天井を撫でる煙の濃さに、目を細めていたときだった。
リビングボードに置かれた黒電話が、高らかな音を奏で始めた。
「こんな時間に誰だ……」
言葉に電話番号を教えていたことを思い出し、雫原は期待を持って、膝を払うと颯爽と立ち上がった。
リビングのドアを開け、すぐそばにあった黒電話の受話器を取る。
相手の声をひとつ聞いて、直線的にあがっていた眉尻は、ゆるやかにハの字に下がった。
「相変わらずお前と連絡を取るのはめんどくせえな。早くスマホ持てよ。大学のときからそうだから、いつもお前と連絡取るのには苦労する」
「……東雲か?」
この低く艶やかな、ひとを挑発するような声質は__。
大学時代の同期、東雲冬彦だった。
「あー、執筆中の邪魔してしまったんなら、なんかすまんな」
「どうせすまないと、微塵も思っていないだろう」
「思ってるって!」
「かくいうお前は、ちゃんと原稿を描いているのか」
「描いてる描いてる。まぁ今日は自主的に休みにして、本屋さんなんかに行っちゃったんだけど。まぁ、息抜きに他の作家の本読むのも大事じゃん?」
電話の向こうでけらけらと乾いた笑い声が聞こえる。
東雲は、大学の文芸サークルで知り合った男だった。2年の夏頃から顔を出したはいいが、お堅い雰囲気が合わずそのままフェードアウトしてしまい、活動には来なくなった。だが、雫原のことを気に入り、雫原のほうも、かるくふれてくるような彼の態度は接しやすかったので、サークルを辞めた後も連絡を取り合い、時々飲んだり食事をするような仲になり、そのまま卒業後も関係が続いていた。
小説は字ばかりでつまらんと言い、辞めた後に漫画を描き始めた彼は、大学4年生の時にとある成人向け雑誌で新人賞を受賞し、今は成人向け漫画家として生計を立てている。
畑違いの同僚ということで、向こうも変な嫉妬や気遣いをしなくていいらしく、雫原は作家仲間として話しやすいらしい。
「何の用だ。ちゃんと仕事をしろ」
「仕事はしてるよ。締め切り明けなんだよ~。数カ月前に会ったのがたのしくてさ。また会いたくなっちゃって。人恋しいのよ今。原稿描いてるときは、原稿に全部の集中力使ってっけどさ。終わるとねー。休みがちょっと入るから、その間は友人と語り合いたいのよ。わかるだろ?」
まあわからんでもなかった。言葉だと思ったら、慣れた野郎だったので、がっかりして冷たい態度をとってしまったが、雫原も彼女のことばかり考えて落ち込むもやもやとした思いを、関係のない友人と雑談することで発散したくなった。
手帳を確認し、東雲と予定を合わせると、雫原は受話器を置いた。
親しいひとに会って気兼ねなく話せる時間ができると思うと、少し気分も晴れてくる。紫陽花の文様が描かれた、アンティーク時計の針がこちこちと動くのを、黙ってみつめていた。予定まで、そう間隔は空いていないというのに、早く東雲と会うときが来ればよいと思った。
それまでひとりで、また言葉のことばかり考え続ける時間を過ごすのかと思うと、切なさで胸が冷え、首を落としてただじっと時の流れに身を任せていた。
東雲が雫原邸に来る日がやってきた。友人と会えることを心待ちにするなんて、いつ以来だろう。自分らしくなかった。それほどに、かつてない恋愛によって心乱され、不安な夜をひとり過ごしていたということだろう。
煙管を咥えて玄関の前で待っていたが、なぜか添えたゆびが細かに震えていた。親しい友だというのに、何を緊張しているというのだろう?
