__筆を取るとき、鈍くつめたい万年筆をゆびに挟む時、私はいつも別世界へと旅立つのだ。淡い色彩の織りを抜けて、透き通った肉体(からだ)はこの世から旅立ち、内側へ、より内側へと飛んでゆく。その感覚は、いつか死ぬときにも似ているのではないだろうか。
 
雫原蔵之(しずくはらくらの)(すけ)」というペンネームにしてから、周囲の温度や感覚が透き通ったようだった。姓は本名の(くず)原橙(はらだい)()をもじっただけで、名は好きな俳優からもらっただけの、自分から見ると単純な名前だったが、デビュー当時の担当編集者に、決めたペンネームを告げると、良い名前ですね、とよろこばれた覚えがある。何かへの執着も、こだわりもない。ただ、ひとよりも平均的に出来ない、劣っていると思うことが多い中で、文章を書くことだけが得意だったから、今の職業にありつけているだけだ。
 雫原は冬がすきだった。透明で、すべてのものに、うっすらとした青が宿っている。今の名前にしてから、よりその季節に惹かれるようになった。雪解(ゆきど)けの、透き通ったしずく。
現在の担当編集者の浅田(あさだ)には、暖房をかけてあたたかくするように言われているのだが、凛とした空気がすきで、まだ日も昇りきらない朝焼けの頃、露に濡れた窓を開けて、冷えた空気を頬や額に浴びながら、紺の半纏(はんてん)を着て執筆すると、不思議と(はかど)った。
 手先が(こご)えて固まってしまうまで、気が付かずに執筆していたこともある。
枯れ葉が、ふわりと原稿用紙の上に舞い降りて、時が経って己のゆびさきが、冬のしずかな空気に染まり、外側から徐々に冷えていたことに、気付くのだ。
 今日もそうだった。割と激しめの文章を書いているというのに、心は()いでおり、常に(たい)らかだった。

「抱いてください」
「いいだろう。顔から犯してやる」
 春三(しゅんぞう)は、片手で美代子(みよこ)の顎を摑んだ。柔らかな美代子の顎は、軽く指先が触れただけで、餅のように簡単に変形する。
その柔らかな感触だけで、全身の血が逆立ち、巡ってゆくのを感じた。この女の肢体(したい)も、この顎と等しい感触なのだろうと、美代子の纏う、淡い薄青のワンピースの下に隠された肌を思うと、鎖骨からぞくぞくとした感覚が昇ってきた。喉仏を覆う皮膚が、しっとりと濡れて熱く火照(ほて)る。
はやくこの女を犯したい__その想いだけで、張り巡らされた皮膚が破れて、溶けそうになる。思考は、早急な手の動きへと移ろった。
美代子の白い喉の下に覗く着物の襟に手を入れ、あたたかな胸をこぼれさせる。
首筋に指の腹だけを触れさせると、ぞくぞくと悪寒(おかん)が走ったように美代子は震えた。()()った首にあまく噛みつくと、さらに大きく震えて、掠れた声を、かすかにあげた。
 その(さま)を、春三は上目を開けて確認する。優越感で、自然と口角が上がった。
 筆は進む。雫原の息は淡々と続いて流れてゆく。小説の中の男女はからみあい、もつれあい、乱れてゆくばかりなのに、当の作者は、室内に掛けられたアンティーク時計の、こちこちという針の音と共に、淡々と仕事を進めるだけであった。空気は先程よりも冷えてきて、雫原は無意識にはだけた着物の襟を、片手でそっと直した。 長い首すじの下で、うすい闇を抱えた鎖骨の、浮きあがるような白さが目立つ。
 作家の大半が、パソコンで小説を書くようになってきた中で、雫原は二十七歳という若さでありながら、(いま)だに万年筆で、紙の原稿に小説を書いている。そのほうが落ち着くし、仕事も(はかど)るからだ。原稿の上を、万年筆のペン先がすらすらとすべる感触や、紙が(こす)れて淡く沈んでゆく感覚を、一度手が味わってしまえば、離れられなくなっていた。
それで一作書き終え、淡く黄みがかった原稿が、ブルーブラックのインクの文字で埋まっているのを見届けると、何か、ひとつの物事をやり遂げた達成感に、毎度包まれる。 小説を書くのを、たのしいと感じたことはない。たのしいという感覚が、何なのか、よくわからなくなっていた。ただ、この謎の達成感と、やらなければいけないことを、やっているという感覚だけで、今日まで書いて生きている。
