For the sake of all forgiven's, the memories passed behind us, our lives will start again.
ケネスは、胸の中に抱え込んだ温かい存在をもう一度抱き直すと、そのまま立ち上がった。
あかねの身体がふわりと浮く。
小さく戸惑いの声を上げたあかねを、ケネスは構わずにくるくると回した。あかねの髪が宙に舞い、スカートの裾が揺れ踊る。
あかねの身体はケネスの腕にはとても軽く感じて、まるで妖精を抱いているようだと、そんなことを思った。
掌から伝わってくる熱に、現実と、夢のあいだの曖昧だった境界がはっきりしてくる。
『アカネ』
──どこからどうやって聞きつけたのだろう。母はこの名前を知っていた。
時々思い出したようにこの名前を呟いては、手にしたアルコールのグラスを透かし見て呟く。
ねぇ、ケン、もしかしたら貴方の妹の名前になっていたかも知れないのにね、と。
一条正敏がまだ母と共にいた頃から、もし娘が出来たらこの名前を付けたいと、語っていたのだという。
この名前を口にする時だけは、母も微笑んでいた。
そして必ず、その後に泣く。
どんな思いだったのかは、想像に難しくない。
擦り込まれるように、じわじわとその色を吸っていくように、『アカネ』、その名前は次第にケネスの脳裏へ刻まれてった。
後に母が亡くなり、遠い親戚の家を転々とするようになると、空しさからだろうか──行き場のない悲しみは、復讐の欲望へと形を変えていった。
ひたすらに勉強をし続け、奨学金を取って大学で学びながら、企業で見習いとして働き経験を積む。思えば無茶な努力をしていた。苦しくなかったと言えば嘘になるが、我武者羅に働いている時間は、なにもしないでいる時より楽だったのも事実だ。
彼に、一条正敏に、追い付かなければ──そうでなければこの復讐は成立しない。
そして努力は実りつつあった。
大学を卒業し、企業でそれなりの地位に就くようになると、独立のチャンスも増えてくる。それは五年前──アカネを初めて見た、パーティーの直前だった。
彼が来る。
そう知っていたから、あのパーティーには駆け出しだった頃の忙しさを押して、無理に出たのだ。正直なところ、彼の娘にそれほど大きな関心はなかった。
ただ彼の隣に佇んでいる少女の姿を見て、あぁ、あれが例の『アカネ』なのだろうと、漠然と思ったくらいだ。
落ち着いた赤のドレスを着ていた。
いつか母が、アカネとは日本語でそんな色を指すのだと言っていたことを、わずかに思い出した程度だ。
一条正敏が容態を崩し始めた頃、復讐の準備はすでに調いかけていた。
折も折、一条グループは倒産の危機に瀕していて、融資を切望している状態だった。今ここで彼らを一時的に助け、彼が母にしたように、突然見放せば、間違いなく会社は倒れるだろう。
運命は自分に見方しているように思えた。
唯一の問題は彼、一条正敏自身が、すでに第一線を退きかけていることだ。
彼が母よりも優先したこと。それは会社だったはずだ。
それを傷つけてやりたかった。
しかし彼にはその時すでに、崩れかけている自らが築いた城より、大切なものがあるらしかった──『アカネ』だ。用心深く調べてみると、彼女はやはり彼の後継者に選ばれていた。
なんという運命だろう。
これ以上の復讐はない。
まさに、彼が母に対してしたのと同じことが、また繰り返されるのだ。
許せてしまえれば楽だったのだろうか……。
今になってそう思う。
しかし、幼い日々に毎晩続いた母の悲鳴と涙、一人残されてからの孤独と寂しさ、青年へと成長してからただひたすらに抱き続けた野望……記憶はあまりにも大きすぎて、消すことは出来なかった。
この復讐を否定するのは、自分の存在を否定することでさえ、あった気がして。
『アカネ』、自分にとって、名前だけだった少女。
戸惑っていた彼女の瞳が、やがて、愛情と思慕をもって自分を見つめてくるようになったころ。それは、復讐の終焉をも意味していた。
しかし喜びはなかった。
後に残ったのはただ、心をえぐるような痛みと、愛しさだけだ。