門の向こうから、ぽつりと淡い人影が見えてきた。門を開け、徐々に近づいてくると輪郭がくっきりとしてくる。今日はウェーブがかった髪を、ハーフアップにしている。グレージュの髪色が、冴えた冬の空気に溶けている。サングラスは薄いカーキ色のレンズだった。同じくカーキのコートの下に見えたライトブルーとオレンジのハイビスカスが、全体の中で浮いて目立っている。
「また、アロハシャツ着てるよ……」
もう長い付き合いなので、慣れたものだが、この男は真冬でもアロハシャツを着てくる。もちろん普通の服を着てくることもあるが、夏や春に会ったときもアロハシャツを着てきたこともあった。
手持ちの衣服の中で、アロハシャツの割合が多いのだろう。だが変にダサくならず、下に履いた擦れた紺のGパンと合っていて、逆に洒落て見えるから不思議だ。東雲の持つ独特の色気が良い味になっているのだろう。自分がアロハシャツを着ては、こうはならない。
「おつかれちゃ~ん」
頭の上まで腕を伸ばし、ひらひらとひろげた右手を振ってくる。爽やかな笑みまで浮かべて。
雫原はじっと東雲をみつめたまま着物の袖に両手を入れると、煙管の先を動かして挨拶を返した。
「……15分遅刻」
「はー鎌倉までやっぱ遠いわ。舐めてた」
「遅刻してきたんだから、先にまず謝れよ。お前大学のときからそうだよな」
「あーすまん。さぁ、中に入れてくれ。師走の空気はきらいなんだわ。真夏がいちばんすき。毎日お祭りみてぇだし、寒いと家ん中で縮こまってなきゃいけねぇからな。そうすると仕事するしかねぇんだわ。俺等フリーランスは」
「いや、寒くなくても仕事はしろよ……」
雫原が後手でドアを開けると、ズボンのポケットに両手を入れ、肩を丸めながら我先にと入ってくる。
雫原も後から続き、リビングへ案内すると、先に東雲をの前の座布団の上に座らせ、お茶の用意をするために台所へと向かう。沸かした緑茶をヒノキの盆の上に乗せ、しずしずとした足取りで戻ってくると、東雲はもう勝手にくつろいでいた。腕を立てて、てのひらで片頬を支え、こちらをじっとみつめているかと思ったら、右手はいつの間にか片膝を立てて、それを台にし、持参してきたA4ノートに、シャープペンシルで絵を描いている。
「何を描いてる」
「いやぁ、様になるなぁと思って。和服でしとやかに歩く後ろ姿ってのはさ。資料資料。ありがたく頂戴いたしまあす」
東雲は、ノートをひらいた状態でちゃぶ台の上に置き、後ろに両手をついてあぐらをかいた。
ノートの中には、正確な筆致で描かれた雫原のクロッキーがあった。自分の後ろ姿を普段見ることはないので、こんな風なのかと案外納得する。
盆をちゃぶ台の真ん中あたりに乗せ、そっと湯呑ひとつ、東雲の前に置く。薄い陶器に、厚く白い釉を上から垂らしたような造形だった。春の陽光を浴びた溶けてゆく雪山のようで、雫原は気に入っていた。
湯呑から透明な湯気がこほりと漂う。
東雲は手を擦り合わせてから、そっと湯呑を持ち上げ、飲んだ。ビール缶のような潔い持ち方だったが、ひとくちめは熱かったらしく、すぐに顔をぎゅっと寄せてくちびるを離した。
「あちい」
「悪い、言ってなかった」
「言ってくれよ! まぁこんだけ湯気立ってたらそりゃ熱《あち》いか……」
雫原は東雲の向かいに正座で座った。敷いた座布団が、折りたたんだ脛《すね》をやわらかく受け止める。
「雫原は今何書いてんの? 癒し系? 嬲り系? それとも陵辱系? あ、絶倫系とか?」
東雲にふいに尋ねられて、自分が今書いているジャンルはどれに当てはまるんだろうと考えた。結果、どれにも当てはまらない。強いて言うなら。
「恋愛系、かな……」
そうだ。自分が今書いているのは恋愛の話だった。ただ、それだけだったのだ。描かれる性行為も、
女のオルガズムも、男の射精も、すべては恋愛の果て、またはその渦中にあることのつらなりでしかない。自分はそれを摑み取って、描こうとしているのだ。