 (あか)いベルベットのベッドが、薄紅や白い光沢の波を打って、ゆるやかな曲線を描き、乱れてゆく。
春三の鼻腔(びこう)を、あまくせつない春の香りが突き抜ける。
花か? いや、女の香りだ。むせかえるような。自分が全身で抱いている女から発している、たゆたう香りに包まれて、湿った肌に溶けそうになる。
春三は、美代子の中に納めた己の蛇を、よりいっそう硬くし、さらに奥へ、奥へと、貫くように動かした。
美代子の(みつ)(つぼ)は、春三の肉棒を求めて、縦横(じゅうおう)(うごめ)いた。赤く潤った花は、硬くそそりだった肉棒をすんなりと受け入れる。
「あァっ! あぁ……」  
美代子の嬌声(きょうせい)は、歌う小鳥が空を飛んでいる途中で、握り潰されたような、うつくしも凄絶(せいぜつ)なものだった。
「はは、いいのかい美代子さん。隣の部屋で、君の旦那さんが寝ているというのに……」  
美代子は憎しみとも愛情ともとれるような光を目の端に浮かべ、自分の胸を吸っている春三を見下ろした。
「んっ、……いいっ。春三さんのほうが、私を気持ちよくしてくれるものっ!」

書いていると、物語と現実の境がわからなくなる。闇とひかりの(はざま)をさまよって、その中に現れる青の中で、登場人物たちと一体になっているような、遠目から見守っているような感覚になる。部屋が片付いていないことも、飼い猫のトイレ掃除をしなければいけないことも、残された家の雑務も忘れて、紙と万年筆が描く世界の中に溶けて、己が消えてゆく。
窓から、ひとひら何かが舞い降りて、原稿の上にふわりと落ちた。落ちる瞬間だけ、スローモーションのようにゆったりとしていた。枯れ葉だった。葉先だけが、いまだ黄金(きん)を保っている、まだらに茶や黒に染まった、死んだ葉だ。さいわい、インクが乾いてるところに落ちてくれた。
ぼんやりとしたまなざしで枯れ葉をみつめていると、現実の感覚がまた戻って来る。夢の中で霞んでいた視界が、はらはらと晴れて、机や曇り硝子の窓に淡く映っている枝、そよと風に泳ぐ藍染めのカーテンに、くっきりとした影ができているのを確認できた。
「今日はここまでにするか……」
座布団に腰掛けた尻は、いつの間にか冷えて、硬くなっている。緊張がほどけて、やっと自分のからだの状態に気付ける。胡座をかいた姿勢から、右膝を立てて、尖った膝の上にくちびるをつける。自然と頭が置かれる形になる。まぶたをそっと閉じると、風のにおいに、あまい花の香りが入り混じっている気がした。季節は秋だが、もう十一月で、金木犀(きんもくせい)は十月の下旬に枯れたというのに、これはなんの花だろう。わからなかった。またそこに、インクのにおいと紙の匂いが混じって溶けて、花の香りの輪郭を覚束(おぼつか)なくさせてしまう。
__結局お前にはこれしかないのだ、と言い聞かせられる呪いのように。
 ちりん、ちりんと、鈴のような音が聞こえた。
 うなじの当たりに、凛とした感触がする。ゆるく曲がっていた背中をしゃんと伸ばす。
 チャイムの音だった。
雫原は、座布団の上に無造作(むぞうさ)に置いていた、もう片方の脚に力を入れ、からだを立たせた。
 廊下を歩いて玄関へ向かう。両腕は交差させて(すそ)の中へ入れ、何気なく冷えた手を温める。
木製の廊下は、年月を()て濃い飴色にかがやき、裸足(はだし)の足であるくと、きゅっ、きゅっ、と高い音がする。
 下駄を履いて、玄関の上がり(かまち)をおりて、からりと引き戸を開けた。
 真っ青な空を背景に、うすい影を全身にまといながら、青年が立っていた。ワックスで整えられているが、無造作な感じも出している濃い茶の髪に、たぬき顔のからりとした笑顔がよく似合っていた。雫原の現担当編集者、浅田烈(つよし)だ。彼とまっすぐに向かい合うたびに、雫原は、自分とは百八十度違う性質の男だと、しみじみ感じている。口に出すことはなかったが。これまでも、これからも。
