泥だらけで泣いていた私に「泣かないで」と髪留めをくれた。金色で波の形をしたヘアピン。
「明ちゃんだけが、ちゃんと私を見てくれた」
鏡台の椅子に腰を下ろしている時分に呟く。鏡に映る自分を眺める。
焦げ茶色の髪には波形のヘアピン。私の宝物。
少しつり目だったから……自分の顔が、昔は嫌いだった。小学生だった頃は、クラスメイトに意地悪だと思われていた。母の事もあって、性格も明るくなかったので殊更に。
でも。明ちゃんだけは諦めずに、私へ話し掛けてくれた。
ある日……帰り道に寄った公園でベンチに座って話をしている際、自分の顔が嫌いだと愚痴をこぼしてしまった。気が緩んでいたのかもしれない。つい、いつも考えている事を口走って……すぐに「あっ」と思った。ただでさえ暗い性格なのに、こんな後ろ向きな発言をして嫌われないかと心配になった。内心……オロオロと焦っていた。だけど明ちゃんは、事もなげに言った。
「どうして? 凄く美人なのに」
びっくりして相手を見つめる。艶々した黒髪は肩下に垂らして、優しい目は今は不思議そうに私へ向けられている。控えめに言っても凄く可愛い。物語に出てくるお姫様みたいな子。そんな子に「凄く美人」と言われた。
弱っている時に優しくされたのも相まって、私は明ちゃんの虜になった。
岸谷聡は昔から目の上のたんこぶだった。何かにつけて明ちゃんに近寄ろうとする。その気持ちは分かるけどさ。
岸谷が明ちゃんと結婚の約束をしたと知った時は、モヤッとしたなぁ。
小二の時、学校の廊下で岸谷と言い争った。
「私も明ちゃんと結婚する! 明ちゃんと、ずっと一緒にいる!」
「女同士は結婚できないんだぞ?」
呆れ顔で諭してくる。そんな。岸谷だけ明ちゃんと一緒で、私は? 仲間外れ?
恋とかではなかったけど、きっともっと重いものだった。
明ちゃんは理想で、私のヒーローなの。
そんなモヤモヤを抱えたまま中学生になった。私は岸谷の事を、ただライバルだと思っていた。だが、その思いは別のものへと変化する。大きな切っ掛けとなった日があった。
岸谷に借りていた漫画が結構な量に溜まっていて、紙袋に入れて家へ直接持って行った。
重いから少しイライラしていたけど、岸谷の家の玄関に女子の靴があって「まさか明ちゃんが来てる?」と気分が明るくなった。何てよいタイミング。思いがけず明ちゃんに会えるし、岸谷と明ちゃんの逢瀬を邪魔できるとうきうきしていた。驚かそうと、二階の岸谷の部屋まで足音を忍ばせた。
「明ちゃんっ!」
部屋のドアをバンッと開けた。
岸谷と……驚いた顔でこちらを見ている黒髪ショートカットの女の子がいた。床に座っている二人の距離が近い。私はその子を凝視したまま岸谷へ尋ねる。
「誰よ。その子」
岸谷は答えない。理解した。今まで薄らと、噂は耳にした事があったけど。明ちゃんを好きな者同士だったから、信頼していた部分もあった。デマだと思って聞き流していた。
「よくも明ちゃんじゃない子と……!」
漫画の入った袋を、床に投げつけた。漫画が散乱する。あぐらで座っていた岸谷の胸ぐらを掴んで訴える。
「この裏切者! 明ちゃん一人を幸せにしてくれたらよかったのに」
岸谷は何も言わずに見上げてくる。涙を流してしまった自分が負けたような気がして……シャツから手を離し、走ってその場を去った。
その後、調べてみると岸谷に泣かされた子は多かった。遊ばれて捨てられたらしい。
私は奴を、明ちゃんを好きな同志だと思っていた節があった。その分、恨みは深くなった。
女子トイレの手洗い場で、岸谷を好きだった子の話を聞いていた。彼女は思い出してつらくなったのか涙を浮かべ、その背を別の女の子が摩っていた。