「恋愛かあ。まぁ、今までも書いてたし、お前の得意ジャンルなんじゃねぇの」
「まぁ……、そうなのかな」
得意不得意というのが、よくわかっていなかった。自然に思いついたから書いている。それが恋愛系と呼ばれるものが多かっただけで。
官能小説は男性器を女性器に挿入するという単純な行為を、いかに濃密にいやらしく描くかだ。毎回同じ表現では飽きられてしまうので、つねに差別化を図らなければいけない。
性行為描写は小説のハイライトで、ここに至るまでどのように読者の淫心をかきたてるかが重要な部分だった。恋愛描写も、性行為に至るまでの前戯《ぜんぎ》の一部だった。書いているときも、ほとんど感情的にならずに、淡々と仕上げに向かって盛り上がるように工夫を凝らして書いていた。恋愛に重きを置くというよりは、性行為のための恋愛描写だった。ほとんどの官能小説は、ここに狙いを定めていて、読者もそこに期待をしている。
「なんだ、その自信ない声~。実績あるんだから自信持てって。おもろいの書いてて、それで食ってけてるんだからさ。てかさ、これ見てよ」
がさごそとかたわらに置いたショルダーバッグの中をあさり始め、雑誌を一冊取り出した。ちゃぶ台に置かれた雑誌は、かすかに表紙が傷や擦れで褪せている。だが、最新号だった。
「これは……」
雫原は眼鏡を指で押さえながら、背を屈めて雑誌に顔を寄せる。
「ほら。ここここ」
東雲は、ぱらぱらとページを捲《めく》り、雫原の名前が掲載されている箇所を示す。
「私だ」
「だろ? で、メインはここ」
ページを逆戻ると、東雲が特集されていた。
「なんだ。これを自慢しにきたのか」
雫原はあきれて鼻を鳴らし、雑誌から顔を離した。
「ちげーよ! これだけじゃねえけど、お前と雑談したかったってのがいちばん。いやあ俺等も屈折しながら、何とか有名雑誌に名前が載せてもらえるようになったんだなぁって」
「さすが新進気鋭の東雲冬彦先生じゃないか。私なんてこんな一面に特集を組んでもらったことなんてないぞ。きみと私を一緒にしないでくれ」
「成人向け漫画と官能小説じゃ、読んでる読者層が違うってぇ。内容的にゃ、雫原蔵之介先生のほうが上だってぇ」
どちらも心にもない褒め合いを続けるのは苦痛だったので、話はすぐにそれていった。大学時代の懐かしい思い出話や、くだらない近況など、身にもならない雑談はたのしかった。これができる友達というものは、雫原には限られている。他愛ない空気に、暖房を入れた部屋の温度と時間が溶けてゆき、注いだ茶も減ってゆく。
たらたらと意味のないことばばかりを交わすのは、とても心地が良かった。
東雲は声だけが低くて、年齢は同じ27歳だというのに、人生の粋も甘いも噛み分けて円熟しかけている40代男性のようだった。へらへらした口調と合っておらず、違和感もあるが、その声音も、最近の乾いていた心を温かく濡らした。
話題はさらにディープなものになってゆき、性癖的な話になった。こういう話題のときは東雲が8割喋り、雫原は茶をゆっくり飲みながら、まぶたを伏せて聴いている役になる。
「前は油留木曜子ちゃんで抜いてたんだけどさ。最近あんま興味無くなっちゃって。清楚系な女子大生より、熟女とか人妻モノばっか見てる」
「ほう」
「お前は最近何で抜いてんの。まさか自分の小説とか言うんじゃねぇだろうな」
性欲のはけ口にしているということで考えれば、言葉と会っていないときも言葉を妄想しているということになる。雫原は両手で湯呑を持ったまま、右上を眺めて湯気の行先をみつめていた。
「んー? ……なーんか様子がおかしい……」
東雲は背を屈め、ちゃぶ台の上に上半身を乗り出した。
「最近なにか変わったことでもあったか?」
「いや、特に何も」
図干しだったので、視線を下にし、もう茶がしずくほどしか入っていない底をみつめる。
