Forgiving~英国人実業家は因習の愛に溺れる~


 あかねも、なにも言えない──これはいったい、なんだというのだろう?
 突然声を掛けてきたこの男性は、かといって、あかねに気があるという訳ではなさそうに見えた。街を歩いていて偶然見かけて、好みの外見だったから声を掛けている、という感じではないのだ。
 ただ、射るような冷静な瞳が、まるで観察するようにあかねを見すえている。

 真っ直ぐな視線に怯みそうになりながら、あかねの方も、彼から目を離せずにいた。

 白人だ。
 白人ではある、が、日本人がよく思い浮かべる、ステレオタイプの金髪青眼ではない。
 短く揃えられた髪は、黒──しかし日本人の黒とは少し違う、茶色を濃くしたような色だ。瞳はそれをもう少し薄くしたような、曖昧な色彩だった。

 彫りの深い顔立ちは、日本人のあかねには非日常を思わせた。

「アシタ……ワタシタチは、あう」

 もう一度、男は言った。一語一語を切るように、ゆっくりと。

 あかねは答えられずに、ただ立ち尽くしていた。すると彼は、ふいに一歩、あかねに向かって近づいてきた。
 すっと片手が伸ばされ、それが、あかねの頬に触れる。

「Then you will see」

 ──完璧な英国英語だ。
 それが、たどたどしい日本語の後に続いたことで、余計に際立った。

 彼の微笑み方は、たしかに微笑んでいるというのに、それが幸せからそうしているとは思えないような──そんな、複雑な裏表が感じられるものだった。
 あかねがなにか答えようとすると、男はそれをシーッと諌めるように、あかねの頬に当てていた手を口の前に持ってきて、人差し指を立てた。

 それが軽くあかねの唇に触れる。

「アシタ、です」

 男はもう一度そう繰り返して、今度は悪戯っぽく微笑むと、そのまま踵を返した。そしてあかねに背を向けて歩き去っていく。



 なにが起こったのか、あかねには分からなかった。

 ただ、彼の後姿を無言で見送りながら、真っ白になった頭でぼうっとたたずむことしかできなかった。
 今まで頭の中を占めていた会社のことも、未来への不安も、その時だけは綺麗さっぱり消え去っていた。

 なんの予告もなく突然襲ってきた嵐に襲われた──そんな気分だった。
 本当の嵐はこれから襲ってくるのだと、気が付かないまま。