最期に見た光景は、見惚れるくらい綺麗な望月だった。
 あ、落ちる。
 そう思った瞬間、ダンッと大きな音が響き痛みが身体を貫き、私は意識を手放した。

「……ア……シア……エリシア!!」

「うるさいっ! 残業残業残業残業で寝不足なんだから耳元で大声出さないでっ」

 重たい瞼を開けると同時にそう怒鳴りつければ頭がズキズキと痛み出す。

「って、アレ? 私確か階段で足を踏み外して……?」

 月が綺麗だな、って思ったその後は……? と思い出していると。

「エリシア?」

「いや、エリシアって誰? っていうか、あなた誰?」

 こっちを困惑気味に見てくる知らない人に問いかけた。

「俺が、分からないのか?」

 うーんと私は首を傾げる。
 漆黒の髪に望月みたいな琥珀色の瞳が印象的なイケメンなんてまるでロマンス小説のヒーローみたい。
 というか、格好もまるで貴公子みたいな……。
 どういう状況? と驚いて視線を下げれば私が着ているものもスーツではなく高そうなドレスで。

「え!? 何これ、壮大なドッキリ?」

「ドッキリ、って……本当に分からないのか?」

 コクリ、と頷いた私は、

「とりあえず、なんでこうなったのか状況説明とあなたのお名前をお伺いしても?」

 助けてくれたらしいイケメンにそう頼んだ。

 派手に階段から落ちて頭を打った割に、意外と外傷は大したことがなくほっとする。
 医師の診断でも身体的な問題は見られなかった。
 が、鏡にはエリシア・ダルクレストという全く知らない人が映っているこの状況。
 流れるようなウェーブのかかった綺麗な銀髪に陶器のような滑らかな白い肌。鼻筋の通った整った顔立ちに碧眼がやや冷たい印象を感じさせる。
 エリシアとしての記憶はないが、この国の文字は読み書きできるし、生活するのに支障がないレベルで様々な情報は覚えている。
 ただ、エリシアと彼女を取り巻く人間関係だけはストンとリセットされていた。
 私、もしかしてエリシアという子に憑依してるのかしら?
 エリシアは総合的に美人だけど、ビジュアル的に悪役令嬢っぽいななんて呑気に思っていると。

「怪我が大したことなくて良かった」

 ロラン、と名乗ったその人は、ほっとしたように私にそう言った。彼はエリシアの婚約者らしい。
 先程彼から私、というかこの身体の持ち主であるエリシアが転落するまでの過程を聞いた。
 婚約破棄の話し合い中、話にならないと部屋を飛び出したエリシアが足を滑らせそのまま階段から落ちた、と。

「やはり、俺の事は思い出せないか?」

「そうですね、全く」

 コクンと素直に頷く。

「正直、エリシアと呼ばれる事にも違和感があって」

 だって、さっきまでの自分は日々時間に追われるブラックな企業のしがないOLで。
 その時の記憶しかないのだから。

「そうか、困ったな。家の者には使いを出すが、とりあえず君はどうしたい?」

「いいですよ。しましょう、婚約破棄」

「え?」

 あっさりそう言った私に、戸惑うロラン様。

「俺がいうのもなんだが、こんな話を信じるのか? まだ婚約破棄しようとした理由すら伝えてないのに」

「あ、別にいいです。覚えてないので。あなたの事も貴族らしい暮らしも、全部」

 ロラン様だって困っているはずなのに、私の怪我を心配してくれたし、婚約破棄しようとしている相手のことも尊重してくれようとした。基本的に彼は"いい人"なのだろう。
 でもそれはそれ、これはこれ。
 どれだけこうなる前の自分の記憶をさらっても、ロラン様にもエリシアにも見覚えはない。
 が、小説やゲームならイケメンは大体ヒーロー枠と相場が決まっている。
 婚約破棄されそうになってるなら、これ以上関わらないのがベター。
 物語は読者として楽しむに限る。
 というわけで、厄介ごとはごめんなので。