「……浅田さん」
「雫原先生!」
 浅田は笑顔を崩さなかった。三十代だが、わらっているせいで、目尻に皺が寄っている。その皺をなでる形で、広い額から、汗のしずくが、太い眉を横になぞり、こめかみを流れていた。
「外、暑かったのですか」
「えっ? あ、ああ! ははっ、鎌倉駅から走ってきちゃったからかな。久しぶりに先生宅で、打ち合わせできるのがうれしくて」
「遠距離恋愛の、恋人のような事を言いますね」
「ははっ、やっぱ先生、作家だなぁ。上手いこと言いますねぇ」
浅田が、おもむろに右腕を雫原の肩へと伸ばしてくる。
だが、雫原はまぶたを伏せて、そっと片手でそれを叩いてたしなめた。
えへへ、と子どものように、浅田が歯を見せてわらった。
 付き合いはまだ二年ほどだったが、打ち合わせの回数を重ね、浅田が作家に寄り添うタイプの編集者だったこともあり、関係は良好で、雫原は浅田のことを悪くは思っていない。だが、特別に人間としてすきというほどのものではなく、平坦(へいたん)だった。人間関係において、いつも乾いている自覚がある。かつていた恋人たちとも、どれだけ肌を合わせていようと、心のひだにはふれさせない。皮の内側へは、入ってこさせない。同様に、雫原自身も、ひとの内側へと入っていくことはなかった。乾いたところだけふれあって、平行に関係が進んでゆくか、唐突(とうとつ)(みずか)ら終わらせる。
「それ、なんです」
 浅田が左手に持っている、イエローの紙袋を、つい、と人差し指を立てて示す。何か四角いものが底に置かれているのが、わかる形をしていた。
 浅田は指摘されて見下ろし、はっと目を見開いた。自分で持ってきていて、手にしていたことすら忘れてしまっていたようだ。
「あ、ああ! すみません。これ、お土産(みやげ)のどら焼きです。最近休みの日に帰省していたので、地元で買ったものを、もしよければと思って」
「お気遣いありがとうございます。持って入っていただくのが、申し訳ないので、今こちらで、お渡ししていただければと思います」
「あ、すみません」
雫原は少し表情をやわらげて、着物の(そで)からひとつ腕を取り出し、すっと浅田のほうへ伸ばした。玄関に取り付けられた、ちいさな四角の曇り硝子(がらす)から、庭を通過して差し込んでくる真緑のひかりが、ひらひらと腕にあたって、光だまりのように踊る。紺色の着物から覗く、白い腕は、細いがしっかりと肉づいている。うっすらと月光のような青い血脈が浮いている。
 右足をそっと前へ出すと、履いていた白足袋が、紺色の着物の(すそ)からのぞく。そのまま上がり框の(ふち)に、そっと乗せる。
視界が、くるりと反転した。
「あぶね!」
 浅田の力強い声が、玄関に響いた。
二の腕に、浅田のゆびの感触がした。痛いくらいに、肌に食い込んでくる。その硬く鋭い感触で、かるく霞んでいた視界が晴れてくる。
浅田の手荷物のイエローにしか目がいっていなかった。吸い込まれるような単色に、気を引かれてしまっていたのだ。
顔をあげると、苦笑いを浮かべた浅田の表情が目の前に迫っていた。
 またやってしまった。雫原はしずかにそう思った。
雫原にはうっかり癖がある。()だ二十七の若い男であるが、気を抜くとひとつの物事に集中しすぎて、周りが見えなくなってしまう。同時進行で何かを行うことが苦手なのだ。これで、今まで何度か周囲に迷惑をかけてきたし、自分でも困ってきた。自己理解しているつもりだが、周囲から見ると、もっとひどいらしい。
 浅田は、雫原のそういった性質に慣れてきてくれており、今も自然に腕が出たらしい。
支えられている浅田の腕の強さと、さきほどまで頬にふれていた胸板(むないた)の硬さを知って、雫原はぼんやりと、ああ、このひとは昔運動をしていたひとだったな、と初めて打ち合わせをしたときに彼が話してくれた、学生時代の話を思い返していた。

居間に入ると、周囲にただよう(かお)りが変わる。なつかしいような(こう)ばしさが、どことなくしている。(こう)を焚いているわけではないが、雫原はこの家の居間のにおいが、すきだった。