東雲のじっとりと疑うような視線を感じながら。
話したいことがさらに積もってきたということになり、近くの古民家カフェへ移動することになった。
雫原邸から歩いて五分ほどの距離にある古民家カフェは、庭に生えた常盤木《ときわぎ》に囲まれ、静かな印象だった。平屋で広く、開け放たれた縁側から、椿や柊、凍った池等、冬のうつくしい叙情がたのしめ、五感を刺激する。
「冬って、池の中の鯉ってどうしてんのかな。そういえば」
東雲が両手をこすりながら、庭を眺めてぽつりとつぶやく。
「大体の池は、中に管があって、そこで春まで鯉たちは冬眠しているらしい。小説を書く時に気になって調べたことがある」
「えー、鯉って冬眠するんだ。俺も冬に鯉の話描くときはそうやって書いとこ」
「メモしとけ。スマホとかに」
そうこう話している間に、店員がふたりぶんのスイーツと飲み物を持ってきた。
「おっ、きたきた」
東雲が嬉々として背を伸ばす。皿に向かった首を伸ばす仕草は子供のようだ。
ふたりのあいだに置かれたちいさな丸テーブルの上に、盆がふたつ置かれる。雫原はチーズケーキとホットコーヒーを頼み、東雲はみたらし団子と温かい麦茶を頼んだ。褪せた緑の釉がかかった器に合っている。
「お前も和菓子を頼むもんだと思ってた」
「昔は和菓子のほうがすきだったが、最近は洋菓子にハマっているんだ」
面白がるように東雲に尋ねられた雫原は、眼の前でほろりとうすい湯気を立てるコーヒーをみつめながら、言葉とはじめて行ったカフェのことをうすぼんやりと思い返していた。
銀の匙でチーズケーキを取り、口に運ぶ。ちいさく噛んでいると、チーズの濃厚さと、ミルクの豊かな風味、ほどよい甘さと酸っぱさがとても美味だった。その後に飲んだコーヒーとも合い、口の中があまい苦みで満たされる。
東雲は勢いよく串を持ち上げ、大きく口をひらいてふたつ一度にたいらげた。大きな玉を口の中に入れて、喉がつまってしまうのではないかというほどだったが、団子などなかったかのように、次に話す瞬間には口の中から消えていた。
「鎌倉は何度来てもいいねぇ。このカフェもお前につれられて何度か来たことあったけど、冬に来たのは初めてだったから、また新たな発見があるわ」
「そりゃあよかった」
雫原は陶製のマグカップを両手で底と取手を支え、上品に持ち、くちびるをつけながら返す。目の前が馥郁《ふくいく》とした香りでいっぱいになる。
そのまま他愛ない話を続け、少し喋り疲れたところで東雲が口の動きをゆるやかにしてくれた。小休憩の合図だ。
東雲は漫画仲間との作業通話をおこなっているので、日常的にひとと話す機会が多いが、雫原は文章を書いている際にひとと話しながら執筆ができないので、黙々とひとりで原稿と向かい合っている。
ひとと話すことが東雲よりも少ない雫原に、疲労感を与えないために配慮してくれているのだと感じ、東雲は会うといつもそういった気遣いをしてくれる優しい面がある。
ふたりのあいだにつめたい風が細く流れ、庭の木々の葉をさらさらと揺らす。
「ああ、そういえばさ。もういっこ話したいことがあったんだわ」
ぽん、と右膝を右手で叩き、思い出したように鞄の中をあさり始める。
「あった。これ」
テーブルの上にさっと出されたのは、雫原の新刊だった。300ページはある厚い文庫本だ。
「なんだ」
「最近読んだんだ。お前の新しい小説」
「それは……どうもありがとう」
素直に礼を言うと、東雲は雫原のほうへひとさしゆびでくいと、本を前進させる。
「なんか違和感があって……。今までもお前の本は読んできたんだが、今回の小説は今までよりも恋愛色が強めというか、湿度高めというか。性描写もリアリティが増している気がするが、いやらしさが前よりもうすれている」
的確な感想に、腕のあたりを素手で撫でられるような感じがした。悪寒とも違う。雫原は、その後につづくことばを恐れていた。