私の中で、何かが切れた。
「ねぇ、岸谷の本当に好きな子って知ってる?」
暗い策謀を、朗らかに持ち掛ける。
「皆で、岸谷君に復讐しようよ」
徹底的に。明ちゃんと岸谷を遠ざけるようにした。ついでに明ちゃんに近付こうとする人物も追い払った。怖かった。明ちゃんの気持ちが、ほかへ向くのが。
高校生になった。明ちゃんも岸谷の事が好きだったらしい。私に打ち明けてくれた。私にだけ教えてくれて嬉しい反面、相手が岸谷なのは容認できない。薄々分かっていたけどね。明ちゃんは優しいから、岸谷と小一の時にした約束を覚えている筈だ。
第二図書室で明ちゃんの長過ぎる話を聞いていた時は苦かった。明ちゃんが岸谷の事を持ち上げて、私に熱弁してくる。
そいつ、そんないい奴じゃないよ。明ちゃんだけを想う人じゃないからあり得ないよ。私、あいつの話には興味ないよ。
明ちゃん。目が合ったり優しくされたりって、私は? やっぱり好きな人には、友達じゃ勝てないの?
絶望に似た惨めな気持ちを抱えて、嬉しそうに笑う彼女を見ていた。
話が終わって、明ちゃんは先に教室へ戻った。私は「気になってる本を探すから」と第二図書室に残っていた。さて。
「私が気付かないとでも思った? 盗み聞きなんて、趣味悪いわよ」
奥の方へ声を掛ける。本棚の間を歩いて来る足音が近くなる。姿を現した男子生徒を睨んだ。
家にいる時も、ずっと頭を悩ませていた。風呂場で湯船に浸かりながら考えを巡らせる。
最近、明ちゃんの岸谷への熱が異常に高まっているし。私は危機感を募らせていた。これは本当に告白してしまうのかもしれない。まずい。岸谷の方も、頑なに明ちゃんを諦めないし。
いっそ岸谷とキスしてるところでも見せて、明ちゃんに幻滅してもらおうか。
でも明ちゃん傷付くだろうな。岸谷の相手が私だったら、私には慰める事もできない。慰め役が必要だわ。
仕方ない……あいつに譲ってやるか。明ちゃんはあいつの事を、よく知らないだろうし。明ちゃんも岸谷にベタ惚れの様子だから、ほかの奴なんて眼中にないだろうし。
教室に誰もいない時、岸谷と取引した。キスしてもいいなら、明ちゃんとの仲を応援するというもの。更々……応援する気なんてないけど。
「明ちゃんに何を望んでいるのか知らないけど」
言いながら考えている。知りたくもないと。
「安心して私を好きになってくれていいんだよ」
そう微笑んでいる裏で、ほくそ笑む。
明ちゃんにも選ぶ権利があると思うんだぁ? その前に……私が篩に掛けるけどね。
そして遂に訪れたあの日。
明ちゃんが第二図書室にいるのを知りながら、岸谷に迫ってキスをした。
キスは初めてじゃない。岸谷とは三回目だ。今日の謀を悟られないように、事前に二回試した。岸谷の事は好きじゃないけど、明ちゃんを守る為ならキスするのだって容易い。私の事なんてもういいの。
それにしても岸谷……ムカつく。明ちゃんという想い人がいながら、私とキスするってどういう事? あり得ないんですけど。岸谷は明ちゃんが思っている程、明ちゃんに相応しくない。私とキスするような、その程度の奴なんだよ。
明ちゃん。あなたの隣にいるのは私なんだよ? 置いて行かないで。子供じみた感傷だって分かってる。……だけど。
私は明ちゃんの邪魔者なの。本当は岸谷の事を、とやかく言えないの。だから……。
思考を中断して、薄目で岸谷を見る。キスしたり迫ってみたりしてはいるけど、なかなか手強い。さすが長年、私と明ちゃんを取り合ってきたライバルよね。
でも最近、変化があった。前みたいに露骨に嫌な顔しないし……慣れてきた? いや、これは。逆に私を落とそうとしてる?
