時雨くんに手を引かれ、
 私は保健室の前まで連れてこられた。

 授業中の静かな廊下に、
 彼の足音だけが響く。

 トン、と保健室の扉をノックすると、中にいた先生がすぐに顔を出した。

 「どうしたの? ……あら、背中濡れてるじゃない」

 先生は私の背中を見て眉をひそめた。

 「ちょっと、水かけられて……」

 「着替えあるから、ここで借りなさい。あなた、廊下で待っててね」

 そう言われたのは、もちろん時雨くんだ。
 先生は当然のようにそう言ったけど——

 「……離れたくねぇ」

 時雨くんは小さく、しかしはっきりと呟いた。

 先生は一瞬きょとんとした後、苦笑する。

 「心配なのはわかるけどね、女の子が着替えるのよ?
  ——廊下で待つこと。いいわね?」

 「……」

 時雨くんは不満そうに眉を寄せたが、
 私がそっと袖をつまんで言った。

 「すぐ終わるから……ね?」

 その一言で、彼はようやく折れた。

 「……わかった。でも、扉の前から離れねぇからな」

 先生が「えっ」と驚いたけど、
 止める暇もなく、時雨くんは扉のすぐ前に仁王立ちした。

 扉が閉まる。

 仕切りカーテンの向こう、
 保健室は妙に静かで、落ち着かない。

 (着替えるだけなのに……なんでこんなにドキドキするんだろ)

 制服の上着を脱ぎ、濡れたブラウスに触ると、ひやっとして背筋が震えた。

 その時。

 コン……

 扉の向こうから、低い声。

 「雪菜……なぁ、ちゃんといるよな」

 (……いるよ)

 心の中で返しながら、
 声を出すのは恥ずかしくて黙っていると——

 「返事、しろ」

 少し苛立った声で言ってくる。

 仕方なく、私は小さく答えた。

 「……いるよ」

 すると、扉越しにため息が聞こえた。

 「……よかった。返事ないと、不安になる」

 (え……不安って……)

 時雨くんがそんな言葉を言うとは思わなくて、
 胸がきゅっとなった。

 濡れたブラウスを脱ぐ時、
 布が肌に引っついていて、ちょっと時間がかかる。

 ——そこで、また声。

 「なぁ、今……脱いでんの?」

 「っ!? し、時雨くん!?」

 思わず声が裏返る。

 扉越しに、彼が低く笑う気配がする。

 「……返事が可愛い」

 (む、無理……恥ずかしい……)

 私は慌てて言った。

 「ちょっと黙ってて……!いま着替えてるの!」

 すると、扉越しに息を呑む音がした。

 「……雪菜、今、脱いでるって……俺に言うなよ……」

 「何でよ!?」

 「意識するだろ。お前が、俺の知らねぇ場所で、俺の知らねぇ姿になってるとか……気がおかしくなる」

 低くて、熱を含んだ声。

 怒ってるというより、
 “抑えている”感じがする。

 私は急いで保健室のジャージを身につけ、
 カーテンを開けて声をかけた。

 「もう終わったよ……」

 すると、次の瞬間——

 ガチャッ!

 扉が勢いよく開いて、
 時雨くんが入ってきた。

 先生がいない隙を見計らっていたらしい。

 「雪菜!」

 駆け寄ってきた彼は、
 私を確かめるように腕を掴み、すぐ離した。

 「……良かった。本当に、ちゃんといる」

 その表情は、怒りも嫉妬も混ざっていて、
 でもどこか必死で——
 心が揺さぶられた。

 「そんな心配するほど、いなくなったりしないよ……?」

 そう言うと、彼は顔をゆっくり近づけてきた。

 距離が、息が触れ合いそうなほど近い。

 「雪菜……お前が他の場所で着替えてんの、嫌なんだよ」

 「……え?」

 「だってさ。俺以外誰も知らねぇ姿になってんじゃん」

 耳まで熱くなるような台詞。
 視線をそらそうとした瞬間——

 時雨くんの手が、私の頬に触れた。

 「……雪菜。今度から、濡れたりしたら俺が替えに連れてく」

 「え、えぇっ!?」

 「他の男に見られるくらいなら、俺が全部隠す」

 その独占欲に、胸が苦しいほど熱くなる。

 時雨くんの指先が頬をなぞり、
 そのまま耳元に唇が寄った。

 「……雪菜。お前、俺にどれだけ不安にさせてるかわかってる?」

 心臓が跳ね上がる。

 私を抱き寄せながら、
 彼は囁くように言った。

 「もうちょっとで、ここで取り返してた」

 「と、取り返すって……なにを……」

 彼の腕の力が少し強くなる。

 「雪菜は俺のものだって、
  ちゃんと刻みつけるやつ」

 喉がひゅっと詰まる。

 怖いのに、こんなにも胸が甘く震えるなんて——自分でも信じられなかった。