プレゼンの成功を祝う社内パーティーは、熱気に満ちていた。誰もが私の元へやってきては、「おめでとう」「素晴らしかった」と賞賛の言葉をかけてくれる。私は、その一つ一つに、ぎこちないながらも、笑顔で応えた。
だが、私の心は、ここにはなかった。パーティーの喧騒の中に、あの人の姿を探していた。
パーティーが終わり、ほとんどの社員が帰宅した深夜のオフィス。私は、まるで何かに引き寄せられるように、あの会議室の前に立っていた。38階の、特別会議室。私と蓮の、全てが始まった場所。
ドアを開けると、部屋の明かりは消えていたが、大きな窓の外に広がる東京の夜景が、銀色の光で室内をぼんやりと照らしていた。
私は一人、窓辺に立ち、宝石箱をひっくり返したような街の灯りを見つめていた。
「まだ、いたのか」
背後から聞こえた、低く、穏やかな声。振り返らなくても、誰なのかは分かった。
私が振り返ると、蓮は、そこに静かに立っていた。
「はい。なんだか、まだ、信じられなくて」
私は、素直な気持ちを口にした。蓮は、私の隣に立つと、同じように夜景に目を向けた。
「今日のプレゼン、完璧だった。お前の言葉は、全員の心を動かした」
「……全部、蓮さんのおかげです。あなたが、私を信じてくれたから」
私の言葉に、蓮は静かに首を横に振った。
「いや。お前が、自分を信じたからだ」
彼は、私の方へと向き直った。その深い青色の瞳が、夜景の光を反射して、星のようにきらめいている。
「莉奈。今朝、俺は全部話した。だが、一つだけ、まだ言っていないことがある」
私の心臓が、甘く、高鳴るのを感じた。
「俺は二年前、お前の言葉に恋をした。だが、今は違う。俺は、お前自身に恋をしている。お前の強さに。お前の優しさに。お前の、その魂の全てに」
蓮は、私の手を、そっと、両手で包み込んだ。
「莉奈。俺と、一緒にいてくれないか」
それは、命令でも、提案でもない。ただ、ひたむきな、魂からの願いだった。
涙が、溢れて止まらない。でも、それはもう、悲しみの涙ではなかった。
「はい。はい……っ」
私は、何度も、何度も、頷いた。
「私も、蓮さんが好きです。ずっと、ずっと前から……」
その言葉を、ずっと言いたかった。
蓮は、そんな私を優しく、しかし力強く抱きしめた。
そして、私の涙を拭うように、唇を重ねた。
二人の唇が重なった瞬間、私の世界が、完全に色づいた。
それは、虹色に輝く、希望に満ちた、新しい世界の始まりだった。
長い、長いキスの後、私たちは、額を合わせたまま、互いの温もりを感じていた。
「……本当に、夢じゃないですよね」
私が小さく笑いながら言うと、蓮も、その唇に、柔らかな笑みを浮かべた。
「夢じゃない。これは、現実だ」
彼は、私の髪を、愛おしそうに撫でる。
「この二年間、君を探していた時間は、孤独だった。仕事はうまくいっていた。だが、心の中には、ずっと、君の言葉が残っていた。その言葉を書いた人に、会いたいと、ただ、それだけを思い続けていた」
私は、彼の胸に、顔を埋めた。彼の心臓の、力強い鼓動が、私に伝わってくる。
「私も、この数ヶ月、蓮さんと過ごした時間が、人生で一番、輝いていました。怖かったけど、でも――生きている、という実感がありました」
蓮は、私の身体を少しだけ離すと、その瞳を、まっすぐに覗き込んだ。
「莉奈。君に会えて、本当によかった」
「私もです。蓮さんに会えて、本当に……」
私の声が、幸せな涙で、詰まってしまう。
私たちは、再び、強く抱き合った。言葉はいらなかった。ただ、互いの存在を確かめ合うように。この深夜の会議室で、まるで、世界に二人きりになったかのように、時間が、止まったように感じられた。