「長年お前の小説を読んで、お前と過ごしてきた俺だからわかる。葛原、女でもできたか?」
額で氷を割られたような感覚だった。
作家になってからは、ペンネームの『雫原』呼びだったのに、本名の『葛原』と呼んできた。自分の本質に迫るような問いに、雫原は咄嗟に「なんでもない」と応えるしかなかった。
苦笑いした口の中に、未だにさきほど飲んだコーヒーの酸味が残っている。
リビングボードに置かれた黒電話が、高らかな音を奏で始めた。
「こんな時間に誰だ……」
言葉に電話番号を教えていたことを思い出し、雫原は期待を持って、膝を払うと颯爽と立ち上がった。
リビングのドアを開け、すぐそばにあった黒電話の受話器を取る。
相手の声をひとつ聞いて、直線的にあがっていた眉尻は、ゆるやかにハの字に下がった。
「相変わらずお前と連絡を取るのはめんどくせえな。早くスマホ持てよ。大学のときからそうだから、いつもお前と連絡取るのには苦労する」
「……東雲か?」
この低く艶やかな、ひとを挑発するような声質は__。
大学時代の同期、東雲冬彦だった。
「あー、執筆中の邪魔してしまったんなら、なんかすまんな」
「どうせすまないと、微塵も思っていないだろう」
「思ってるって!」
「かくいうお前は、ちゃんと原稿を描いているのか」
「描いてる描いてる。まぁ今日は自主的に休みにして、本屋さんなんかに行っちゃったんだけど。まぁ、息抜きに他の作家の本読むのも大事じゃん?」
電話の向こうでけらけらと乾いた笑い声が聞こえる。
東雲は、大学の文芸サークルで知り合った男だった。2年の夏頃から顔を出したはいいが、お堅い雰囲気が合わずそのままフェードアウトしてしまい、活動には来なくなった。だが、雫原のことを気に入り、雫原のほうも、かるくふれてくるような彼の態度は接しやすかったので、サークルを辞めた後も連絡を取り合い、時々飲んだり食事をするような仲になり、そのまま卒業後も関係が続いていた。
小説は字ばかりでつまらんと言い、辞めた後に漫画を描き始めた彼は、大学4年生の時にとある成人向け雑誌で新人賞を受賞し、今は成人向け漫画家として生計を立てている。
畑違いの同僚ということで、向こうも変な嫉妬や気遣いをしなくていいらしく、雫原は作家仲間として話しやすいらしい。
「何の用だ。ちゃんと仕事をしろ」
「仕事はしてるよ。締め切り明けなんだよ~。数カ月前に会ったのがたのしくてさ。また会いたくなっちゃって。人恋しいのよ今。原稿描いてるときは、原稿に全部の集中力使ってっけどさ。終わるとねー。休みがちょっと入るから、その間は友人と語り合いたいのよ。わかるだろ?」
まあわからんでもなかった。言葉だと思ったら、慣れた野郎だったので、がっかりして冷たい態度をとってしまったが、雫原も彼女のことばかり考えて落ち込むもやもやとした思いを、関係のない友人と雑談することで発散したくなった。
手帳を確認し、東雲と予定を合わせると、雫原は受話器を置いた。
親しいひとに会って気兼ねなく話せる時間ができると思うと、少し気分も晴れてくる。紫陽花の文様が描かれた、アンティーク時計の針がこちこちと動くのを、黙ってみつめていた。予定まで、そう間隔は空いていないというのに、早く東雲と会うときが来ればよいと思った。
それまでひとりで、また言葉のことばかり考え続ける時間を過ごすのかと思うと、切なさで胸が冷え、首を落としてただじっと時の流れに身を任せていた。
東雲が雫原邸に来る日がやってきた。友人と会えることを心待ちにするなんて、いつ以来だろう。自分らしくなかった。それほどに、かつてない恋愛によって心乱され、不安な夜をひとり過ごしていたということだろう。
煙管を咥えて玄関の前で待っていたが、なぜか添えたゆびが細かに震えていた。親しい友だというのに、何を緊張しているというのだろう?
