Forgiving~英国人実業家は因習の愛に溺れる~


「アカネ……ミス・イチジョー?」
「え?」

 遊歩道の両脇をいろどる緑の木々の、その下の木陰で。

 あかねは反射的に振り返った。
 珍しいくらいに低いバリトンの声が、自分を呼んだ気がして──惹かれるように、辺りを見回す。
 しかしすぐにはなにも見つからなかった。
 慌ててきょろきょろしていると、もう一度同じ声が響く。

「ココです。うしろ。Turn your face」

 ──ゾクッとするような、低くて甘い男性の声だ。

 あかねは振り返った。
 すると、真後ろに『なにか』が立ちはだかっている。驚いて一歩後ずさるとやっと、それがなんだったのか分かってさらに驚く。あかねが目を見開いて固まっていると、その声の主は続けた。

「シツレイ、します。レディをおどろかせる。ヨクナイ、ですね」
「え、……っと」

 あかねは相手を見上げた。
 本当に見上げなければいけなかったのだ。
 目の前に立っているのはひとりの長身の男性で──喋り方で、彼が日本人でないことだけはすぐに分かったけれど、間違いなく外国人だ。

 彼はあかねと視線が合うと、口元にうっすらと笑みを浮かべた。

「あの……いったい、どちら様で……」

 あかねがそう尋ねると、彼はきょとんとした瞳で軽く首を傾げ、なにを言われたのか分からない、と表現してみせた。
 ああ、確かに、日本語が母国語ではない人間には理解しずらい表現をしてしまったかもしれない。

 あかねは軽く咳払いをすると、再度、尋ねた。

「えっと、その、あなたは誰……ですか」

 あかねはそれなりに英語を喋れる。現在のビジネスには不可欠だと、子供の頃からレッスンを受けていたし、学生のころ一年だけカナダに留学したりもしていた。

 それでもこういう肝心な時、そう簡単には口をついて出てこなかったりするものだ。

「ダレ……。ああ、ワタシが、ダレ、ですね?」

 男はあかねの言葉を繰り返した。
 やっと意味を理解したようで、また口元に笑みが戻る。

 あかねは息を呑んだ。昼時とはいえ、突然外国人に後ろを取られて声を掛けられる。あまり穏やかな場面とは思えない。
 しかし彼の声は落ち着いていた。

「アナタは、わかります。スグに、ワタシがだれか──きっと、アシタ」
「あ、明日?」
「ソウ、デス」

 男はそう肯定すると、じっとあかねを見据えたまま黙って立っていた。