 雨が降っていないので、障子を開けて庭のひかりを入れている。雫原邸(てい)には、様々な種類の植物が息づいている。十月下旬の今日は、金木犀(きんもくせい)名残(なごり)(いま)だ咲いていた。淡い(だいだい)が、深いみどりや金や(あか)に萌えた木々の下で、ひっそりと、だが華やかに主張して、ゆるやかな香りをこちらまでただよわせている。
 無垢(むく)のパイン材で作られたちゃぶ台は、使い込まれて深く濃い飴色(あめいろ)になっていた。庭のひかりを受けてしっとりと濡れたような白にかがやく表面に、()()みを持った雫原のゆびさきがふれる。
陶器と木がぶつかる、鈍く高い音がひとつした。
正座した浅田の前に、白地に藍で降る楓の葉が描かれたこぶりな湯呑みが存在した。ふわりと花弁(かべん)が舞うように、白い湯気が雫原と浅田の前髪に、それぞれふれる。
湯呑みを自分の前にも置く。うすい(ぼん)を雫原側の湯呑みのかたわらに置くと、(はい)青色(あおいろ)の座布団の上で正座をした浅田と向かい合う形で、雫原も座布団の上に、しずかに正座した。
両手を脚のあいだの筋にそっと重ねて、かすかに擦り合わせる。雲に沈み込むような、やわらかな感触が(すね)を覆い、己の体重が直線的に乗ってくる。
「ああ、ありがとうございます。すいません、お手をわずらわせて」
「いえ。今日はあたたかな緑茶にしてみました。()(ほう)さんのところの」
老舗(しにせ)じゃないですか。こないだ出していただいた、ほうじ茶も美味しかったです。香ばしさの中にも、自然なあまみがあって。打ち合わせの後に、お土産(みやげ)にまでしていただいて……。先生のおかげで、お茶に詳しくなりそうです」
「よかったです」
へらへらと笑う浅田の顔を見ずに、瞳を半分伏せて、ゆびを添わせて湯呑みを持ち、くちびるにそっとつけて(かたむ)ける。透明な薄緑の湯が、うすいくちびるの上を流れて、口内(こうない)に流れてきた。ほどよい熱さの茶はあまく苦くて、雫原の好む味だった。ひとくちだけで、気分をより穏やかにしてくれる。うっすらと口角があがった。
「今回のシリーズ、すごく評判がいいんですよ」
 茶に気をとらわれていて、目の前に浅田が座っていたことを刹那(せつな)、忘れていた。透明な白い湯気(ゆげ)から晴れてゆく視界の中で、浅田も湯呑みに手を添わせて、茶をこくりとひとくち飲んでいた。浅田は満足そうに茶を飲み、湯呑みをちゃぶ台に置いた。そして右手を顔のそばまで持ちあげると、鼓舞(こぶ)するように、こぶしを握って笑みを深めた。
 雫原には、そのこぶしが、目の前に迫って見えた。
「先生の小説を読んでいると、実際に女の肉体に挿入したような感覚になって、からだが火照(ほて)る、と! AVでは得られない、美文(びぶん)によって、からだと心がどのように反応しているかまで、(こま)やかに伝わってくる、って評判ですよ!」
 嬉々(きき)として語る浅田とは裏腹に、雫原は至って冷静だった。ふたたび細く長いゆびさきを、白い陶器に添わせると、そっと持ちあげてひとくち茶を飲む。くちづけるようなその動作はしずかで、感情の動きがなかった。穏やかでも、つめたくもない。
 ただ、浅田の(ひょう)を聴きながら、雫原が脳裏で思い返していたのは、自分が書いた小説の地の文だった。何を書いたか、それが読者にどう響いたのか、辿(たど)るように思いだす。ブルーブラックで(いろど)られた文章が、水色の光沢を帯びて、()せた原稿用紙の上に浮びあがっている。
「内臓が激しく圧迫(あっぱく)される快感」
「はい?」
「自分でも制御できないほど、(ちつ)(ひだ)が、男根を()めあげてゆく(よろこ)び。背筋に、快楽の電撃が走り、脳天を突き抜ける衝撃……」
「先生……、先生! ご自分で、ご自分の文章を朗読してますよ……」
