白を基調とした大学の研究室の壁はすきだった。人間関係が面倒になると、それだけをみつめていたくなる。大学には、本当の意味でひとりになれる空間が無かった。学科の閲覧室はカフェのような場所になりつつあり、資料以外の机がある場所で、弁当を持参して昼を食べながら雑談するグループが出来ている。図書館も雑談が発生しないにしても、ひとがまばらにいる。次の授業が入っていない教室で、ひとり過ごすしかないが、スタッフに教室を借りる申請を出さなければならないので、それも面倒だった。本当に親しい友人と付かず離れずの距離でいる以外は、ひとりがすきなんだということを思い知らされる。
だから、ひとがいる場所で、ひとりになりたいときは、壁をみつめている。オフホワイトの、白に黄色をひとしずく混ぜたような色合いが、心落ち着かせた。
今もそうだった。目の前にひとがいても、どうしても心だけをひとりでいさせたくなる時がある。
言葉の目の前には、学科の指導教授の長内(おさない)がいる。来年書く予定の、卒業論文の概要をチェックしてもらっていた。言葉からさきほど受け取った紙にプリントアウトされた活字を眺めて、顎をゆびで触っていた。
「……うん、いいんじゃないかな」
長内からのことばに、ほっとして息を漏らした。意識を壁から引き離す。
「ありがとうございます」
 淡白に礼を返した。
「うん。これでいい。論文を書くときは、このまま書き進めてね。後は資料集めか……。君も既に知っていると思うけれど、山種美術館に松園の絵画はいろいろあるから、まずはそこには行くといいよ。美人画について専門的に研究している教授がうちの大学にはいないからなぁ。陸学院大学の利山先生に僕のほうから連絡取ってみようか?」
「ありがとうございます。長内先生もお忙しいのに……」
「いや、僕の専門は水墨画だからね。美人画でレポートや論文書きたいとなると、三人の教授の中では僕になるんだけど。系統的に僕のほうに来てもらうことになるからさ」
「いえ、見ていただいてありがたいです。他の画家や時代についても勉強になりますし」
「うん。今ももちろん読んでいると思うけど、松園きっかけで、気になった他の画家の論文も読むと良いよ。まだ来年の提出までに時間もあるしね。大学院の説明会には、浅桜さんは参加するの?」
 言葉は固まった。
「いえ、まだ決めていなくて……」
「そう。浅桜さんて就職組だったっけ? そのほうが割合多いからなぁ。でも、僕としてはぜひ大学院に進んでほしい気持ちがあるよ。ゼミの中で特に優秀だし、論文をたくさん読んだ上で発表しているし。もっと深く研究を続けてほしい」
 (こいねが)うような態度を取られ、言葉は困惑して眉を寄せる。
 また、またこれだ。将来の話が出るたびに、誰かに期待させられ、勝手に進路を予測される。私の方から、まだひとこともこうしたい、ああしたい、ということばを拾ってはもらえず。もちろん、詩子も長内も、それ以外のひとびとも、皆言葉のことを考えて言ってくれているのはわかる。悪意もないのもわかる。それでもはがゆかった。そして当の自分は、ひとの意見を優先して、そちらへ流れるのがよいと思い始めている。客観的に見た自分のことは、自分ではわからない面もある。ひとの意見を聴くのが大事だとは思っている。それでも、なにか嫌な気持ちが拭えない。
「まあ、お金のかかることだし、親御さんとご相談することもあるだろうから、すぐに決めろとは言わないよ。でも来年の一月には就活対策講座も大学で始まるし、それまでには、さ」
 長内は言葉の肩を叩こうとして、そっと手をおろした。セクハラになるかもしれないと思ったのだろうか。鼓舞してくれようとしたのだろう。長内はそういう人情味ある男だった。