「慰謝料、くださるんでしたよね?」

 せっかくなので、再出発のチャンスにすることにする。
 これが夢でない以上、どう転んでも私はココで生きていかなきゃいけないんだから。

「ロラン様が何者なのかも詮索しません。その代わりひとつ頼まれてくれません?」

 条件を満たしてくださるならすぐ婚約破棄のサインしますと私は二つ返事で応じた。

**

「はぁーしたい事だけすればいい生活最高ーー!」

 さらば社畜生活! と私は幸せを噛み締める。
 初めはどうなるかと思ったけれど、元々異世界転生系ジャンルが好きだった事もあり、エリシアになってしまったことも抵抗なく受け入れられたし。
 慰謝料のおかげで当面の生活資金も十分。
 婚約破棄の条件として、死亡事故を装った私の失踪に協力してもらったことでエリシアの家族に追われる心配もない。
 なによりこの国の生活水準が意外と高かったのと紹介してもらった町の治安が非常によかったおかげで思いの外充実した毎日を過ごせている。
 まぁ不満をあげるならば、限界OLだった私の癒し、ラノベや漫画やゲームといった娯楽がないことだろうか。
 当初はもしかして知ってるゲームの世界に転生や転移してたりして!? とあちこち知ってる情報はないかと探してみたけれど全く出て来ず。
 限界OL時代にときめいた推しには会えなかったんだけど。

「よしっ! 今日も楽しく働くぞー」

 ないならないで、作ればいい。
 というわけで、前からずっと憧れていた趣味カフェ『満月堂』をオープンさせてしまったのだった。
 お金には困ってないので、私の趣味全開。
 様々なジャンルの本を置いており、自由に読めるし、語れるし、販売もできちゃうカフェなのである。
 面白い物語を紹介してくれたらランチ一食無料!
 レビュー投稿で飲食代10%オフ!
 創作した作品を自由に公開できるスペースも確保し、いいね! ボタンの代わりにシール帳を置いており、評価が高い作品は製本化して趣味活動を支援!
 私が読みたいジャンルでお題を出してコンテストを開催したり、イベントなんかも定期的に実施したりして。
 素敵な絵師さんと作家さんが出会って創作活動が捗るといいなとサークル立ち上げの後押しなんかもしていたら、これも結構好評で。
 満月堂はあっという間に私の"好き"で溢れる素敵空間に育って行った。
 
 閉店間際。
 ほとんど人がいなくなった店内にカラン、と入店を知らせるベルが鳴る。
 こんな時間に来る常連さんは一人だけ。

「いらっしゃい、ロラン様」

 初めて顔を出してくれた時は正直驚いたし、元婚約者が店の常連ってどうなのよとも思ったけど。
 今ではただの趣味友兼目の保養要員に。

「……まだ大丈夫だろうか」

「いいですよー! ロラン様お得意様なのでっ」

 今日はどんなときめきをご所望で? と私はメニュー表とともに最近入荷した物語のオススメレビューを手に席に案内した。

「なるほどっ! こういう展開か」

 推理小説を読み終わり、ロラン様は感嘆の声をあげる。

「なかなか面白いでしょ! 最後の大どんでん返しが最高なんです♪」

 イケメンは本を読む姿もカッコいいなーと愛でていると。

「それは?」

 作業中のポップを指してロラン様がそう尋ねた。

「ああ、コレですか? 次回イベント用のポップです! 神絵師さんのおかげで、超華やかなんですよ!」

 あの区画にイベントブースを作るの! と私はウキウキでどさっと沢山の作品を並べる。

「今回の募集テーマは悪役令嬢モノで、女子向けイベントなんですよ」

「悪役、令嬢?」

 ふふふふふっとニヤニヤしながら私は作品を愛でる。
 限界OLをやっていた世界でも大人気のあのジャンル。
 いくつか見本例を示してコンテストを開催したら、ハマる女子続出。
 古今東西、どんな世界でも女の子はヒロインに憧れるものらしい。

