師走の夜空は一層紺の気配を深めている。澄んだ冬の空気に、目を凝らせば無数の星たちが砂を撒いたように広がっており、鎌倉の邸の窓からも、それは見えるというのに、雫原の視界はうす黄色い原稿用紙と、そこに滲むブルーブラックのインクばかりである。
小説は、山場を迎えていた。このセックスシーンさえ描き終われば、なんとか今宵は一段落つく。いつの間にか、額に汗がうっすらと滲んでいる。はたりと万年筆を置き、動きを止めて伏せていた上半身をあげる。濡れた前髪を左手で掻きあげると、自分の幼さに辟易して口角をあげた。
集中しなければならないのに、今原稿用紙と己のあいだに、女の顔が浮かんだ。言葉だった。
彼女が通りを颯爽と歩いているしずかな顔と佇まい。それから、この腕に抱いたときのやわらかにくらやみに浮かびあがる白い裸体。言葉が頬を顎をうす紅に染めてこちらを振り向く、汗に濡れて彼女の顔に細い髪が張り付いている、その記憶さえも。
「煙草を吸おうかな……」
独りごちると、部屋の戸棚から煙管を取り出す。丸めた刻み煙草を火皿につめ、マッチの炎で遠火で着火する。片手で支えながら煙を吸うと、眼の前に漂っていた、言葉との白い耽美な記憶が集まり、体の中に溶けてゆくようだった。
天を仰ぐ。シミのある天井しか見えない。だが、この先に広がる冬の夜空は、東京に一人暮らす言葉とも繋がっている。彼女は今、何を思い、何をして過ごしているだろう。
まぶたを閉じると、自然と眉間にしわが寄った。
天と雫原のあいだを、白いけむりが漂って消えてゆく。
言葉とは恋愛関係になった。自分は彼女のことが本当にすきだが、会うたびに彼女を求めて激しく抱いてしまう。体目当てだと思われていないか。本当に、気持ちは通じているのか。ここまでひとりの女に溺れた経験がなかった。滑稽で哀れで、いささか恥ずかしい気持ちにもなる。まるで初恋のようだ。もう恋は、何度も経験してきたというのに。
雫原にとって、恋は始まれば、やがて終わるものだった。永遠性はない。いっときすべてを預けるようにあいしあった女も、やがて夢は覚めて離れてゆく。ときおり吸う煙草のけむりとひとしい。人生の中でたまに訪れて、そして終わってゆく。
言葉とも、そうなってしまうのだろうか。小説のプロットは完結まで苦も無く書けるというのに、恋愛のプロットはわからなかった。文字が霧の中を走って、こちらからは何も見えなくなっている。
本屋の上に雪が降ってきたらしい。古いこの建物は、ちいさな雪がふりつもる音でさえ、くっきりと輪郭をともなって聞こえてくる。店内のBGMと重なり、雪が屋根をどさどさと落ちる音が混ざっている。
なんとなくこの店のBGMは気に入らなかったので、雪の音のほうが風情があって、心を落ち着かせた。口に咥えたピーチ味のペロペロキャンディだけが、今の自分の周囲で一番ポップだ。
メイン通路の棚に置かれた雑誌コーナーから離れ、奥まった通路までやって来ると、男は、かけていた濃いブルーのレンズのサングラスのテンプルを、ひとさしゆびでくいとあげる。肩にかからないくらいの髪を、うなじのあたりでひとつに束ね、短いしっぽのようにしている。髪色はグレージュに染め、ワンレンの長い前髪が、頭を少し下げると頬にかかるので、そのたび、うっとうしそうに耳にかけていた。
水を得た魚のように、自然に口角もあがってきた。
陳列された無数の雑誌の上を、ピアノを弾くようにゆびを踊らせてゆくと、やがてお目当ての雑誌へとたどり着いた。
とぅるるるる……、とくちびるをすぼめて、舌を細かく動かしながら軽快で高い音を出し、ひとつ手に取った雑誌をひらく。
表紙は、短いフリルのある黒いランジェリーを着た肌に艶のあるレッドブラウンの波打つ長髪の女が、こちらを上目遣いでみつめている。透けたチュール素材から、女のむせかえるようなにおいがこちらまで漂ってくるような妖艶な写真だった。