門の向こうから、ぽつりと淡い人影が見えてきた。門を開け、徐々に近づいてくると輪郭がくっきりとしてくる。今日はウェーブがかった髪を、ハーフアップにしている。グレージュの髪色が、冴えた冬の空気に溶けている。サングラスは薄いカーキ色のレンズだった。同じくカーキのコートの下に見えたライトブルーとオレンジのハイビスカスが、全体の中で浮いて目立っている。
「また、アロハシャツ着てるよ……」
もう長い付き合いなので、慣れたものだが、この男は真冬でもアロハシャツを着てくる。もちろん普通の服を着てくることもあるが、夏や春に会ったときもアロハシャツを着てきたこともあった。
手持ちの衣服の中で、アロハシャツの割合が多いのだろう。だが変にダサくならず、下に履いた擦れた紺のGパンと合っていて、逆に洒落て見えるから不思議だ。東雲の持つ独特の色気が良い味になっているのだろう。自分がアロハシャツを着ては、こうはならない。
「おつかれちゃ~ん」
頭の上まで腕を伸ばし、ひらひらとひろげた右手を振ってくる。爽やかな笑みまで浮かべて。
雫原はじっと東雲をみつめたまま着物の袖に両手を入れると、煙管の先を動かして挨拶を返した。
「……15分遅刻」
「はー鎌倉までやっぱ遠いわ。舐めてた」
「遅刻してきたんだから、先にまず謝れよ。お前大学のときからそうだよな」
「あーすまん。さぁ、中に入れてくれ。師走の空気はきらいなんだわ。真夏がいちばんすき。毎日お祭りみてぇだし、寒いと家ん中で縮こまってなきゃいけねぇからな。そうすると仕事するしかねぇんだわ。俺等フリーランスは」
「いや、寒くなくても仕事はしろよ……」
雫原が後手でドアを開けると、ズボンのポケットに両手を入れ、肩を丸めながら我先にと入ってくる。
雫原も後から続き、リビングへ案内すると、先に東雲をの前の座布団の上に座らせ、お茶の用意をするために台所へと向かう。沸かした緑茶をヒノキの盆の上に乗せ、しずしずとした足取りで戻ってくると、東雲はもう勝手にくつろいでいた。腕を立てて、てのひらで片頬を支え、こちらをじっとみつめているかと思ったら、右手はいつの間にか片膝を立てて、それを台にし、持参してきたA4ノートに、シャープペンシルで絵を描いている。
「何を描いてる」
「いやぁ、様になるなぁと思って。和服でしとやかに歩く後ろ姿ってのはさ。資料資料。ありがたく頂戴いたしまあす」
東雲は、ノートをひらいた状態でちゃぶ台の上に置き、後ろに両手をついてあぐらをかいた。
ノートの中には、正確な筆致で描かれた雫原のクロッキーがあった。自分の後ろ姿を普段見ることはないので、こんな風なのかと案外納得する。
盆をちゃぶ台の真ん中あたりに乗せ、そっと湯呑ひとつ、東雲の前に置く。薄い陶器に、厚く白い釉を上から垂らしたような造形だった。春の陽光を浴びた溶けてゆく雪山のようで、雫原は気に入っていた。
湯呑から透明な湯気がこほりと漂う。
東雲は手を擦り合わせてから、そっと湯呑を持ち上げ、飲んだ。ビール缶のような潔い持ち方だったが、ひとくちめは熱かったらしく、すぐに顔をぎゅっと寄せてくちびるを離した。
「あちい」
「悪い、言ってなかった」
「言ってくれよ! まぁこんだけ湯気立ってたらそりゃ熱《あち》いか……」
雫原は東雲の向かいに正座で座った。敷いた座布団が、折りたたんだ脛《すね》をやわらかく受け止める。
「雫原は今何書いてんの? 癒し系? 嬲り系? それとも陵辱系? あ、絶倫系とか?」
東雲にふいに尋ねられて、自分が今書いているジャンルはどれに当てはまるんだろうと考えた。結果、どれにも当てはまらない。強いて言うなら。
「恋愛系、かな……」
そうだ。自分が今書いているのは恋愛の話だった。ただ、それだけだったのだ。描かれる性行為も、
女のオルガズムも、男の射精も、すべては恋愛の果て、またはその渦中にあることのつらなりでしかない。自分はそれを摑み取って、描こうとしているのだ。
「恋愛かあ。まぁ、今までも書いてたし、お前の得意ジャンルなんじゃねぇの」
