片想いだった。私の恋は……この時、散った。
目の前で好きな人の唇が奪われる。
第二図書室の壁際に設置された本棚へ背を押し付けられた、その人……岸谷(きしたに)聡(そう)は小学生の頃からご近所さんで、よく人見知りする私を気にかけてくれた優しい幼馴染の男の子。少しぶっきらぼうで何を考えているのか分からない冷たい表情をする時もあるけど、そんなミステリアスなところも含めて好きだったんだ。
幼馴染を本棚に押し付けて、つま先立ちして唇を奪っている相手の女の子……彼女もまた私の幼馴染だった。内巻(うちまき)晴菜(はるな)。岸谷君と出会った同じくらいの時期に知り合った。サラサラな焦げ茶色の髪の毛を肩下に垂らし、左方の耳の上辺りの髪を波型のヘアピンで留めている。美人と言って差し支えない。切れ長の目、通った鼻筋。右の目元にはホクロがある。長い睫毛は今は伏せられ、同じく目を閉じた岸谷君とのキスが続いている。ややあって岸谷君の腕が、彼女の腰にまわされるのが見えた。
ドクドクと心音が耳に痛くて。視線を逸らしたいと思うのに。大きく開いていた目は、瞬きを忘れたように二人を映す。
彼らの後方にある本棚の陰から一部始終を見ていた私は、口を結んだまま微動だにできなかった。それは二人がそういう関係だと知らなかったので驚き、戸惑っていたから。でも……それ以上に。私の中に生まれた大きな矛盾のせいで、内心混乱していた。
……何となくだけど。岸谷君は私の事が好きなんじゃないかと思っていた。
何の変哲もない胸くらいまでの長さがある黒髪を、一つの三つ編みに結ったいつもの髪型。少し垂れ気味の、よく言えば毒気のない目。美人ではないにしても、見れない程に醜いとも思わない自分の顔。晴菜ちゃんみたいに綺麗じゃないけど。可能性として、なくはないと薄く期待していた。
彼とはよく目が合うし、色々気にかけてくれる素振りもあった。何よりプロポーズされた事もある。……小一の時だけどね。
そんな話を……以前から晴菜ちゃんに相談していた。恋の相談なんて初めてで恥ずかしかったけど、胸の内を聞いてもらい大丈夫だよって背中を押してもらいたかったんだと思う。
愚かだ。
こんな結果になって後悔したって遅いけど、恨まずにはいられない。過去の自分を。
晴菜ちゃんは言ってくれた。「明(めい)ちゃん、私も協力するから頑張ろう!」って。その時は心強かった優しげな言葉に、今は背筋が寒くなる。
晴菜ちゃんは私の気持ちを知っている。私が彼の事をどんなに好きか、どんなところが好きか力説して聞かせたから……意味が違う風に伝わったとか……そんな誤解もない筈だ。
もしかして。晴菜ちゃんも岸谷君の事が好きだった? 私に遠慮して言い出せなかった?
私が悶々と考えている内に、二人のキスは終わったようだった。見つめ合っている幼馴染たちを……離れた場所から見つめている。岸谷君が不機嫌そうに目を細める。彼は溜め息をついた後、喋り始めた。
「学校ではしないって約束だろ? 誰かに見られでもしたら、すぐ噂になる」
「はいはい。聡ちゃんは明ちゃんに知られたくないんだもんね。私との深~い関係を」
「深くない。それから! 坂上(さかがみ)との仲、いつになったら取り持ってくれるんだ?」
「ああ。明ちゃんって、とっても繊細なのよね。聡ちゃんみたいに背の高い人より、小柄な人がタイプみたい。今……じわじわ、聡ちゃんのいいところをオススメしてるんだけどね」
二人の会話が耳を滑る。異次元の言語を聞いているのかと錯覚するくらい、理解が追いつかない。
まず……「学校でしない約束」という事は。ほかの場所でなら、してるって事なのかとか。私(坂上明)との仲を取り持つよう、岸谷君が晴菜ちゃんに頼んでいるような会話だった事とか。特に晴菜ちゃんの話していた内容が、微塵も納得できない。私は一度も、小柄な人がタイプだと彼女に言った記憶がない。むしろ背の高い人の方が好みのような気がする。
おかしいな。岸谷君のいいところをガンガン話しまくっていたのは私の筈だったのに。手柄を横取りされたみたいに嫌な気分になる。私が岸谷君の話をしてる時、晴菜ちゃんは「あーそうなんだ」とか「はー」とか「ふーん」とか……ただそんな感じだったじゃん!
