十二月が、十一月よりも一段と空気が澄み渡り、寒さで四肢の動きが鈍る代わりに、五感が冴えてゆくように感じる。たったひとつ、数字が増えただけなのに、何故これほどに、からだは敏感になるのだろう。
 言葉はふしぎに思いながら、ふたたび鎌倉を歩いていた。
 灰がかった淡い色彩の森を抜け、空気に薫りが交じると雫原邸が見えてくる。合図をしなくとも、軒先に彼は立っている。左手首を右手でかるく摑み、まるいまぶたを閉じながら。波打つ前髪は、長いまつげにふれそうに、しずくをはらんだ冬の空気の中をたゆたっている。彼の周りだけ、うすい透明な膜が張っている。清らかだけれど、それは今だけの純度だろうか。このあと、男と女として、またからみあい、熱を与え合えば、消えてしまうものだろうか。うすら白い雫原の黒髪に描かれる光沢をみつめながら、そんなことを思う。
「先生」
 雫原の姿が見えてから、駆け出してしまっていたことに、距離が近寄ってから気づく。好物をみつけた子どものようで、我ながら恥ずかしい。うっすらと頬に熱が集まり、乾いた空気が、言葉の周りだけ湿り気を帯びる。
 雫原は顔をあげた。かるく目を瞠り、添えていた右手を下ろして、そのまま蒼い着物の裾に入れる形で両腕を組んだ。
「こんにちは」
 しずかな挨拶だった。声音にやさしさがこもっている。
 言葉は雫原の前で足を止めると、うつむき、荒い息を吐きながら、かるく膝を曲げて、両手をそれに乗せて、上半身を支えた。走ることには慣れていない。家で、ひっそりと本ばかり読む日々を過ごしていたから。
 こめかみに汗が流れる。
 顔をあげると、穏やかな笑みを浮かべた雫原が、こちらを見下ろしていた。
 それを見て、言葉は安心して、固まっていた表情筋をゆるめる。額に張り付いていた黒髪を右手のゆびさきで真横に撫で付けると、つめたい空気ですぐにさらりと乾かされた。
 髪の輪郭が、冬の陽光を背負って、やわらかく薄青の空に溶けていた。

 荒い息遣いは、寝室でも続いた。むせかえる吐息の羅列は、外で吸って吐いていたものよりも濃厚な湿度がある。くちびるを覆うのは、吐息の湿度なのか、それとも雫原の口内の湿度なのか、わからなくなっていた。それまでは正気を保っているのに、彼の寝室に足を踏み入れ、からだをまさぐられ、抱かれていると、感覚が狂わされる。今は確か昼のはず。なのに、すでに闇が訪れ、夜の深みにはまっているようにも感じていた。脚の真ん中から絶えず訪れる快楽の波によって、時間の感覚さえも、わからなくなっている。
 喉を逸らすと、雫原の舌が、胸鎖乳突筋にそって顎下まで舐めてくる。熱い。火が走るようだった。肌がふれていないところは、氷の粒が散らばったような、冷えた空気を感じるというのに、肌が重なっているところは、真夏の地面のように、温度が高くなっていた。
 息を漏らす。雫原がその息ごと呑み込む。
 腕を伸ばす。雫原が、そのさきの手を握ってくる。
 足を曲げる。雫原が、その間に入ってくる。
 何度目かの挿入が終わり、雫原の先端が離れたとき、これは以前どこかで体験したことがあると、霞みがかった頭の奥で思っていた。
 どこだろう。雫原と肌を重ねたのは、先月の終わりがはじめてだったというのに。この体位や、このふれかたを、言葉は知っていた。
 太ももを持たれ、尻を引き寄せられたときに、頭の中に活字が浮かんだ。吸い込まれるような美文。なめらかな筆致。性行為の描写でさえもうつくしく、いやらしさを感じさせない。
__ああ。
 そうだ。これは、雫原の小説だ。これまで読んできた彼の小説に登場する性交が、言葉によって試されていたのだ。
 それに気づいたとき、雫原のゆびの腹がふれた箇所や、四つん這いにならされ、後ろから挿入されたペニスの厚みが、よりしんと体の感覚を鮮やかにさせた。とんとん、とやわらかだった突きが、徐々に激しくなり、性器から大量の愛液をあふれさせる。速い摩擦は、肉がひとつになった感覚をすぐに手放され、離されて切なくさせるので、早くまた奥に戻ってほしいという焦燥感で、言葉の白い尻を、自然と高く上げさせる。
 激しく感じ、額から汗をこぼしながら、言葉は雫原の小説を、記憶の中で読み返していた。