ワンレンヘアから覗く、女の広い額の上に、ショッキングピンクの大きなタイトルがゴシック体で書かれている。ラメはついていないが、デザインでラメがかかっているような華やかな見た目だ。
妙齢の男性に人気がある雑誌で、今月の特集は「ポルノ作家特集」だった。
普段はこの雑誌にあまり興味を持つことがなかったが、特集の内容を知り、発売日から数日経ってから本屋に足を運んでみた。近くのコンビニで買うことも考えたのだが、他にも興味がある小説や漫画の新刊が出ていたので、それもついでに見る予定で。
今日の男は、普段よりもひと膜きらめきを纏ったようで、気分もいきいきとしていた。水をたくさん飲んだあとの開放感に似たものが、体の中を流れている。
前半に書かれた大特集の、超人気作家特集を過ぎ、後半に入って少ししたページに、今回のお目当ての記事はあった。
『東雲冬彦の世界』
活字で大見出しされている。その横に重なるように、男女が裸でからむ絵が見開きで大きく描かれていた。繊細な細い線で、肩甲骨や、ふたりの髪のひとつひとつまで手に取ればこぼれて流れ落ちるような筆致だった。
男__東雲は、自らが描いた成人向け漫画の絵を見て、にやりと口角を高くあげた。
「ははっ、やっとここまでのし上がってやったぜ」
東雲は開いたページの見出しをぱちんとゆびで弾くと、顔に近づけてまじまじと見開きをみつめて堪能した。成人向け漫画家として、売れるまで苦労してきた彼の、成功の証。意識せずともにやけが止まらない。
しばらくしてから、ようやく顔を離し、名残惜しそうに次のページをひらく。どうせ後は興味のない記事ばかりだろうと思い、期待しないでその他のポルノ作家の情報だけ得ておこうかなというくらいで、雑にめくってゆくと、あるページに見知った名前があり、はっと手を止めてサングラスの奥から凝視した。
「あ?」
それは、著名人がおすすめの官能小説家をそれぞれあげていくという企画のコーナーだった。
ある作家があげたおすすめの作家ランキングの第一位に、雫原蔵之介の名前が明記されている。
「こいつ……葛原じゃねえか」
東雲は雫原の名前を上から舌へ直線でなぞると、煙管を咥えたなつかしい旧友の白い横顔を思い返していた。
小説は、山場を迎えていた。このセックスシーンさえ描き終われば、なんとか今宵は一段落つく。いつの間にか、額に汗がうっすらと滲んでいる。はたりと万年筆を置き、動きを止めて伏せていた上半身をあげる。濡れた前髪を左手で掻きあげると、自分の幼さに辟易して口角をあげた。
集中しなければならないのに、今原稿用紙と己のあいだに、女の顔が浮かんだ。言葉だった。
彼女が通りを颯爽と歩いているしずかな顔と佇まい。それから、この腕に抱いたときのやわらかにくらやみに浮かびあがる白い裸体。言葉が頬を顎をうす紅に染めてこちらを振り向く、汗に濡れて彼女の顔に細い髪が張り付いている、その記憶さえも。
「煙草を吸おうかな……」
独りごちると、部屋の戸棚から煙管を取り出す。丸めた刻み煙草を火皿につめ、マッチの炎で遠火で着火する。片手で支えながら煙を吸うと、眼の前に漂っていた、言葉との白い耽美な記憶が集まり、体の中に溶けてゆくようだった。
天を仰ぐ。シミのある天井しか見えない。だが、この先に広がる冬の夜空は、東京に一人暮らす言葉とも繋がっている。彼女は今、何を思い、何をして過ごしているだろう。
まぶたを閉じると、自然と眉間にしわが寄った。
天と雫原のあいだを、白いけむりが漂って消えてゆく。
言葉とは恋愛関係になった。自分は彼女のことが本当にすきだが、会うたびに彼女を求めて激しく抱いてしまう。体目当てだと思われていないか。本当に、気持ちは通じているのか。ここまでひとりの女に溺れた経験がなかった。滑稽で哀れで、いささか恥ずかしい気持ちにもなる。まるで初恋のようだ。もう恋は、何度も経験してきたというのに。
雫原にとって、恋は始まれば、やがて終わるものだった。永遠性はない。いっときすべてを預けるようにあいしあった女も、やがて夢は覚めて離れてゆく。ときおり吸う煙草のけむりとひとしい。人生の中でたまに訪れて、そして終わってゆく。