焦燥と怒りで頬が熱い感覚がある。思わず一歩前へ踏み出しそうになった。
普通の教室と比べて、広さは半分程の室内。午後の薄黄色い陽光が窓から差し、きらめきで空気中に埃が漂っているのが見える。
彼らのいる場所より奥の本棚の角から足を出し掛けて、やめる。
私が今、あの場に出て行ったとして。何ができるの?
たとえ岸谷君が、ちょこっとでも私を好きだったとしても。晴菜ちゃんと岸谷君の関係は……。
下を向いて唇を噛む。出そうになった涙を必死に堪える。
「ええっふん! ええっふげほげほ」
明らかに、わざとだと分かる咳払いが聞こえた。
後方を振り返る。私のいる場所より、更に奥の本棚の角に人影がある。左右にある棚の間を、私たちのいる方へ向かって歩いて来る。幼馴染たちに見付からないよう身を潜めつつ、彼に注目する。
上のみ黒い縁のある眼鏡を掛けていて、背丈は恐らく……私と同じくらい。男子にしては、やや長めのツンツンした黒髪が見える。
この第二図書室の入口付近で密着し合う我が幼馴染たちに、彼は言う。
「イチャつくなら、よそでやってください。読書の邪魔です」
「人がいたのか。すまない。すぐに出る」
岸谷君は彼に答えた後、晴菜ちゃんを伴って第二図書室を出て行った。その際……彼が晴菜ちゃんの肩に、ためらいなく触れるのを見てしまった。
二人分の足音が遠のき、やがて聞こえなくなる。
ショックが大きかったのかもしれない。私は……彼らの去った方向を、呆然と眺めていた。
「全く。ここは図書室だぞ? いくら新しくてキレイな第一図書室ができて、こっちが倉庫みたいに扱われてるからって」
ぶつくさ不満を呟きながら、その人は私の前で足を止める。
「もしよかったら、これ使って下さい」
差し出された紺色のハンカチを目にして、やっと気が付いた。手で己の目元を拭う。
「す、すみません。ハンカチは大丈夫です。ありがとうございます」
そう愛想笑いして右手を振り、ハンカチは借りなかった。
「あの人たちが、坂上先輩の幼馴染ですか? 小学校からの。という事は、あの『聡ちゃん』って呼ばれてた人が……坂上先輩の好きな人なんですね。ふーん」
岸谷君と晴菜ちゃんが出て行った引き戸の辺りを見やって目を細める男子生徒に悪寒がする。
「『何で知ってるの?』って顔ですね。先週もあれだけここで喋りまくっておいて、それはないんじゃないですか?」
先回りして告げられた事案に戦慄する。
「えっ? あの時ここって、ほかに誰もいなかったよ?」
「盗み聞きするつもりはなかったんですけど。奥にいました。話の内容的に出るに出れなくて、先輩たちが立ち去るまで待ちました」
口調から後輩らしいと分かるツンツン髪の男子生徒は、奥の本棚横……死角になっている場所を指差している。
「あの話……聞こえてたんだね」
顔から火がでそうな程に恥ずかしい。岸谷君への溢れ出る愛を、晴菜ちゃんに聞いてもらっていた時だ。
「正直……何であんな女と友達なんですか? 好きな男を取られたんでしょ? オレなら絶交もんですよ」
現実を鋭く言い切られて、少し怯む。目を泳がせつつも、何とか答える。
「そうだね。はは。私、友達って言ったら彼女だけなんだよね。彼女は、ほかにも友達がたくさんいるけど。だからきっと、絶交はしないと思う」
力なく笑った後、下を向く。
幸いにも。あの二人は、私がここにいると気付いていないようだった。知らないフリで、見なかった事に装えるかもしれない。
そこまで考えて、胸がもやつく。
何なんだ。晴菜ちゃんは私の気持ちを知っていながら。岸谷君は私と結婚するって言っていたのに(大昔の話だけど)。二人に秘密にされていたのも悔しい。