 肩を叩かれなかったことに、ほっとしていた。
 雫原に抱かれるようになってから、他の男に少しでもふれられることに嫌悪を感じるようになった。それがたとえ信頼している師であってもだ。
 長内に深く頭を下げて、教授室を後にした。ふたたび白い壁をみつめてから。

 言葉はまた学内のカフェに身を沈めていた。角の席が空いていたので、そこに深く腰をかけて。幸い、カフェにはひとが少なく、今少しばかり離れた席に座っているカップルがされば、言葉ひとりという状況になる。それが良かった。ひとりになりたかった。今は特に。
 冷えた外の空気と比して、カフェの中は穏やかであたたかい。教授室からカフェに至るまでの道で嵌めていた深い紅の手袋を外し、テーブルに向かい合った椅子の上に置いた、黒い鞄の上にそっと重ね置いていた。生になった白い手をくるくると裏表にひるがえし、とめどなく心の中央からあふれてくる不安や迷いを拡散させようと試みていた。
就職して社会人としての道を進むか、大学に残って研究を続けるか。進路について、両親はどう思うだろうか。自分はどうしたいのだろうか。それがわからなくなっていた。
カフェの中で、他の学生のあかるげな声が聞こえてくる。就職が決まった四年生に、三年生が就活について尋ねているのだ。その会話は、未来への黄色い希望に満ちあふれていて、今の言葉とは空気の層が違っていた。
__私は、自分の人生を、どう生きていきたいのだろう?
 周囲の景色が暗転する。暗くなりきらないくらやみは、どんよりと湿った灰色だった。この場に停滞していたいような憂鬱感と、速く抜け出したいような焦燥感がないまぜとなり、言葉を苦しめる。
 やがて蝿が耳元で舞うような、ぶうんという濁った音が頭の中で鳴る。
 言葉は重い頭を両手で覆い、その場から動けなくなった。
 どれほどの時が経っただろう。いつの間にかあたりは静かになり、店員がマグカップやグラスを片付けるかちゃりとした音だけが、密やかに響き、言葉の下ろした髪にふれている。
 伏せていた顔はそのままで、言葉は手だけを動かすと、かたわらにかけていた鞄の中から、そっと文庫本を取り出した。紫の地に、桜模様が描かれた、季節外れのそのブックカバー。
 顔の前まで持ってくると、ゆびさきは意識せずともなめらかな質感の紙をひらき、眸は吸い付くように、そこに書かれた活字を読んでいる。からだの血流に、文章から流れ出す映像が染み渡ってゆく。この感覚は、雫原の本を読んでいるときでしか味わえない。本と自分が一体になっているこの上ないしあわせな時間。いつの間にか、鬱々とした気持ちから解き放たれていた。
 そうして確信する。雫原の本が、どれほどに言葉の救いとなっているかを。
言葉は本を読みながら、はっきりとした顔へと変わっていた。
 
大教室の大きな硝子窓からこぼれるひかりはやわらかで、それだけで冬を迎えてよかったという前向きな心地になる。いや、それはひかりのおかげだけではなかった。手元に文字通りのぬくもりはないが、あるだけで内側からあたたかさを生み出せるものがあるからだ。
数メートル離れた先に、未だ若手の准教授がはきはきとした声で講義をしている。
それが耳には輪郭を伴わないふわふわとした音にしか聞こえなかった。頭の中には今現在置かれている場所ではない別の空間の映像が浮かんでいた。においも、感触も、立ちあがる気配も。肌に吸い付く汗も。
白黒の映像の中、言葉はうすい敷布団の上に横たわっていた。必死で、上からおとずれる生ぬるい感触にこたえている。くちびるや、硬いゆびさきが、白い胸にしっとりと沈んでくる。いやな粘つきはなく、からみつくものは、さらさらとしていた。
額にふれる雫原の黒い前髪は、やわらかく、下半身を動かすたびに広い額を撫でてくれるようなやさしさだった。