言葉とも、そうなってしまうのだろうか。小説のプロットは完結まで苦も無く書けるというのに、恋愛のプロットはわからなかった。文字が霧の中を走って、こちらからは何も見えなくなっている。
本屋の上に雪が降ってきたらしい。古いこの建物は、ちいさな雪がふりつもる音でさえ、くっきりと輪郭をともなって聞こえてくる。店内のBGMと重なり、雪が屋根をどさどさと落ちる音が混ざっている。
なんとなくこの店のBGMは気に入らなかったので、雪の音のほうが風情があって、心を落ち着かせた。口に咥えたピーチ味のペロペロキャンディだけが、今の自分の周囲で一番ポップだ。
メイン通路の棚に置かれた雑誌コーナーから離れ、奥まった通路までやって来ると、男は、かけていた濃いブルーのレンズのサングラスのテンプルを、ひとさしゆびでくいとあげる。肩にかからないくらいの髪を、うなじのあたりでひとつに束ね、短いしっぽのようにしている。髪色はグレージュに染め、ワンレンの長い前髪が、頭を少し下げると頬にかかるので、そのたび、うっとうしそうに耳にかけていた。
水を得た魚のように、自然に口角もあがってきた。
陳列された無数の雑誌の上を、ピアノを弾くようにゆびを踊らせてゆくと、やがてお目当ての雑誌へとたどり着いた。
とぅるるるる……、とくちびるをすぼめて、舌を細かく動かしながら軽快で高い音を出し、ひとつ手に取った雑誌をひらく。
表紙は、短いフリルのある黒いランジェリーを着た肌に艶のあるレッドブラウンの波打つ長髪の女が、こちらを上目遣いでみつめている。透けたチュール素材から、女のむせかえるようなにおいがこちらまで漂ってくるような妖艶な写真だった。
ワンレンヘアから覗く、女の広い額の上に、ショッキングピンクの大きなタイトルがゴシック体で書かれている。ラメはついていないが、デザインでラメがかかっているような華やかな見た目だ。
妙齢の男性に人気がある雑誌で、今月の特集は「ポルノ作家特集」だった。
普段はこの雑誌にあまり興味を持つことがなかったが、特集の内容を知り、発売日から数日経ってから本屋に足を運んでみた。近くのコンビニで買うことも考えたのだが、他にも興味がある小説や漫画の新刊が出ていたので、それもついでに見る予定で。
今日の男は、普段よりもひと膜きらめきを纏ったようで、気分もいきいきとしていた。水をたくさん飲んだあとの開放感に似たものが、体の中を流れている。
前半に書かれた大特集の、超人気作家特集を過ぎ、後半に入って少ししたページに、今回のお目当ての記事はあった。
『東雲冬彦の世界』
活字で大見出しされている。その横に重なるように、男女が裸でからむ絵が見開きで大きく描かれていた。繊細な細い線で、肩甲骨や、ふたりの髪のひとつひとつまで手に取ればこぼれて流れ落ちるような筆致だった。
男__東雲は、自らが描いた成人向け漫画の絵を見て、にやりと口角を高くあげた。
「ははっ、やっとここまでのし上がってやったぜ」
東雲は開いたページの見出しをぱちんとゆびで弾くと、顔に近づけてまじまじと見開きをみつめて堪能した。成人向け漫画家として、売れるまで苦労してきた彼の、成功の証。意識せずともにやけが止まらない。
しばらくしてから、ようやく顔を離し、名残惜しそうに次のページをひらく。どうせ後は興味のない記事ばかりだろうと思い、期待しないでその他のポルノ作家の情報だけ得ておこうかなというくらいで、雑にめくってゆくと、あるページに見知った名前があり、はっと手を止めてサングラスの奥から凝視した。
「あ?」
それは、著名人がおすすめの官能小説家をそれぞれあげていくという企画のコーナーだった。
ある作家があげたおすすめの作家ランキングの第一位に、雫原蔵之介の名前が明記されている。
「こいつ……葛原じゃねえか」
東雲は雫原の名前を上から舌へ直線でなぞると、煙管を咥えたなつかしい旧友の白い横顔を思い返していた。