キスの後、少し岸谷と会話して……予定通り『あいつ』に第二図書室から追い出された。明ちゃんは優しいから……きっと私と岸谷を優先して、この場では追及されないと思っていた。ごめん、明ちゃん。
黙って廊下を歩いている時、岸谷も口を噤んでいる事に気付いた。横を歩く岸谷を見る。奴の足が止まった。冷たい目を……こちらへ向けてくる。
「お前が坂上を独占したくて、俺を懐柔しようとしてるのは分かってる。それでも、ごめんな」
岸谷の言動に、思わず立ち止まる。
「は? 意味分かんないんですけど」
不機嫌な物言いになってしまった。言い当てられて焦っていた。岸谷が口を開く。
「小二の時の事。お前の坂上への気持ちを踏みにじって、すまなかった」
――!
岸谷は無神経にも、私の怒りを煽った。本人にそのつもりはなくても失言している。
「聡ちゃん、そこじゃないよ。謝るなら中二の時の事を明ちゃんに、でしょ?」
笑みを作って明るい声で伝える。ああ……体内から殺意が漏れ出そうだ。
明ちゃんが許しても、私は許さない。
教室で岸谷と二人、明ちゃんを待っていた。『あいつ』はちゃんと、明ちゃんを慰めただろうか。
明ちゃんが教室へ戻って来た。『あいつ』も一緒だったのは意外だった。しかも明ちゃんは『あいつ』……沢西とかいう一年生と、今日から付き合っていると言う。
「へえ……」
小さく呟いて、件の男子生徒を見る。やるじゃない。でも何か、取られるの癪だなぁ。私の明ちゃんをぉぉぉぉ! 岸谷より百倍はマシだけどさぁ!
話題は先程の……第二図書室に明ちゃんがいて私と岸谷のキスを目撃した件に移った。
「二人がそういう関係なの、知らなかったからショックで。教えてくれればよかったのに」
明ちゃんが私と岸谷へ、思いを打ち明けてくれた。
「坂上、ちがっ……」
「明ちゃんごめんね!」
岸谷が言いかけた弁解を遮る。岸谷に喋らせたら、きっと明ちゃんは信じちゃう。私が無理やりしてきたとか言われても面倒くさいし、遮って喋らせない!
そうだ。いい事を思い付いた。明ちゃんと、明ちゃんの彼氏になった男子生徒にイチャついてもらおう。「キスくらいできるよね?」と要求する。
好きな人のファーストキスが別の男子に奪われるのを見せ付けられるというシチュエーション。我ながら発想がエグいと思うけど、岸谷は明ちゃんに、もっと酷い事をしてるんだからね? 怒りはまだ収まっていない。
岸谷が邪魔してキスは不成立だった。
その後。男子生徒が思いがけずいい仕事をして、明ちゃんは岸谷を選ばなかった。岸谷は無言で教室を出た。それを見て苦笑する。
「あらあ……。ダメージ大きかったかぁ」
言いながら密かに思う。明ちゃんに拒絶されてプライドを傷付けられたのね? ざまぁ。
明ちゃんに別々に帰る旨を告げて、岸谷を追う。廊下を進みながら待機している『朔菜』にスマホで指示を送る。
岸谷は以前『舞花』に振られている。舞花から話は聞いていた。岸谷は他校の生徒にも手を出している。
私と岸谷はどこか似ている。歪んだ愛を同じ人へ向ける別の存在。一緒に悪者へ堕ちてあげる。それが大事な幼馴染への、せめてもの情け。
