バスを降りた。待っていてくれたらしい春夜君が側へ来てくれる。

「急にごめんね。我儘を聞いてくれて、ありがとう」

 下を向いて、泣き出しそうなのを隠す。

「何かあったんですか?」

 聞かれたけど答え切れず、俯いたまま顔も上げる事ができない。

「明?」

 名を呼ばれた。私の両手を、彼が両手で握ってくる。

「まさかアイツに、何かされた?」

 心配する響きの声音で聞いてくる。今、私がここにいるのは……それが理由じゃない。首を左右に振る。

「手を繋いで、抱きしめられた。キスしていいか聞かれた。それだけだよ」

 特段……報告する程の事でもないかなと思いつつ、一応言っておく。僅かな間があった。息を呑むような沈黙ののちに、彼は口を開く。

「……どこまで許したんですか? ダメじゃないですか。岸谷先輩とは極力、イチャイチャしない方針って認識を共有しましたよね? 色々と早過ぎます!」

「ふっ」

 春夜君の言っている事がおかしくて、笑ってしまう。

「明?」

 両腕を掴まれて、見つめ返す。凄く心配してくれているみたい。どこか焦っている感じのする、真剣な顔を向けられている。

「何で泣いてるんですか? もしかして、オレ……何かしました?」

 目から落ちる涙を、止める術がない。腕も掴まれているので拭えないし。

『オレの好きな人……あいつの事が好きなんだそうです』

 以前、彼の口から聞いた言葉が……胸に甦る。

『オレの好きな人、気になります?』
『誰だと思います? 当てて下さい』

 涙を流した状態のまま「フフッ」と笑う。過去の自分に苦笑が漏れる。

 春夜君の後方には川があって、その向こうには山と町並みが続いている。赤と灰色の混じった汚い色の空が、夜に染まっていく。

 もう復讐をやり遂げる力は、残っていないかもしれないと思考していた。メッタメタに、コテンパンに……打ちひしがれた気分だ。

 ずっと疑問だった。何でほかの子はダメで、春夜君は私に近付いても邪魔されなかったのか。その件を考えないようにしていた。だって、それじゃまるで……。

 春夜君との出会いは、仕組まれていたみたいに思えて。

 だけど悪い予感って当たるものなんだね。
 さっき……ありすちゃんからメッセージをもらって、詳しく話をする為に通話した。ありすちゃんは私へ、注意するよう教えてくれた。「第一図書室裏で聞かせられなかった音声だよ」と前置きがあって、知らされた事実。場所は第二図書室。

「聡ちゃんが明ちゃんを諦めなくて困ってるの。ねぇ……悪い話じゃないでしょ?」

 晴菜ちゃんの声。その場にいた、もう一人は……春夜君。
 二人、協力してた? 私に秘密で?

 話を聞いた時、胸がモヤモヤして……春夜君が晴菜ちゃんを好きだと思い至った。

 ぞっとした。足元が崩れて落ちていくような感覚に襲われる。
 過去の春夜君の言動に、私を好きなのかとも思ったけど全部……全部当て嵌まる。晴菜ちゃんに。

 春夜君に出会うまで私は、岸谷君の事が好きなんだと信じていた。でも違ったのだ。

 小さく呟く。

「岸谷君なんて好きじゃなかった。だって……こんなに苦しくなかったもの」

 胸に留まる悲痛が、恋心の在処を訴えている。行き場のない焦燥を、下唇を噛んでいなす。

「明?」

「何でもないよ。春夜君に会ったら、少しほっとした。心配かけてごめんね」

 ニッコリ微笑んで見せる。

「何でもない訳ないですよね? ……何かあったら、いつでもうちに来て下さい。うちの家族、皆煩いけど気分も紛れるかもしれません」

 きっと私が、まだ元気じゃないと気が付いて言ってくれているんだろうな。それなのに私は……。春夜君と晴菜ちゃんが、私の知らない時に会っているのが……不安で堪らない。

「ありがとう、そうする」

 やっと返事を紡ぐ。未熟な自分の心をうまく扱えなくて、涙が零れてしまう。

「今日……春夜君のお家に行きたい」

「えっ? 今日っ?」

 相手の眼差しが揺らいでいる。

「今日は、まずいです」

「どうして?」

 上目遣いに首を傾げる。春夜君、ちょっと背が伸びた?

 彼は言う。

「今日は家に誰もいなくて。今度また……誘いますから」

 露骨に視線を外された。横を向いた彼の、手首を握る。そのまま引いて歩き出す。春夜君のマンションへは一度行った事があるので、道は分かる。川沿いの歩道を進む。

 振り解こうと思ったら振り払えるだろうに。彼は、そうしなかった。迷いがあるのだろうなと、ぼんやり考える。


 マンション四階の通路で歩みを止める。

「春夜君」

「はい」

「私たちは運命共同体なんだよね?」

 尋ねる。

「両想いになったよね?」

 唐突に近くのドアが開く。理お兄さんが顔を出してきた。

「何だ、春夜たちか。ここ、結構響くぞ。痴話喧嘩は家の中で……」

 理お兄さんが言い終わらない内に、春夜君に手を引かれる。
 導かれるまま、春夜君の家に入る。以前ちょっとだけ見せてもらった左手の部屋へ通される。

 振り返ると春夜君が後ろ手にドアを閉めたところだった。鍵の音が響く。近付いて来る彼の足が視界に入る。目の前で止まった。何て言えばいいのか分からなくて、代わりに右手で彼の上着の左袖を引っ張った。抱きしめられて、深く充足した心地になる。目を閉じる。

