歩き出せば、どの景色も懐かしく思えた。
 目の前に広がる大きな作業場には、たくさんの使用人たちがせわしなく働いている。

 内勤だけではなく、父の仕事は多岐(たき)にわたる。
 それこそドブさらいから、武器造りまで。

 ありとあらゆることを、全ての人間がこなせるように幼い頃から教育されているのだ。
 出来なければ、罰を与えるという風に。

 それでも使用人たちに比べば、まだ幾分か私の方がマシか。
 少なくとも、彼らよりかは賃金をもらえていたから。

 それでも人としてマトモに生きたければ、父の命令を聞くしか選択肢はなかった。
 
 だからこそ父の命令は恐ろしく、結婚して三年、バラ病にかかって治療費を父に頼みに行くまで一度だって実家に帰ることは許されなかったぐらいに。

 たぶんあの病気にさえならなければ、まともな外出も無理だったのだと思う。
 
 さてさて、さっきぶりの父の顔でも見ましょうか。
 一度ぐらい殴ってやりたい気持ちもあるけど、それでは何も解決しないからね。

 むしろ取り押さえられたら、酷い目に合うわ。
 ここは一旦冷静にならないと。
 そういうのは、あの人がもう何も出来なくなったらすればいいわ。

 私は執務室の前で深呼吸ではなく、大きな大きなため息をついた後、部屋に入った。

 前と同じように、中には深く椅子に腰かけた父がいた。
 あの頃の父から考えると、立派な顎ヒゲはほんの少し少ない気もする。
 しかし眉間に刻まれたシワは、安定に深い。

「よろこべ! 今日はいい話を持ってきたんだ」
「いい話ですか。それはどのような?」
「お前の結婚が決まったんだぞ、アンリエッタ!」