「超分かる。超同意。どん底からの大逆転! ざまぁも嫌いじゃないけど、ハピエンだとなおヨシ。安心して物語に浸れる。見飽きた構図? ご都合主義? だからどうした!? 好きなものは好きなのよ! ベタでいいじゃん。ベタが良いのよ。だって、これはフィクションなんだから」

 と、前向きヒロインが自分らしく戦って幸せをもぎ取るまでの物語を愛でて語る。

「エリシアは、こういうのが好きなのか」

 興味深そうにページをめくりながら、ロラン様が笑いかける。

「……現実はこうはいかない、ってことくらい分かってるの」

 なら、夢くらい見たっていいじゃないと私は小さくつぶやく。
 私には彼女達みたいに戦う勇気がなかった。だから、きっとヒロインにはなれないのだろう。
 目を伏せ下を向く私に、

「戦略的撤退、という言葉もある。真っ向から立ち向かうだけが勇敢な行為じゃない。誰かを思って堪え忍ぶ、そんな戦い方があってもいいじゃないか」

 だって、これは現実なんだから。
 そんな言葉が落ちてくる。
 顔を上げれば、優しい琥珀色の瞳と目が合った。
 まるで、あの日私が願った満月みたい。
 ぽん、と乗せられた手は温かくて、優しくて。
 ああ、もう大丈夫なのだと思った瞬間、記憶の蓋が開いた。
 私、エリシア・ダルクレストはこの人を知っている、と。

「あなたみたいに、ですか? ユリウス(・・・・)お兄さま」

「!! エリシア、記憶が……」

 私は静かに頷く。
 そう、この人はロラン様ではなく血の繋がらない兄であるユリウス様。
 ユリウス様は元々長年子宝に恵まれなかったダルクレスト伯爵夫妻が、家を継いでもらうために迎えた養子だった。
 養子を迎えた途端、ダルクレスト伯爵夫妻が実子を授かりユリウスお兄さまの立場は微妙なモノになってしまったけれど。
 ユリウスお兄さまは私の夫になる人間が伯爵家を継ぐことになると分かった上で、私のことを本当の妹のように大事に扱ってくれた。
 そんなユリウスお兄さまが大好きで、ずっと一緒にと願ったけれど。
 私の婚約者はエリクシード侯爵家次男ロラン様に決まった。
 爵位が上というのもあるけれど、災害で大打撃を受けたダルクレスト伯爵家はエリクシード侯爵家からの援助がなければ立ち行かない状態で。
 ロラン様の婿入りが侯爵家からの援助の条件だったから。
 伯爵家のため、領民ため、どんな仕打ちを受けても耐えようと決めた。
 だって、私が結婚を決めたらユリウスお兄様が居場所を失ってしまうと分かった上で、
ダルクレスト伯爵家の存続を選んだのだから。
 ロラン様にとって、私との婚約が不本意なモノであるのは分かっていた。
 でも、それはお互い様。
 ロラン様の恋人からの嫌がらせにも、ロラン様と交わることのない視線にも慣れたし。
 冷たいセリフで突き返されたプレゼントを処分するのだってお手のもの。
 エスコートされず、一人で佇む夜会で晒し者にだってなってみせた。
 金のために身を売った。
 そうよ、確かにその通りなのだから。
 ユリウスお兄さまを切り捨て犠牲にした私には失うモノは何もない。
 そんな私に婚約破棄の提案を持ってきたのは、私の婚約が決まると同時にダルクレスト伯爵家から姿を消したユリウスお兄さまだった。

『勝手なことしないで! あなたは伯爵家とはもう無縁なのだから』

 コチラの事情で切り捨てたのに。
 私はあなたより伯爵家を選んだのに。
 助けてなんて言えるわけない、と。
 お兄さまを突き放し、部屋から駆け出した私は、絡みついたドレスに足を取られ落ちた。
 私を呼ぶ見開かれた望月のような綺麗な瞳を見ながら思った。
 ああ、どうか。
 これ以上ユリウスお兄さまが傷つきませんように、と。