「私ってバカだなぁ。友達に相談する前に、さっさと告白しておけばよかった。目が合ったり優しくされたりしただけで相手も私の事が……なんて、浮かれポンチもいいところだったわ!」
怒りが込み上げてくる。顔を上げた。
「もし本当に、岸谷君が私を好きでも――……」
口にして言葉が詰まる。さっきの幼馴染たちの会話が胸に甦る。
『坂上との仲、いつになったら取り持ってくれるんだ?』
岸谷君は私の事が好きなのかもしれない。実際のところは確認しないと分からないけど。
その時、ハッと閃いた。直接聞かなくても確認する方法を。もし本当に彼が私を好きだった場合、復讐にもなる方法。
目の前にいる後輩らしき男子生徒を見る。先程……何か口走っている途中で言葉を切り、考え込んでいた挙動不審な私を……訝しげな目付きで眺めている。急に視線を合わせたので、驚かれたのかな? 一瞬、彼の体が揺れた。
「私は坂上明……って、知ってるよね」
名前だけの超簡単な自己紹介をし、あははと小さく笑った直後には本題へ突入する。
「あなたの名前も教えてほしい。そして図々しいけど……お願いを聞いてもらえたら、とても助かる。何分、晴菜ちゃんのほかに友達がいなくて。頼める人の当てが、ほかにないの」
半歩近付いて切実に訴える。何故か相手も半歩ほど後退した。距離を取られている? これは後から思った事だけど……私が必死な形相だったから怖がらせてしまったのかも。
「な……何ですか?」
掠れた声で尋ねてくる。目を見て、真剣に要請した。
「私の彼氏になってほしい」
「……えっ?」
男子生徒の目が丸くなっているので気付く。
おっと。事を急いて端折り過ぎてしまった。慌てて補足する。
「あ! もちろんフリでいいの! 復讐を達成できたら、すぐにやめるから。引き受けてくれると、とても助かる。……はっ! もしかして、付き合ってる人いる? それなら、この話はなかった事にして!」
やっと思い至って頭を抱えたくなる。相手の事を考えず、突っ走り過ぎた。
男子生徒に微妙な苦笑いをされたので大急ぎで手を振り、お願いした頼み事を取り消そうとした。気まずさに、こちらも苦笑いを浮かべる。
「いいですよ」
突如あっさりした返答があり、大きく開いた目を向ける。簡単に承諾されるとは思っていなかったので耳を疑った。真意を探ろうと、やや明るめで濃い茶色の瞳を窺う。先程はあった苦笑いの苦みが消えた微笑みの表情で、彼は言う。
「オレもちょっと色々あって、あいつらに復讐したい気分なんです。付き合ってる人は、いないので大丈夫です。名前は沢西(さわにし)春夜(はるや)です。よろしく先輩。岸谷先輩に揺さ振りをかけて、あいつらの仲を引き裂こうという企みですね? 坂上先輩って無害そうな顔して、実はエグい事考えてるんですねー」
「えっ……? そこまで考えてなかったよ! 岸谷君が私の事を好きだったのかどうかの確認と……こっちには未練がないところを見せ付けて、惜しい事したかもって後悔させられたらなっていう些細な嫌がらせで一矢報いたいと……」
「奪ってやりましょうよ、どうせなら。そして捨ててやるんです」
沢西君の強い瞳に気圧される。唾を飲み込んだ喉が鳴る。漸く……返事を紡ぐ。
「そ、そうだね」
「協力しますよ」
ニコリと笑う……どこか油断ならない後輩を目の当たりにして、心の中で思う。敵に回したら厄介そうだけど、味方だと心強いよね。多分。
少しだけ不安に思いながらも。差し出された手を握り、笑みを返した。
「よろしく」
二人の復讐劇が幕を開ける。