浅田の強い声が、てんと額にあたり、ぴんと張った糸でひっぱられる感覚がした。ふたたび現実に引き戻される。無意識のうちに、書いた文章をつぶやいていたらしい。これがはじめてではなかった。雫原の場合、よくあることだ。頭の中でなぞるように、低く声に出してしまっているときがある。頭の中がぼんやりと真珠(しんじゅ)(いろ)に霞むときがあり、ひとの声も、鳥の声も滲んで消えて、己の文章だけがうっすらと暗く漂っている。それを(つか)む感覚だった。
「ははは、ありがとうございます」
雫原は作りわらいを浮かべて、片手で頭を掻いた。ゆるくウェーブがかった黒髪から、まるい富士(ふじ)(びたい)にはらりと前髪がこぼれて、らんと白いつやを描く。
湯呑みに手を伸ばし、ひとくちすすった。ふたたび薄緑のあたたかな湯が、中をうるおしてくる。その感覚で、現実の輪郭がしっかりと肉付けされる。
最後のひとしずくを飲み干すと、白い底が目の前にあらわになった。濡れてつるりとした陶器を、かけた眼鏡のレンズ越しに確認してから、ちゃぶ台の上にそっと置こうと、ゆびさきに力を入れた。
「あっ」
 湯呑みのなめらかな表面が、ゆびの腹から剥がれて、空へと流れてゆく。
「あっ、先生」
 浅田が前へ上体を落とし、湯呑みへと滑り込んだ。ゆびさきをそろえて、湯呑みを押す。
 湯呑みはからからと震えたが、しずかに底をちゃぶ台の地につけ、何事もなかったかのように静まった。
雫原と浅田のあいだに、つんと乾いた空気が漂った。
糸がほどけるように、互いに顔の(きん)が動き、はらはらとわらいがこぼれる。
浅田が姿勢を正して、元の位置にきっちりと座った。そして、思いだしたように、右手のこぶしを丸めて、左手をぽん、と叩いた。
 「そうだ、そうだ! 実は今日、とってもいいものを持ってきたんですよ」
 え、と雫原が声を漏らす前に、白い歯を見せてにやにやとわらう浅田に、なんだか落ち着かなくなる。だが、そういう態度を取られても、いつも大したことではなかったという結果で終わることが多かった。また、今回もそうだろう。唐突(とうとつ)に期待させて、いや、そこまでの虚勢(きょせい)を張ることのほどではなかったはずだ、と思わせる結果に終わるはずだ。
 雫原は、すぐに落ち着きを見せて、かすかに開いた膝と膝のあいだをふたたび寄せると、湯呑みを両手でそっとくちもとまで支え、こくりとひとくち、茶を飲んだ。まぶたを伏せていたので、茶の豊潤(ほうじゅん)な香りが、直線的に体の中を巡ってゆく。
浅田は鞄の中に手を突っ込んで数秒ためていた。
「早く出さないか……。茶も冷めてしまいますよ」
 あまりにももったいぶらされると、少しそわそわしてしまう。
 浅田はころあいを(はか)り、ばっとちゃぶ台の上に、(はい)青色(あおいろ)の一通の封筒を置いた。
「じゃん! ファンレターです」
ファンレターに添わされた浅田の手が、より黄色くあざやかに見えた。それほどに、一通の封筒は、元々持っている色よりも青く、深く映った。
「おおっ」
雫原は、眼鏡を右手のゆびさきで押さえて、かるく驚き、やがてしずかに凪いだ顔で、眼鏡からゆびを離すと、そっと封筒をとりあげて、まじまじとみつめた。
「綺麗な灰青色の封筒ですよね。文字も金色で、筆致(ひっち)もうつくしい」
 浅田の言う通りだった。雫原の出している本は男性読者のほうが圧倒的に多いため、ファンレターをもらうことが少なかった。一般的に、女性より、男性のほうがファンレターを出してくれるひとが少ない。何年か男性向けの小説を書いていて、実感があった。あっても、数年に一通か二通。さびしいと思ったことはなく、そういうものなんだ、という感覚で、これまで執筆を続けてきた。売上は良かったので、どこかの誰かに届いていれば、それで自分の仕事は出来ている、と言い聞かせて。
 だから、率直にうれしかった。しかも、こんなに上品な封筒で思いを届けられたのは初めてだった。手に持ったまま、ゆびの腹で撫でると、なめらかな絹のような質感がする。かすかに動かすと、しろい光沢がうまれる。
 雫原は魅入られたように、しばしのあいだ、そのちいさな一通のファンレターをみつめていた。
