最終プレゼンの朝。
私は、鏡の中の自分を、まっすぐに見つめていた。そこに映っていたのは、もはや、色のない世界の住人ではなかった。瞳には、不安と、しかしそれを上回る決意の光が宿っている。頬には、確かな血の気が通っていた。
準備を整え、蓮と二人でグラン・コスメティクスのビルへと向かう。決戦の場となるプレゼンルームへ向かおうとした、その時だった。
「少しだけ、時間をくれ」
蓮が、私の腕を掴み、近くの誰もいない控え室へと導いた。
二人きりになった部屋で、蓮は深呼吸を一つした。その表情は、いつになく真剣だった。
「莉奈。プレゼンの前に、お前に、全てを話しておく」
彼は、静かに語り始めた。
「二年前の冬。俺はまだロンドンにいた。ある日、友人に頼まれて、日本の学生向け広告コンテストの審査員を務めたんだ。正直、期待はしていなかった。どうせ、教科書通りの無難な企画ばかりだろうと」
彼の言葉に、私の心臓が、大きく脈打った。
「だが、一つだけ、全く違う企画があった。匿名応募だったから、作者の名前はわからなかった。後で調べたら、学生向けコンテストは全て匿名制だったそうだ。公平性を保つためにな。記されていたのは、学籍番号だけ。だが、その企画書には――圧倒的な情熱と、傷ついた魂の叫びが、込められていた」
まさか。そんなはずは。私の心臓が、激しく鳴り始めた。
「技術的には未熟だった。論理も完璧ではなかった。だが、俺は、その企画に心を奪われた。一行一行から、作者の『本当の想い』が溢れていた。それは、誰かに認められたい、自分の価値を証明したいという、純粋で、痛々しいほどの叫びだった」
「俺は、その作者を探し続けた。二年間、ずっとだ。学籍番号から大学を特定し、様々な手段を使って調査を続け、そして――君が、この会社にいることを知ったんだ」
私は、震える声で、かろうじて尋ねた。
「……それは、私の……?」
蓮は、力強く、頷いた。
「ああ。君が学生時代に、たった一度だけ応募した、あのコンテストだ。君は覚えていないかもしれない。小さなコンテストで、結果発表もされなかったからな。だが、俺は覚えている。あの企画書の、全ての言葉を」
涙が、視界を滲ませる。忘れていた。いや、心の奥底に、封印していた記憶。誰にも認められず、ただ、虚しさだけが残った、遠い日の思い出。
「君の社内での過去の失敗も、全て調べた。そして、理解した。君は、あの素晴らしい企画を、社会に出てから、誰かに否定されたことで、自分自身を否定してしまったんだと。だから、俺は君を選んだ。君の才能を、もう一度、この世界に証明させたかった」
蓮は、私の両肩を掴み、その深い青色の瞳で、私をまっすぐに見つめた。
「そして、君に伝えたかった。俺は二年間、ずっと、君の言葉に恋い焦がれていたんだと」
その告白は、雷のように、私の魂を貫いた。
「私の、言葉に……?」
涙が、頬を伝って、止まらない。
蓮は、その顔に、今まで見たこともないほど優しい笑みを浮かべた。
「ああ。だから、今日は、お前の言葉で語ってくれ。俺じゃない。お前自身の言葉で。俺は、ずっとそれを待っていたんだ」
私は、涙を拭い、彼の瞳を見つめ返し、深く、深く、頷いた。
「……はい。行ってきます」
蓮は、私の額に、そっと、唇を寄せた。
「頑張れ、莉奈」

私は、プレゼンルームのドアを、自らの手で開けた。
会議室には、白石社長を始めとするグラン・コスメティクスの役員たちが、緊張した面持ちで揃っていた。桐谷専務の表情は依然として厳しいが、白石社長は、私に向かって、温かく微笑んでくれた。
蓮は、部屋の隅の席に座り、ただ静かに、私を見守っている。
私は、深呼吸を一つすると、プレゼンテーションを開始した。
「本日は、グラン・コスメティクス様の新ブランド企画、『Revive(リバイブ)』をご提案させていただきます」
声は、もう震えていなかった。
「このブランドのコンセプトは、『凍った心を、もう一度温める』です。ターゲットは、社会の中で自分を押し殺して生きている、全ての女性たち。仕事や人間関係の中で、いつしか、本当の自分を見失ってしまった方々です」
私は、聴衆一人ひとりの顔を見ながら、語りかける。
「彼女たちに向けて、私たちは、こう問いかけます。『あなたの本当の色は、何色ですか?』と。広告ビジュアルは、モノクロームの世界で生きる女性が、一本の口紅を手に取った瞬間、世界が鮮やかに色づいていく――というストーリー。その口紅の色は、『彼女自身が選んだ色』です。誰かに決められた流行の色ではなく、自分自身が、本当に好きだと感じた色。それが、このブランドの核心です」
「キャッチコピーは、『あなたの色で、生きていい』。商品名は、『Revive』――すなわち、『再生』を意味します。これは、単なる化粧品を超えた、新しい生き方の提案です」
私は、そこで一度言葉を切り、自分の胸に手を当てた。
「私自身、二年間、自分の心を殺して生きてきました。でも、気づいたんです。心を持つことは、弱さじゃない。心を持つからこそ、人は、誰かの心を動かすことができるのだと」
「このブランドは、『本当の自分を取り戻す』ための、お守りのような存在です。自分を押し殺して生きている、この世界中の全ての人に、もう一度、自分の心を信じてほしい。そんな、私の全ての想いを、この企画に込めました」
プレゼンが終わると、会議室は、水を打ったように静まり返った。
そして――白石社長が、ゆっくりと立ち上がり、力強い拍手を始めた。
その拍手は、一人、また一人と伝染し、やがて、会議室全体を揺るがすほどの、盛大な喝采へと変わっていった。
「素晴らしい、水瀬さん。これが、私たちが求めていたものです」
白石社長が、感極まったような声で、そう宣言した。桐谷専務も、満足そうに、深く頷いている。
コンペは、圧勝に終わった。
会議室を出て、廊下で待っていてくれた蓮の姿を見つけた瞬間、私の足は、自然に彼の方へと向かっていた。
私は、彼の胸に、子供のように飛び込んだ。涙が、止まらなかった。
蓮は、そんな私を、力強く、そして、優しく抱きしめてくれた。
「おかえり、莉奈」
その声が、私の魂に、温かく染み込んでいく。
「……ただいま、蓮さん」
私たちは、初めて、お互いの名前を、呼び合った。