季節は巡り、春が訪れた。
サイネックス・エージェンシーに新設されたクリエイティブ部門の会議室。私は、新しいプロジェクトのブレインストーミングを、チームリーダーとしてリードしていた。活発に飛び交う意見、熱を帯びた議論。その中心で、私は、自分の言葉で、自分の意志で、チームを導いている。左手の薬指には、蓮がくれた婚約指輪が静かに輝いていた。
「今日はここまでにしましょう。皆さん、素晴らしいアイデアをありがとう。お疲れ様でした」
私がそう告げると、若いメンバーたちが「お疲れ様です!」と、充実した笑顔で応えてくれる。
会議室を出ると、廊下で、蓮が腕を組んで待っていた。その姿を見つけるだけで、私の心に、温かい光が灯る。
「おかえり、莉奈」
「ただいま、蓮さん」
私たちは、ごく自然に微笑み合う。彼が差し出してくれた手に、自分の手を重ねる。蓮の指には、私とお揃いのシンプルなペアリングが、確かな愛の証として光っていた。
「今日は、どこに食べに行く?」
「えっと、イタリアンがいいです」
「了解」
蓮が、優しく微笑む。二人で並んで歩く、この何気ない時間が、私にとって、何よりも大切な宝物だった。
エレベーターの中で、私は、蓮の腕に、そっと頭を預けた。
「ねえ、蓮さん。私、本当に、幸せです」
心の底から、何のてらいもなく、その言葉がこぼれ落ちた。
蓮は、私の髪を、優しく撫でる。
「俺もだ。ずっと探していた言葉を見つけて、そして、その言葉の主を、こうして愛することができた。これ以上の幸せはない」
私は顔を上げて、いたずらっぽく笑ってみせた。
「そういえば、週末に、また新しいプロジェクトのアイデアが浮かんだんです。今度、聞いてもらえますか?」
蓮は、一瞬、驚いたような顔をして、それから、たまらなく愛おしそうな顔で、優しく笑った。
「お前は、本当に変わらないな」
「変わりましたよ」
私は、真剣な顔で、彼を見つめ返した。
「今の私は、心を開いて、生きています」
その言葉に、蓮は、私の額に、慈しむように、そっとキスを落とした。
「ああ。そうだな。君は、本当の君になった」
ふと、私たちは顔を見合わせて、笑い合った。
「結婚式、どうしましょうか」
「いっそ、あの会議室で挙げるか?」
蓮の冗談に、私は本気で考えるふりをして答える。
「本気で考えてもいいかもしれませんね。この場所は、私たちにとって、特別ですから」
蓮も、笑顔で頷いた。
「そうだな。ここから、全てが始まった」
エレベーターのドアが、静かに開く。
私たちはビルを出て、外の空気を吸った。柔らかな光に満ちた、春の夕暮れだった。街路樹の桜が、ほころび始めている。
私たちは、並んで歩きながら、美しい夕日を見つめた。
「これからも、ずっと、一緒に」
蓮が、私の手を、優しく握りしめながら、囁いた。
「はい。ずっと、一緒に」
私も、その手を、強く、握り返した。
二人の未来は、無限に広がっていた。かつて氷に閉ざされていた心は、今、愛する人と共に歩む、温かさに満ちている。
莉奈は、もう二度と、氷の仮面を被ることはない。
(完)