「まぁ……、そうなのかな」
得意不得意というのが、よくわかっていなかった。自然に思いついたから書いている。それが恋愛系と呼ばれるものが多かっただけで。
官能小説は男性器を女性器に挿入するという単純な行為を、いかに濃密にいやらしく描くかだ。毎回同じ表現では飽きられてしまうので、つねに差別化を図らなければいけない。
性行為描写は小説のハイライトで、ここに至るまでどのように読者の淫心をかきたてるかが重要な部分だった。恋愛描写も、性行為に至るまでの前戯《ぜんぎ》の一部だった。書いているときも、ほとんど感情的にならずに、淡々と仕上げに向かって盛り上がるように工夫を凝らして書いていた。恋愛に重きを置くというよりは、性行為のための恋愛描写だった。ほとんどの官能小説は、ここに狙いを定めていて、読者もそこに期待をしている。
「なんだ、その自信ない声~。実績あるんだから自信持てって。おもろいの書いてて、それで食ってけてるんだからさ。てかさ、これ見てよ」
がさごそとかたわらに置いたショルダーバッグの中をあさり始め、雑誌を一冊取り出した。ちゃぶ台に置かれた雑誌は、かすかに表紙が傷や擦れで褪せている。だが、最新号だった。
「これは……」
雫原は眼鏡を指で押さえながら、背を屈めて雑誌に顔を寄せる。
「ほら。ここここ」
東雲は、ぱらぱらとページを捲《めく》り、雫原の名前が掲載されている箇所を示す。
「私だ」
「だろ? で、メインはここ」
ページを逆戻ると、東雲が特集されていた。
「なんだ。これを自慢しにきたのか」
雫原はあきれて鼻を鳴らし、雑誌から顔を離した。
「ちげーよ! これだけじゃねえけど、お前と雑談したかったってのがいちばん。いやあ俺等も屈折しながら、何とか有名雑誌に名前が載せてもらえるようになったんだなぁって」
「さすが新進気鋭の東雲冬彦先生じゃないか。私なんてこんな一面に特集を組んでもらったことなんてないぞ。きみと私を一緒にしないでくれ」
「成人向け漫画と官能小説じゃ、読んでる読者層が違うってぇ。内容的にゃ、雫原蔵之介先生のほうが上だってぇ」
どちらも心にもない褒め合いを続けるのは苦痛だったので、話はすぐにそれていった。大学時代の懐かしい思い出話や、くだらない近況など、身にもならない雑談はたのしかった。これができる友達というものは、雫原には限られている。他愛ない空気に、暖房を入れた部屋の温度と時間が溶けてゆき、注いだ茶も減ってゆく。
たらたらと意味のないことばばかりを交わすのは、とても心地が良かった。
東雲は声だけが低くて、年齢は同じ27歳だというのに、人生の粋も甘いも噛み分けて円熟しかけている40代男性のようだった。へらへらした口調と合っておらず、違和感もあるが、その声音も、最近の乾いていた心を温かく濡らした。
話題はさらにディープなものになってゆき、性癖的な話になった。こういう話題のときは東雲が8割喋り、雫原は茶をゆっくり飲みながら、まぶたを伏せて聴いている役になる。
「前は油留木曜子ちゃんで抜いてたんだけどさ。最近あんま興味無くなっちゃって。清楚系な女子大生より、熟女とか人妻モノばっか見てる」
「ほう」
「お前は最近何で抜いてんの。まさか自分の小説とか言うんじゃねぇだろうな」
性欲のはけ口にしているということで考えれば、言葉と会っていないときも言葉を妄想しているということになる。雫原は両手で湯呑を持ったまま、右上を眺めて湯気の行先をみつめていた。
「んー? ……なーんか様子がおかしい……」
東雲は背を屈め、ちゃぶ台の上に上半身を乗り出した。
「最近なにか変わったことでもあったか?」
「いや、特に何も」
図干しだったので、視線を下にし、もう茶がしずくほどしか入っていない底をみつめる。
東雲のじっとりと疑うような視線を感じながら。
話したいことがさらに積もってきたということになり、近くの古民家カフェへ移動することになった。
雫原邸から歩いて五分ほどの距離にある古民家カフェは、庭に生えた常盤木《ときわぎ》に囲まれ、静かな印象だった。平屋で広く、開け放たれた縁側から、椿や柊、凍った池等、冬のうつくしい叙情がたのしめ、五感を刺激する。