 言葉は東京から鎌倉の雫原邸を往復する日々を送っていた。家に帰らず、大学終わりにそのまま電車に乗ってやって来たことも、何度もあった。
 目白から新宿までを山手線、新宿からはJR湘南新宿ライン快速の逗子行きが、乗り換えなしで一番速く鎌倉駅まで着けるので、よくその路線を使っている。時間が合わなければ、新宿から小田急線で藤沢駅まで行き、JR湘南新宿ラインで大船駅まで乗り、そこから逗子行きに乗り換えて鎌倉駅まで行く。定期券から外れてしまっているので、交通費がかかるが、家に行くたびに雫原がその分のお金を出してくれた。最初は断ったが、「本来なら私があなたの家まで訪れなければいけないところを、こうして来て頂いてるのだから」と、有無を言わせぬ態度だったので、しぶしぶ受け取るようになった。受け取るのはきっちり交通費分だけで、それ以上の金額はもらわなかった。そのため、一回一回の訪問を、とても大切にするようになった。
 鎌倉は、言葉にとって観光の名所ではなく、すきな男に抱かれる場所となってしまった。
__これはもう付き合っていると言っていいのかしら。
 ぼんやり疑問を抱きながらも、ここへ訪れるたびに、雫原に、体力の限界まで抱かれている。
 自分の中にあんな嬌声を出せる喉があったことに驚き、快感で大粒の汗を流す肌に驚き、湿ってからみ、男を離さない性器に驚いている。自分のからだが、自分ではないみたいだった。いや、これが本来の自分の中に眠る女だったのだろうか。
雫原に抱かれるたびに、いつかどこかで見た映像が浮かび、それが小説の中のセックスシーンだと気づく。だがそれを、彼に尋ねたりすることはなかった。自分自身も、小説の中のセックスを試されていることに、しずかに興奮していたからだ。それも、くちに出すことはなく。どんどん関係は淫らで密なものになってしまってきている。
 
 事が終わると、雫原はしずかに言葉から剥がれ、火照ったからだを広げられるように布団をゆずり、かたわらで背を向けて着物を羽織る。そうして煙管を棚から取り出すと、右手で支えながらゆっくりと吸っては吐いて、白い薫りを味わっている。
言葉は腕を平行に広げ、それをみつめていた。盛りあがった白い胸の上に、窓から差し込む真昼の冬あかりが透明にふれていて、まだ暮れ落ちていないことにようやく気づく。接吻によって(あか)くちいさな花が幾つも肌に咲いていた。その赤さとの対比で、自分の肌が雪のように白いことを改めて知る。
 下半身のけだるいあまさの落ち着きを待ち、ささやかな口呼吸をして、半分まぶたを伏せていたら、着物を着終わった雫原がこちらを向いた。
「眠いのですか」
 眠くはなかった。ただ、冬の冷気と肉体のけだるさに包まれて、うすぼんやりと霞みの中を浮いているような心地になっていただけ。
 眸だけを動かして、雫原のほうを見やる。
 曇り硝子から漏れいずる、雪の粉を纏ったようなひかりを逆光にして、表情は霞みがかっているが、穏やかな笑みは、水がこぼれるようだった。女を抱いたあとの、すっきりと憑き物が落ちた透明感が、彼にも生まれていた。
__そうだ。その精を体感したのは私。
 今さら彼の指の動きを思い返すと、白い肌がうすい朱に染まる。彼のゆびは言葉の肌を、やわらかく変形させていった。それが、今までの男とのセックスがどれほど彼女のからだを硬くさせるだけだったのかに気付かせてくれた。それほどに、気持ちが良かった。
 鎖骨に乗せたゆびをかるく曲げ、あまいうずきに耐える。
 そうすると雫原が近づいてくる気配がした。
 鎖骨に乗っているゆびをとられ、そっとその第一関節に、くちづけを落とされる。
 言葉はその伏せられたまるいまぶたをみつめていた。いつの間にか、行為のときには外している眼鏡をかけていた。朝のひかりが反射して、縁が溶けて浮き上がっている。
「朝は何が食べたいですか」
「あさ……?」
 唐突な質問だった。朝? 確か雫原邸にやってきたのは十一頃だった気がする。いや、そうだ。十一時だ。今日は土曜日で、大学の授業も入っていないので、言葉にとっては休みだった。言葉の大学は、土曜日も授業を入れられるシラバスになっている。一年生のうちは授業を取っていたが、取り終わってしまってからは土曜日に授業を入れることはなくなっていた。だから土曜日は自由だった。自由だからこそ、平日のように大学終わりの夕方や昼過ぎに鎌倉へやって来ることもなく、直接自宅から雫原のもとへやって来ることが出来ている。
「先生……。今は朝ではないわよ」
「へ?」
「今は……、おやつの時間です」
 雫原は笑顔を崩し、唖然とした表情になると、窓の外を見やった。
 青天井に白い太陽が浮かんでいるが、咲き始めではなく、中空でかがやいている。
 雫原のかけた眼鏡を、その白いかがやきが覆っていた。
「あちゃあ……」
 虚しい響きがあいらしくなり、言葉は仰向けになっていた上体を起こして、くちもとにこぶしを当てると、くすりと咳をこぼすように笑った。
 さきほどまで、自分のからだに触れて重なっていた男から漏れ出たことばや態度だとは思えないあどけなさだった。そこが、この男の魅力のひとつでもあるのかもしれない。
 まぶたを伏せる。
 言葉はさらに雫原に溺れていった。