蓮が、私の耳元で、囁いた。
「やっと、君に会えた」
私は、彼の胸の中で、満ち足りた気持ちで、幸せに微笑んだ。
「私も。やっと、本当の自分に会えました」
この場所で、私は、氷の仮面を脱いだ。
この場所で、私たちは、愛を確かめ合った。
ここから、全てが、始まるのだ。

プレゼンの成功から、三ヶ月後。
新ブランド『Revive』は、記録的な大ヒットとなり、社会現象にまでなっていた。「あなたの色で、生きていい」というキャッチコピーは、多くの女性たちの心を掴み、勇気づけた。
私は、新設されたクリエイティブ部門のチームリーダーに、正式に就任した。かつての「氷の仮面」の面影は、もうどこにもない。私の周りには、活き活きとした笑顔と、新しい企画への情熱が、常に溢れていた。
蓮との関係は、社内でも公認のものとなっていた。最初は誰もが驚き、遠巻きにしていたが、私たちが真剣に仕事に取り組み、そして、互いを尊重し合っている姿を見るうちに、いつしか「お似合いのカップル」として、温かく祝福してくれるようになっていた。
ある日、高木部長が、私のデスクにやってきた。
「水瀬リーダー。本当におめでとう。正直、最初は心配だったが、君は見事にやり遂げた。いや、それ以上だ」
その顔は、心からの笑顔だった。私は、「ありがとうございます」と微笑んで頭を下げた。
廊下ですれ違った佐藤さんも、複雑な表情ながら、「……おめでとう」と、小さな声で声をかけてくれた。
そんな、ある金曜日の夜。
仕事を終えた私に、蓮が「今夜、時間はあるか」と尋ねてきた。私が頷くと、彼は、私の手を引き、ある場所へと連れて行った。
そこは――最初に二人きりで企画を練り、そして、初めてキスをした、あの深夜の会議室だった。
「なぜ、ここに?」
私が不思議そうに尋ねると、蓮は、悪戯っぽく微笑んだ。
「この場所が、全ての始まりだったから」
会議室には、私たちの、たくさんの思い出が詰まっている。私が初めて自分の意見を言った場所。蓮が不器用にジンジャーティーを差し入れてくれた場所。そして、二人の唇が、初めて重なった場所。
蓮は、私の手を引き、会議室の中央へと導いた。そして、私の目の前で、ゆっくりと、跪いた。
「莉奈」
彼の、真剣な声が、静かな部屋に響く。
「この場所で、俺は初めて、君の本当の才能を見た。この場所で、君は、氷の仮面を脱いだ。そして、この場所で、俺たちは、愛を確かめ合った」
蓮が、小さなベルベットの箱を、パカリと開く。
中には、夜景の光を受けて、ダイヤモンドが上品に輝く、シンプルなリングがあった。
「だから、この場所で、俺は君に誓いたい。これからの人生、ずっと、君の隣にいると。君の言葉を、君の心を、君の全てを、愛し続けると」
「莉奈。俺と、一緒に、未来を作ってくれないか」
胸が熱くなり、視界が滲んだ。
私は、声にならない声で、何度も、何度も、頷いた。
「……はい。はい……っ。喜んで。私も、ずっと、蓮さんの隣に、いたいです」
蓮は、安堵したように微笑むと、立ち上がり、私の左手の薬指に、そのリングを、そっと、はめてくれた。それは、まるで、最初からそこにあるべきだったかのように、私の指に、完璧にフィットした。
次の瞬間、私の身体が、ふわりと宙に浮いた。蓮が、私を、軽々と抱き上げたのだ。
「きゃっ!」
「ははっ」
蓮の、子供のような、楽しそうな笑い声が響く。彼は、私を抱き上げたまま、その場で、くるりと回った。
私たちは、笑い合い、そして、深く、深く、キスを交わした。
「愛してる、莉奈」
「私も、愛してます、蓮さん」
会議室の大きな窓の外で、丸の内の煌びやかな夜景が、まるで、二人を祝福するかのように、どこまでも、輝いていた。