「冬って、池の中の鯉ってどうしてんのかな。そういえば」
東雲が両手をこすりながら、庭を眺めてぽつりとつぶやく。
「大体の池は、中に管があって、そこで春まで鯉たちは冬眠しているらしい。小説を書く時に気になって調べたことがある」
「えー、鯉って冬眠するんだ。俺も冬に鯉の話描くときはそうやって書いとこ」
「メモしとけ。スマホとかに」
そうこう話している間に、店員がふたりぶんのスイーツと飲み物を持ってきた。
「おっ、きたきた」
東雲が嬉々として背を伸ばす。皿に向かった首を伸ばす仕草は子供のようだ。
ふたりのあいだに置かれたちいさな丸テーブルの上に、盆がふたつ置かれる。雫原はチーズケーキとホットコーヒーを頼み、東雲はみたらし団子と温かい麦茶を頼んだ。褪せた緑の釉がかかった器に合っている。
「お前も和菓子を頼むもんだと思ってた」
「昔は和菓子のほうがすきだったが、最近は洋菓子にハマっているんだ」
面白がるように東雲に尋ねられた雫原は、眼の前でほろりとうすい湯気を立てるコーヒーをみつめながら、言葉とはじめて行ったカフェのことをうすぼんやりと思い返していた。
銀の匙でチーズケーキを取り、口に運ぶ。ちいさく噛んでいると、チーズの濃厚さと、ミルクの豊かな風味、ほどよい甘さと酸っぱさがとても美味だった。その後に飲んだコーヒーとも合い、口の中があまい苦みで満たされる。
東雲は勢いよく串を持ち上げ、大きく口をひらいてふたつ一度にたいらげた。大きな玉を口の中に入れて、喉がつまってしまうのではないかというほどだったが、団子などなかったかのように、次に話す瞬間には口の中から消えていた。
「鎌倉は何度来てもいいねぇ。このカフェもお前につれられて何度か来たことあったけど、冬に来たのは初めてだったから、また新たな発見があるわ」
「そりゃあよかった」
雫原は陶製のマグカップを両手で底と取手を支え、上品に持ち、くちびるをつけながら返す。目の前が馥郁《ふくいく》とした香りでいっぱいになる。
そのまま他愛ない話を続け、少し喋り疲れたところで東雲が口の動きをゆるやかにしてくれた。小休憩の合図だ。
東雲は漫画仲間との作業通話をおこなっているので、日常的にひとと話す機会が多いが、雫原は文章を書いている際にひとと話しながら執筆ができないので、黙々とひとりで原稿と向かい合っている。
ひとと話すことが東雲よりも少ない雫原に、疲労感を与えないために配慮してくれているのだと感じ、東雲は会うといつもそういった気遣いをしてくれる優しい面がある。
ふたりのあいだにつめたい風が細く流れ、庭の木々の葉をさらさらと揺らす。
「ああ、そういえばさ。もういっこ話したいことがあったんだわ」
ぽん、と右膝を右手で叩き、思い出したように鞄の中をあさり始める。
「あった。これ」
テーブルの上にさっと出されたのは、雫原の新刊だった。300ページはある厚い文庫本だ。
「なんだ」
「最近読んだんだ。お前の新しい小説」
「それは……どうもありがとう」
素直に礼を言うと、東雲は雫原のほうへひとさしゆびでくいと、本を前進させる。
「なんか違和感があって……。今までもお前の本は読んできたんだが、今回の小説は今までよりも恋愛色が強めというか、湿度高めというか。性描写もリアリティが増している気がするが、いやらしさが前よりもうすれている」
的確な感想に、腕のあたりを素手で撫でられるような感じがした。悪寒とも違う。雫原は、その後につづくことばを恐れていた。
「長年お前の小説を読んで、お前と過ごしてきた俺だからわかる。葛原、女でもできたか?」
額で氷を割られたような感覚だった。
作家になってからは、ペンネームの『雫原』呼びだったのに、本名の『葛原』と呼んできた。自分の本質に迫るような問いに、雫原は咄嗟に「なんでもない」と応えるしかなかった。
苦笑いした口の中に、未だにさきほど飲んだコーヒーの酸味が残っている。