 ふと、裏側に何か書かれていたことに気付く。陽光に照り映えて、銀色の文字が鈍く反射した。
 そのひかりが、やけにまぶしく感じて。うっとまぶたを半分伏せる。
 封筒の右下に、まるで控えめに主張するように、「浅桜 言葉」と書かれている。ちいさいがうつくしく、存在感のある筆跡だ。書き手の品の良さが滲んでいるようだった。
「そこで、ですね」
 浅田が言う。
 雫原は、封筒から顔をあげた。
 浅田の視線を感じたからだ。浅田は、雫原が封筒を見つめているあいだ、ずっと彼のことを見守っていたらしい。男性だが、観音(かんのん)(さま)のような穏やかな笑みを浮かべている。
 雫原はそっと眉をひそめた。
「なんです。ファンレターは確かに驚いたし、うれしかったですが、含みを感じる笑みですねぇ」
 浅田の手は、雫原が執筆しているシリーズの内容が書かれた一枚の書類の上に乗っていた。そういえば先ほど、ファンレターの話が出る前に、浅田の鞄からそっと出されていたことを思い返す。
 ほう、とひと息つくと、雫原は両腕を胸の前で組んだ。
 浅田はさらにもったいぶった態度で、うずうずとたのしげに書類を見下ろしている。
 はやく、言えと雫原が思い始めた矢先に、置いた手をまるめ、人差し指だけを伸ばすと、すっと書類を動かした。
「サイン会をしましょう」
「サイン会ですか……」
一拍置いて、雫原がつぶやいた。かすかに周囲の空気が霞んでいる。湯呑みの湯気(ゆげ)のせいか。
「久しくやってないですよね。確か先生で最後にやったのは五、六年前だったような気がします」
 雫原は組んで袖に入れていた右手を出し、顎をさわって天を仰いだ。
 ぼんやりとした無の時間が続く。湯気が沈黙を包み込むように、ゆらゆらとふたりのあいだをたゆたい、(かさ)を減らしてゆく。いつの間にか、茶の香りでいっぱいに満ちた部屋は、暖炉(だんろ)のともしびだけでなく、人の熱気であたたかくなっていた。主に浅田のだが。
 こめかみのあたりに、ちりという痛みが走った。空気が震えたのだと気付いたとき、浅田の両手が閉じて目の前にあった。
 浅田がからだを伸ばして、腕のあいだに顔を伏せていた。どうやら浅田が身を乗り出して雫原の顔の前で手を叩いたらしい。ようやくぼやりとした頭で理解する。
「先生! 大丈夫ですか?」
 浅田が顔をあげて、心配そうに問う。
「は、はい。大丈夫です」 
「は、はは」
 浅田は口の端を無理やり持ちあげる形で、苦笑いをしている。
 雫原は、またやってしまった、とかるく反省した。こういうことが、よくある。何か考え事をしてしまう。それもひとと話している最中(さいちゅう)でも。昔から、そうだった。学生のときは、授業中常にうすぼんやりとしており、教師の話しが聞こえなくなって、考えが飛躍し、空想の世界へ飛んでいた。さいわい、暇な時間はほぼ読書にあてていたのと、教科書を読んで予習復習をしていたので、成績は良いほうだった。それがこうじて世間的に有名な大学の文学部へも進学できた。
おとなになった今でも、それはなおらず、関わる人間、特に打ち合わせなどで編集者を困らせている。
 浅田は雫原の性質をよく理解してくれているほうだった。ひどい編集者に当たると、怒られたあとで担当を変更され、(てい)よく切られることがあった。
だから、浅田はありがたい。
 雫原はふたたび感謝の気持ちをこころに浮かべる。それを示すために、そっと笑む。しかし、浅田がサイン会の話をとつとつと語りはじめたところで、雫原は、集中力が途切れてしまった。どうも長々とひとの話に注意を向けるのが苦手なのは、永遠に治らないらしい。 
きらりと銀にひかる封筒の文字に目が落ちる。腕を組んで、ふたたびじっとファンレターを見下ろした。耳にかけていた長くくろい前髪が額に落ち、浅田を視界から消した。あとは雫原と一通の手紙の世界になる。
「浅桜 言葉」という名前が、灰青色の封のうえで、目の前に迫るように感じた。
「ことば……」
 吐息(といき)混じりに名をつぶやくと、(そで)からだした右手のゆびさきで、「言葉」の文字を、そっとなぞった。