Forgiving~英国人実業家は因習の愛に溺れる~



 ──どうしてこんな風に思うのだろう。

 ケネスはあかねの寝顔を見ながら、強く唇を結んだ。そして思う──二十五年前のあの夜、『彼』は何を思ったのだろうか、と。

 待ったはずだ、この日を。
 願ったはずだ、こうなるのを。

 同じでなくてはならないはずだった。あの男が思ったのと同じことを思えばいい。そうでなくては復讐にならない。
 違うか?

 彼女を手に入れたことで満足し、冷酷に彼女を見下みくだし、使い捨てる。
 二十五年前、あかねの父がケネスの母にしたのと同じこと。


 ──そうだ、待ったはずだ、この日を。
 こうなるのを。

 ケネスの瞳に映るあかねの寝顔は無邪気だった。
 寝顔だけではない、出逢った時から今までずっと、あかねは素直でいて飾らない、そして柔らかく優しい女性だった。それは事実だ。
 しかしそれが何だというのだろう?
 ケネスの母だって同じように優しい女性だったのだ。少なくとも、一条に裏切られ捨てられた、あの日までは。

 ひっそりと、ケネスはあかねをベッドに残し、ベランダへ出た。

 目の前に広がる光の洪水。
 東京の夜。雨だというのに休まることを知らない騒がしい街。

 ──こんなはずではなかった。

 これで満足するはずだったのだ。
 そうだろう?

 この復讐を果たせば、過去も、苦しい思い出も、いつも胸に圧し掛かっていた重みも、すべて消えて無くなる。今やっとそれが果たされるのだ。

 バルコニーの鉄枠を強く掴むと、雨水と鉄の冷たさが手に食い込んでくる。しかしケネスの胸の中は熱かった。

 ──幸せを感じるはずだった。
 この復讐を果たす事で、過去を清算し、それに縛られない明日が始まる。

 そう思ってここまで来たのだ。それが……。

 ──息がし辛い。
 胸に、針が突き刺さったような痛みがする。

 代わりに得られたものは、そんな苦しみばかりだった。満足は微塵も感じない。ただ身体が震えるような後悔と、全てを消し去りたい欲求だけが自分を支配している。

 もしこのまま何も無かったことにすれば、楽になるのだろうか。
 そんな事を考えると、本当に一瞬だけ気分が開放される。

 そうだ、このまま、あかねにはなにも告げず、一度始めた求婚のお遊戯を延々と続けていればいい……。

 しかし次の瞬間には、幼い頃から聞き続けた母の悲鳴が脳裏に響いて、こだまする。決まって夜中だった。
 特に今のような雨の夜。

『ケン、助けて頂戴』
『私の何がいけなかったの? ねえケン、教えて。私を助けて』

 ──『何がいけなかったの?』

 それこそ、自分達の何がいけなかったというのだろう。

 すべてはあかねの父、一条正敏の所業だ。
 あかねに、ましてやケネス自身に、罪は何も無かったはずだ。しかし自分は罰を受けた。

 ケネスは目頭に熱いものが込み上げてくるのを止められなかった。止めるつもりも、なかった。自分は苦しんだのだ。そうだ、彼女も苦しめばいい。いや違う。そうだ、違う、そうだ……。

 その夜の雨と同じく、葛藤は一晩中続いた。

 違うのは、朝に雨は止んだが、ケネスの心中は晴れないままだったことだ。

 しかし答えは出ていた。
 ケネスが何を思おうとも、母の涙の残像だけは、どうしても振り切れない──それが答えだった。