文学女子は、春に溶ける

 紙がペン先とこすれる音と、鼻から漏れるかすれた息が、しずかな部屋の中を、撫でるようにそっと響いている。
ブルーブラックのインクが、褪せた色をした原稿用紙の上をすべり、うっすらと沈んでゆく。編集者と打ち合わせたプロットに沿って、物語を生み出す作業は苦しくも楽しかった。いや、楽しいというよりも、やるべきことをやっているという感覚になっている。原稿中は音楽は聴かなかった。ひとだんらくして、休憩を得る時間に、昭和製の蓄音機にレコードをかける。SP盤に鉄製の針を落とし、溝を引っかいて針先が振動する。くすんだ金の扇のようなホールから音楽があふれて流れる。好んで聴くのは、洋楽やジャズ、80~90年代のJ-POPだった。曲の序盤だけ目を開けて、興が乗ってきたらそっとまぶたを閉じる。椅子に深く腰掛け、上向きながら音楽を浴びていると、頭の中にさまざまな景色が浮かんでは消えてゆく。自然にうまれる映像がおもしろく、また、作品づくりのネタにもなる。春のこもれび、夏のひかり、秋の風、冬の雪__。摑もうとすれば消えてしまうものたちが、走馬灯のように脳裏を忙しくも穏やかに駆け巡る。歌詞やタイトルがけっして季節を表しているものではないのに、雫原の中で勝手に変換されて、うみだされるあざやかなにおいといろ、そして質感。
レコードを止めて、脚の上で組んだ右手のゆびで、左手の甲をそっと叩き、しばらく天を仰いでから、また原稿に向き合う。それの繰り返しだった。かたわらに置いた白のマグカップに注がれた珈琲(コーヒー)を飲むことも、忘れない。
馥郁(ふくいく)とした薫りと音楽の余韻をからだに残して、原稿を書き進める。人工的な音が消え、より澄んでゆく夜の空気と、庭の枯れゆく木々の枝がふれあう掠れた音と、ペンが原稿をすべる音だけが聞こえている。
音楽は消えたというのに、文字を紡ぐたびにうまれるものがあった。言葉のおもかげだった。特にラブシーンを書いているときに、あざやかによみがえる。
あのとき、朝の徐々にあからんでゆく薄あかりの中で、ぼんやりと宙をかいていた白く細い腕。自分の下で、肉体を受け止めてくれていた湿ったなめらかな肌。枕の上に、扇のように広がった黒髪の線。それを触る自分のゆびにからむゆび。中を動くたびにあがる、高く澄んだあまい声。やわらかく香る、季節外れの桜の香りでさえ。
 雫原は手をとめた。万年筆からインクが濃く原稿用紙につき、今生み出した文字の橋に青い点がぽつと広がる。
天を仰いで、女のおもかげをかすみのように漂わせると、ふたたび筆を進める。さきほどよりも書くスピードは速くなっている。滑らかに泳ぐようだ。
今宵書くと決めていたところまで一気に書き切ると、ペン先のインクを拭き取り、かたわらの琥珀のペンスタンドに立てかける。
背もたれに背を預け、深く息を吐いてふたたび天を仰ぐ。天を仰いでいるあいだは、思考が休まった。とめどなくあふれてたアイデアの思考を抑えるために、必要な行為だった。
ふと、口寂しくなって煙管を取り出し、咥えて吸う。煙草の味が、徐々に口内に染みてくる。目の端が濡れ、落ち着いてくる。
白いけむりが透明にかすむ視界の中で、ふたたび言葉の白い背中が重なった。
それにふれたい、くちづけたい衝動でからだの血流が熱くなるのを感じ、眉を寄せて煙管を口から離すと、歯を噛む。苦い味がした。眼鏡のブリッジをゆびさきで押さえる。しばらくそうしていると、押さえたゆびが震えてきた。痛みからではない。心が苦しいのだ。
雫原はうつむいたまま、右肩を動かすと、目の前の原稿を払った。
ラブシーンを書き綴っていた原稿が一枚、はらりと舞い上がって、雫原の肩を通り過ぎ、床へと落ちてゆく。冷えた空気の中で、かすかに生まれた風は、さらにつめたく頬を撫でた。
「俺は……、おかしくなってしまったのだろうか」
言葉を抱くようになってから、抱いていないあいだも、彼女の肌や声、髪ばかりを思い浮かべている。もはや体に染みつき、剥がれない。
右腕を左手でぎゅっと摑む。痛みを覚えるほどに強く。これほどまでに女に溺れたことはなかった。いつも淡白で、別れたいと言われたら別れ、それきり思い出すこともない。ひとへの執着がないところが、自分の長所だと考えていたのというのに。
「……笑えるな。若い女に懸想(けそう)して、仕事にも影響を受けているだなんて」
 くちびるの端をかるくあげると、夜が更けても眠ることはせず、そのまま仕事部屋の椅子に座り続けていた。仕事はせず、ただじっとうつむいて、己の肩を抱いているだけ。
 閉じたまぶたには、言葉のことばかり浮かんでいた。