくちゃになってしまう。離れなくては。この愛をやめなくては……)
スマートフォンのひかる画面をまばたきもせずにみつめたまま、言葉はしばらく冬の中に孤独だった。