 愛し合うことが終われば、鎌倉駅まで雫原は送ってくれた。いつもこうだった。駅に着くまでは他愛ない話をしずかにしている。セックスの内容にはふれない。あのふれ方や、挿れ方は、貴方の小説に書かれていることなのですか、とは訊かなかった。訊けなかった。多分そうなのだろうなと思ってはいても、それは言葉にとって嫌なことではなかったし、逆に彼にそうやってふれられていることに、一種の興奮も覚えていた。徐々にからだは雫原の色に染められている。それを考えると頬や額が熱くなる。
 言葉はくちびるを閉じると、少しうつむき、右手を左の二の腕に添えた。髪がかるく揺れて、頬を撫でる。
「どうされました」
 雫原が異変に気づいて、尋ねてくれる。
「いえ、なんでもないです。ただ、しあわせすぎて、怖いくらいなの」
 頬に流れていた髪をそっと払い、顔をあげる。作り笑顔のつもりだったのに、自然に笑みがこぼれた。これはしあわせだということの証なのだろうか? 体から発せられているということ? くちもとは笑んでいるというのに、眉尻は下がり、喉の奥には切ない気持ちが芽生えていた。
 雫原は言葉の笑顔を見て、かるく目を瞠ったが、やわらかな笑みを返し「そう、それはっ良かった」とつぶやいた。
 鎌倉駅で雫原と別れた。改札を通り過ぎる前にかるく手を振り合い、そのまま後ろを振り返らずに、まっすぐホームまで向かう。未練がましい女には、なりたくなかった。
セックスだけして帰るなんて、まるでセックスフレンドみたいだ。でも、こんな日ばかりではなかった。家でセックスする前に、カフェに寄って話し込んだことも何度かある。今読んでいる本や、最近面白かった映画、学校や仕事等、互いの環境のことについて、他愛ないそのあたりにいるカップルのように、普通に、共にいることをたのしんで。これから濃密なことが起こり、何度も通過しているというのに、そのときばかりは会話だけや雰囲気だけが楽しくて仕方がなかった。互いの性をからませる乱れた日々を過ごすようになってから、そういった時間が大切だということに気付かされる。けっしてセックスが嫌なわけではない。あまい快楽を与え合うのは必要なことで、互いの求めに逆らうことは出来なかった。抱かれているあいだは、すべてを忘れられた。学校のことも、友人のことも、遠くに住む家族のことも。悩んでいる将来のことさえも。雫原の節くれだった細いゆびが、自分の白くやわらかなゆびとからむと、この上ない満たされたあまやかさを感じることが出来た。これが、恋をして、好いた男にふれられる悦びだとも。これに変えられる温かさはなかった。
 
 電車の硝子窓に映る流れゆく木々を見送る。既に葉は枯れ、褪せて落ち着いている。これから冬が深まれば、これらの葉たちも枝から離れ、やがて裸になるのだろう。そう、はだか__。 
言葉はぼうっとしていた。肌には、雫原のぬくもりが染み込んでいる。両腕を抱きしめてぎゅっと摑むと、硝子窓に額をつけて、次の駅に到着するまで、そうして身の内を巡る熱と記憶にたゆたっていた。恋の時間が終われば、ふたたび学校で自分の将来と向き合わなければいけない時間がめぐってくる。だが、今だけは、離れてからまだ時を置いていない今日だけは、雫原のことだけを考えたかった。