「伯爵家はどうなっていますか?」

 侯爵家の援助がなければ復興は難しい状態だったのに。

「それは心配いらない。隣国にちょっとした伝手があってね。助力を頼んだ」

「伝手?」

「たまたま、隣国の公子と知り合いなんだ」

 他にも色んなところに貸しがあって、と不敵ににこやかに笑うユリウスお兄さま。
 国内で見限られる伯爵家を助けてくれるくらいの貸しってと呆気に取られていると。

「それに、侯爵家も取り潰しになったし」

「は? えっ!? 取り潰し!?」

 どういうこと!? と前のめりになる私に、

「いやぁー叩けば埃でるかなーって?」

 それ以上語らずにこにこにこと笑顔で押し通すお兄さま。
 本当に何したんですか、ユリウスお兄さま。
 気にはなるけど、ユリウスお兄さまを敵には回したくないので、聞かなかったことにした。
 長い物には巻かれたほうがいいしね。

「元々、エリシアが誰かを選んだら伯爵家を出るつもりだったから」

 静かに私にそう告げる。

「エリシアは俺にとって大事な"家族"だからね」

「私のせいで伯爵家を継げなくなったのに、ですか?」

「父上にも母上にも良くして頂いていたけれど、エリシアが生まれる前の俺達はとてもぎこちなくてね。でも、俺を"お兄さま"と呼ぶエリシアが俺達を家族にしてくれた」

 そう言って、いつものように優しい手つきでユリウスお兄さまは髪をそっと撫でてくれる。

「エリシアを任せられる誰かなら干渉しないつもりだったけど……あんなクズにやるために俺はエリシアを守ってきたわけじゃない」

 我儘な兄でごめん、と小首を傾げて謝るユリウスお兄さま。
 あざとい。
 そして、前世を思い出した今この構図は嫌いじゃない。
 むしろ好物、と内心で拳をぐっと握り悶えるも、

「それにしても、ロラン様の名を語って婚約破棄させるなんて悪趣味ですわ」

 身内だと知らぬまま趣味ををさらしてしまった気恥ずかしさからツンと答えてしまう私。

「すまない。頭を打ったショックで記憶が混乱しているようだったから、今ならサインしてくれるんじゃないかって」

 どうしても、破棄させたかったと謝るユリウスお兄さま。

「それにいつまでもロラン様のフリをしたままなんてっ!」

「それは、趣味に没頭するエリシアがあまりにも楽しそうで、ドヤ顔で語るエリシアが可愛いかったから、つい」

 好きにさせてあげたくて、と言ったあと何度も真摯に謝るユリウスお兄さま。
 助けられた上にガチめに謝られたら、立つ瀬がない。
 その上、記憶を失くした私のことも好きにさせつつ保護してくれていたようだし。
 うーん、と悩むフリをして、

「いえ、意地を張って話を聞かずに飛び出した私にも非はありますから、今回は許してあげます」

 甘えん坊の妹、エリシアらしくそう返す。

「よかった」

 ほっとしたような優しい声に照れてしまった私が、熱を冷ましたくて窓を開けるとそこには大きな満月が浮いていて。

「わぁー満月だ。綺麗」

「そうだね、エリシアの方がもっと綺麗だけど」

 私の隣で同じように夜空を見上げたユリウスお兄さまが優しく笑う。
 満月のような琥珀色の瞳に見惚れながら私は思う。

「ベタだなぁ」

 こんなの、落ちない方が無理でしょう。

「ん? エリシアは、ベタが好きなんじゃなかったの?」

「そう。ベタがいいのよ、ベタが」

 日々形を変える月のように、私達の関係が変わるまで、あと少し。


⭐︎あとがきと宣伝と。
最後までお付き合いくださりありがとうございました!
ベタをいっぱい盛り込みました^_^

お知らせ📢です!
人生3度目の悪役姫は物語からの退場を希望する
10月1日集英社様でコミカライズ化して頂き、リコマミ様やシーモア様等で発売となりました✨
作画は山本りこ先生。
現在4話まで配信中です。
アリアとっても元気で可愛く描いてくださってますので、ぜひぜひお読み下さいませー