Forgiving~英国人実業家は因習の愛に溺れる~


 ケネスはテムズ川の流れのはるか向こう、夕日に照らされた空を見ている。

 乾いた石橋に手を触れながら、あかねはそんな彼の横顔を見て、どうして今日に限って、この場所に彼女を連れてきたのだろう、と考えた。

 いくつかの車や歩行者が二人の後ろを通り過ぎていくが、喧噪は心地いい程度で、ロンドンの街中と比べるとずいぶんのんびりした空気が流れているような気がした。
 かといって中心地からそう遠い訳でもないし、散歩道の向こうにはレストランや商店が並んでいる。のんびり子供を育てたりするのにちょうどいい土地なのではないだろうか……あかねはそんなことを考えていた。

「そのうち」
 唐突な感じで、ケネスは切り出した。

「え?」
「そのうち結婚して子供ができたら、この辺りに住みたいといつも思ってたんだ」

 ケネスはもう、夕日を見てはいなかった。
 片手を石橋に置いたまま、あかねの方に向き直って、じっと彼女の瞳を見つめている。あかねの鼓動は急にせわしく鳴りはじめた。

「わたしも……今、そんなこと考えてたの。きっと、落ち着いて子育てするにはいい場所だろうなぁって」

 その答えに、ケネスは満足したようだった。
 彼は穏やかに微笑んで、石橋に置いていた手をスーツのポケットの中に入れると、すぐになにかを取り出した。

 ──小さな、ベルベッド張りの紺色の箱。

 あかねは息を呑んで両手を口に当てた。
 まさか。

「Will you marry me?」

 小箱が開かれると、中には小さなダイヤモンドが中央に光るシンプルで上品な指輪があった。

 ああ……確かに、今日はずっと意識していた。

 いつかこんな日が来るかもしれないと、心の何処かで夢見ていた。
 嘘だったとはいえ、一度は彼にプロポーズもされていた。
 それでも今、こうして指輪と、真剣な表情のケネスを前にしたあかねは、膝が震え出しそうになるのを止めることができなかった。

 あかねが答えられずにいると、ケネスは少し居心地の悪そうな微笑を見せた。

「今回のは、本物だよ」
 そして優しく続ける。
「日本で俺がお前にしたことを後悔しない日はない……それでも、あれがあったからこそ俺はお前に会いに行ったんだ。それについては後悔していない」

 涙が溢れてきそうで、あかねは一生懸命首を横に振った。

 立っているのがやっとで、イエスとノーの単純な答えさえ、なかなか口にできない。でも、あかねの心は決まっていた。そうでなければこんなに故郷から遠く離れた場所に、立っていない。

「ケンはこれが……これが、初めてなの?」

 あかねはなんとか震えた声で呟いた。

「は?」
「その……プロポーズ。とか、結婚、とか」

 言ってしまった後ですぐ、あかねはひどく後悔した。

 せっかくケネスが美しい場所でロマンチックなプロポーズをしてくれているというのに、いくら気になっていたからといって、なにを口走ってしまったのだろう。
 少なくとも、もうちょっと違う機会に聞けばいいことなのに。

 しかし、ケネスは動じなかった。
 少し考えたあと、一語一語をしっかり区切るようにして、告白する。

「I proposed to a woman once」

 一度、女性にプロポーズしたことがある。あかねはビクリとしたが、ケネスはすぐに続けた。

「It was you」
 君に。

 ああ……あかねはすぐ安堵のため息を漏らした。あの過去はもう、今はあまり二人の間で話題にはならない。それでも、ケネスはそれを忘れようとか、隠そうとかはしなかった。

 それでもまだあかねが返事をする心の準備ができないでいると、ケネスはさらに一歩あかねに近づいて、彼女の手を取った。器用に指輪を箱から取り出したケネスは、それをあかねの薬指にはめる。

 ゆっくりと。

 まるで、あかねの答えを確認するように。



「You are my first, and you are my forever」

 永遠。

 一生、でも生涯、でもなくて。永遠。
 あかねは自分の薬指にはまった指輪を見下ろし、そして顔を上げた。少し悔しいことに、ケネスはあかねの答えをすでに知っているようだった。

 そうでなければ、こんなに幸せそうな彼の笑顔を見ることは……ないだろう。

「Yes」
 あかねは涙声で答えた。胸の奥が震えるような幸せと、未来への決意を込めて。

「And you are my forever, too」