 キスがくすぐったい。瞼を開く。真剣な瞳で見つめられている。覚悟は決まっていた。

「私、春夜君のものになりたい」

 相手が息を呑んだ気配がする。

「そして終わりにしよう?」

 一拍置いて、口にする。

「復讐はもう、しなくていい」

「え……?」

「やめる」

 言い切った私を、鋭い目で睨んでくる。当然だよね。身勝手だって……自分でも思うよ。

「言ったよね? 今、オレのものになりたいって。何で? 何の目的で? 復讐の為? だから、それで終わりにしたい? 信じられない。本当に、そう思ってる?」

 怒っている春夜君を、虚ろに目に映す。泣きたいのを堪えるので精一杯だった。

「証明してみせてよ」

 怒りを抑えたような、静かな声量で要求された。


 今まで彼が見せなかった、強引な部分を知れた。私よりもずっと、力が強いんだと分かった。焦がれて震えた。これが恋なんだって思い知らされた。





 春夜君のスマホが鳴っている。
 彼は二回程、着信を無視していた。三回目の時に、漸く応答している。

 電話の相手は……晴菜ちゃんだった。


 彼女からの指示で、春夜君と私はマンションを出た。夜道を進む。一番近くにある停留所からバスへ乗車する。

 晴菜ちゃんが指定した時間は一時間後。場所は私の家の近所にある公園。晴菜ちゃんや岸谷君の家も近くにある。

 以前、春夜君と帰った時はパン屋さんのある道を通ったけど。公園へは別ルートの方が近い。いつも降り立つバス停を過ぎ、一つ先のバス停で下車する。階段を上った。

 春夜君が手を繋いでくれている。街灯はあるけど夜道だし、足元が暗い場所もあるから転んだりしたら危ないと……気を配ってくれているのかも。

 私に優しくしてていいの? 本当は晴菜ちゃんと手を繋ぎたいよね?

 卑屈な考えを、頭を横に振って払う。
 階段を上った先に小さな公園がある。小学生くらいの頃は晴菜ちゃんと、よく寄り道して遊んでいたな……そんな事を思う。

 もう少し上ったら公園が見えるという時。やや大きめの声が聞こえ足を止めた。

「うるさい! 姫莉が一番お姫様に決まってるでしょ? 王子様が愛するのも姫莉。あんたみたいな悪女に負けないんだから! 坂上さんを連れて来たら、聡の全部は姫莉のものになるって約束したもの。だからわざわざあんたに、わ・ざ・と・居場所を教えて坂上さんを呼び出してもらった訳」

 姫莉ちゃんの声だ。内容から推測するに、晴菜ちゃんや岸谷君も近くにいそう。少し階段を上り窺う。十メートルくらい前方に岸谷君の腕に掴まった姫莉ちゃんが、そこから少し離れた右にいる晴菜ちゃんと睨み合っている。三人とも、こちらに気付いていない様子で話が進んでいく。

「バカだなぁ。本気にして。そこが可愛いんだけど」

 岸谷君が小さく、独り言のように苦笑する。彼は姫莉ちゃんの頭を撫でている。

「聡ちゃん。明ちゃんと付き合ってるのに……何でその子と、こんな時間まで一緒にいるのよ!」

 晴菜ちゃんが岸谷君を詰る。岸谷君は困り顔で、姫莉ちゃんに掴まれていない方の手を振っている。

「あー。姫莉は少し、情緒不安定なとこがあって。泣いててかわいそうだったから、慰めてただけなんだ」

「ふざけんな!」

 岸谷君の言い訳に、晴菜ちゃんがキレた。

「今すぐ明ちゃんと別れて。結婚の約束も撤回して!」

「嫌だね」

 要求を断った岸谷君を、晴菜ちゃんが目を大きくして見つめている。岸谷君が口を開く。

「俺が好きなのは坂上だけだよ」

「じゃあ何で、ほかの子に手を出すの……? その子は、明ちゃんじゃないよ?」

 晴菜ちゃんは岸谷君に詰め寄りながら、姫莉ちゃんを指差す。岸谷君は苦い物でも食べたような表情で晴菜ちゃんに返す。

「お前が悪いんだよ」

「……は?」

 晴菜ちゃんの片方の口角が上がる。彼女は訳が分からないと言いたげに、短く聞き直した。

「俺が坂上に近付けないようにしてた。その分、代わりが必要だった」

 淡々と話す岸谷君に、晴菜ちゃんは薄ら笑う。

「何? 私のせいだと言いたいの?」

「いい事もあったけどな」

 岸谷君がニッと笑って話を続ける。

「坂上に悪い虫がつかなかった。だけど最近……あの『沢西』って奴。お前……あいつの事、認めたんだな。『岸谷よりマシだ』って思ったんだろ?」

「……っう」

 晴菜ちゃんが怯んでいる。岸谷君が目を細めた。

「俺って結構、繊細なんだよな。相手が自分の事をどう思ってるのか、大体分かる。あーあ。確かに坂上は俺の事を好きだと思ったのにな。遂に嫌われたみたいだ。いつかこんな日が来るんじゃないかって、ずっと恐れていた。だからかもな。坂上に嫌われた時、傷が浅く済むように女友達を作るようになったのは」

「サイテーね」

 岸谷君の言い分を不機嫌な顔で聞いていた晴菜ちゃんは、吐き捨てるように言った後……こちらの方を向いてくる。

「……という訳だから。二人とも」

 怒っている気配の晴菜ちゃんに呼ばれて渋々、階段を全部上る。春夜君も私の少し後ろにいる。姿を見せた私たちに、晴菜ちゃんがとんでもない事を言い出す。

「乗り替えようと思ってるの、春君に」