言葉の意識は、雫原との情事に飛んでいた。冬の大教室のやわらかさも、准教授の声も、周囲の生徒たちの気配も、すべては記憶の中の情事にかぼそく流れる自然音に変わってしまっていた。そしてその情景は、言葉の頭の中で流麗な活字に変換されていた。雫原の本の中に登場した情事の場面が、実際に言葉の肉体に起きたことで、容易に頭の中に本の情事部分が出力されてゆく。まるでキーボードでぽちぽちと文字が打たれてゆくように。
いつしかそれが、言葉の現実逃避の方法になっていた。
 教室に入り、席に座り、教授の声が聞こえてくると、自然と意識が現実から離れ、遠くへと、記憶の中にある情事とそれを活字で重ねて思い出す自分になる。自分で場面を文章で描こうとするのではない。もともと書かれていた文章を、行為ごとに追うのだ。
「__そして、女の脚を肩にかけると、男は腹を引いて、熱い息を吐いた__」
 はっと意識が冴え、現実に引き戻される。手のひらで支えていた顔を起こす。髪が背をちいさく舞う感覚で、ふたたび意識がはっきりとする。そっと見下ろしたゆびさきは、うす紅に染まっていた。
__今、私は。
 頭の中で思い起こしていた、雫原の小説の文章を、無意識につぶやいていた。
周囲の音が元に戻り、教室からひとがいなくなっても、言葉は椅子から腰をあげられずに、ただ静かにそこに佇んでいた。

外に出ると、日差しは校舎内にいるときよりもすっと肌を直接差してくる。硝子や壁のフィルターが取り除かれて、自分もこの柔い空気の一部になったようだ。ひかりをふくんで、よりいっそうなめらかに白くなった自分の手の甲を見下ろして、言葉はさきほどの甘美な妄想から意識を冬へ、冬へと戻そうとしていた。太陽が遠くなり、空気の中をうすくただようこの季節に。
淡い緑や黄が透明にぼやける空気の中、半分ひらいたまぶたで辺りを見渡せば、まばらに散った学生たちが、各々たのしげに過ごしている。
恋人と連れ添うもの。サークルの仲間と並ぶもの。ゼミの学友と論議するもの。皆それぞれの会話や人間関係を築き、若い活力にあふれている。
そんなまぶしい光景が視界に入ると、眉をひそめてまぶたを下ろし、そのひかりを遮ってしまいたくなる。今の言葉には、青天井から降り注ぐ自然のひかりだけでよかったというのに。

清らかな世界の中、雫原と自分のただれた関係を思う。
ふらふらとおぼつかない足取りで、辿り着いたのは図書館の横にある、ひとがふたり分入れるくらいのちいさな広場に設置されたベンチだった。ここは周囲をかるく木々に囲まれており、奥まったところにあるので、あまりひとが来ない。完全にひとりになりたいときに、言葉がよく訪れる癒やしの空間だった。地はうっすらと苔が生えていて、わかみどりに染まっている。覆う木々の肌も、ところどころ緑に染まっていて、漂う空気にも葉緑体があるようで、さきほどまでよりも澄んでいる。
脚のちからを失ったように、すとんと腰を落とすと、羽織っていた黒いコートの襟を片手で握りしめ、顔を隠すようにうずめた。人工的に造ったくらやみの中で、視界がぐらついた。しょっぱいくるしさが喉から舌先へあがる。そうして気づく。自分が泣きそうになっていることに。
雫原とこういった形の恋愛関係になっていることは、親しい詩子にも言えずにいた。付き合っているひとがいることはなんとなくばれてしまっていて、「年上の会社員男性」と、とっさに嘘をついてしまって、そのままになっている。
 それを聞いた詩子から、学業も恋愛もうまくいっていてうらやましいと、くちびるを尖らせて言われたが、そのことばに違和感を覚えた。
うまくいっている?
詩子が言葉から顔をそらしたときに、うつむいた世界で見えたのは、くらいくらい闇だった。