そのキス、契約違反です。




…人違いだよね、そう、きっと人違い。


私は自分にそう言い聞かせて、何事もなかったかのように歩き出そうとした。



逃げなきゃ、そう思ったその時。



背後から手首を掴まれた。


反射的に前へ出ようとしていた足が、ぴたりと止まる。


逃げるつもりだったのに、その意思だけが身体から切り離されたみたいに。



「……おい、無視すんな」



それだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。



……人違い、なんかじゃない。


私は掴まれた手首を振りほどこうとしながら、あくまで平静を装った。



「……すみません、人違いだと思います」



声が、思ったより震えなかったのが救いだった。

少なくとも、自分ではそう思いたかった。



「彩葉」



もう一度名前を呼ばれる。

今度は、さっきよりも近い距離で。


これ以上聞いたら、本当に振り向いてしまう。



「……失礼ですが、本当に人違いです。私、あなたを知りません」



私は、できるだけよそよそしく言った。


自分で言っていて、胸が痛くなる。