最終プレゼンまで、残り三日。
私と蓮が作り上げた企画は、最終的な完成を迎えようとしていた。私の心は、この数週間で劇的な変化を遂げていた。恐怖は消え、代わりに、自分の言葉で何かを創造することへの、純粋な喜びと、そして確かな手応えが宿っていた。
だが、平穏は、突如として破られた。
その日、私は高木部長に呼ばれ、グラン・コスメティクス本社へ向かうよう指示された。「先方から、企画責任者である君に、直接確認したいことがあるそうだ」と。
不吉な予感が、胸をよぎった。蓮に報告すると、彼は「俺も行こう」と静かに言った。
グラン・コスメティクスの会議室は、異様な空気に包まれていた。上座には、保守派として知られる桐谷専務が腕を組み、厳しい表情で座っている。その隣には、私の同期である佐藤さんが、どこか居心地悪そうに、しかし、挑戦的な視線を私に向けていた。
『脅威レベル5。明確な敵意を感知』
私の思考が、警報を鳴らす。
「水瀬さん。単刀直入に聞こう」
桐谷専務が、冷たく口火を切った。
「あなたの過去の実績について、いくつか確認したいことがある」
彼はそう言うと、手元の資料に目を落とした。それは、佐藤さんが用意したものであろう、私の二年前の失敗を、克明に記したレポートだった。
「二年前のコンペでの、記録的な大失敗。クライアントからの評価は、『心がない』。このような失敗をした人間に、我が社の社運を懸けた新ブランドの立ち上げを、本当に任せられるのか。我々は、それを非常にリスクだと考えている」
その言葉は、鋭い刃となって、私の心の最も柔らかな部分を抉った。血の気が、引いていく。二年前の、あの悪夢が、鮮やかに蘇る。
『ほら、見たことか。お前は、また失敗する』
心の奥底で、自分を嘲笑う声がした。
だが、その時だった。
会議室の奥の扉が開き、凛とした声が響いた。
「お待ちください、桐谷専務」
入ってきたのは、グラン・コスメティクスの女性社長、白石麗子その人だった。彼女の登場に、会議室の空気が一変する。
「私は、水瀬さんが提出した中間企画提案書を読みました。確かに、彼女には過去に失敗がある。しかし、その失敗を経て、彼女がどう変わったのか。それを聞かずに判断を下すのは、早計ではありませんか」
白石社長は、まっすぐに私を見た。その瞳には、探るような色ではなく、ただ、真実を知りたいという、真摯な光が宿っていた。
「水瀬さん。あなた自身の言葉で、聞かせてください。二年前のあなたと、今のあなたは、何が違うのですか」
絶好の助け舟。だが、私は声を発することができなかった。身体が、鉛のように固まって動かない。
隣に座る蓮に、助けを求めるように視線を送る。だが、彼は、何も言わなかった。ただ、その深い青色の瞳で、私を、まっすぐに見つめているだけだった。
その眼差しが、私に告げていた。
『これは、お前の戦いだ』と。
逃げたい。
この場から、消えてしまいたい。
だが――蓮の眼差しが、私をこの場に繋ぎとめていた。彼が信じてくれた、私の「言葉」の力を、私自身が裏切るわけにはいかない。
この数週間で、私の胸の中に、再び灯った、あの熱い炎。それを、ここで消すわけにはいかない。
私は、震える両手でスカートを強く握りしめ、ゆっくりと、立ち上がった。
「……二年前、私は、確かに失敗しました」
声が、震えていた。だが、私は、続けた。
「クライアント様の期待に応えられず、大きなご迷惑をおかけしました。あの時の私は、自分の企画を、心の底から信じきることができず、途中で妥協し、中途半端なものを出してしまった。……それが、私の、最大の失敗でした」
一度、言葉にしてしまえば、あとは、堰を切ったように、想いが溢れ出してきた。
「でも、あの失敗があったからこそ、私は今、本当に心を込めた企画を作ることの意味を、理解しています。二年間、私は自分の心を殺して生きてきました。感情を持つことが怖かった。また誰かを失望させることが、また否定されることが、何よりも、怖かったんです」
気づけば、私の瞳から、涙が滲んでいた。だが、それは、二年前の絶望の涙ではなかった。
「でも、一条社長が、教えてくださいました。心を殺した企画は、誰の心にも響かない、と。そして、私は、ようやく気づいたんです。二年前の失敗は、企画そのものが悪かったのではなく、私が、私自身を信じられなかったことが、本当の原因だったのだと」
私の視界の隅で、佐藤さんが、苦い表情で俯いているのが見えた。彼もまた、過去の失敗に、囚われているのかもしれない。
私は、涙を拭うこともせず、決意を込めて、顔を上げた。
「今回の企画には、私の、今の私の、全てが込められています。もし、またダメだったら、それは、私の実力不足です。でも、逃げることだけは、もう、したくないんです。二度と、自分の心を、裏切りたくないんです!」
私は、その場にいる全員に向かって、深く、深く、頭を下げた。
「どうか、もう一度だけ、私にチャンスをください。私を、信じてください」
沈黙が、会議室を支配した。
永遠とも思える、数秒間。私は、顔を上げることができなかった。
だが、その沈黙を破ったのは、一つの、乾いた拍手の音だった。
顔を上げると、白石社長が、静かに、しかし、力強く、拍手を送ってくれていた。
「素晴らしい。水瀬さん、あなたの覚悟は、よくわかりました」
彼女は、桐谷専務に向き直った。
「桐谷さん。私は、彼女を信じます。失敗を恐れない挑戦こそが、新しい価値を生むのです。違いますか?」
その言葉に、会議室のあちこちから、静かな拍手が広がっていく。桐谷専務も、渋々といった表情ではあったが、小さく頷いた。
会議室の窓から差し込む光が、私の涙に反射して、虹色に輝いて見えた。私の灰色の世界に、完全に「色」が戻ってきた瞬間だった。
会議が終わり、廊下に出た瞬間、全身から、力が抜けていくのが分かった。その場に崩れ落ちそうになる、私の身体。
だが、その身体が床にぶつかることはなかった。
温かく、力強い腕が、私を、しっかりと支えてくれていた。
見上げると、そこには、驚くほど優しい表情をした、蓮がいた。
「……ありがとうございます」
かろうじて、それだけを口にする。
蓮は、何も言わなかった。ただ、その深い青色の瞳で、私を見つめ、そして、小さく、しかし、はっきりと、こう言った。
「よくやった」
その、たった一言が、私の心を温かい光で満たしていった。

蓮に支えられながら、私はグラン・コスメティクスのビルを出た。初夏の午後の日差しが、やけに眩しく感じられる。まるで、長い間、暗闇にいた瞳が、初めて光に慣れようとしているかのように。
蓮は何も言わず、私の腕を軽く引き、近くの落ち着いたカフェへと向かった。人々の喧騒から離れた、静かな個室。そこに通されると、私はようやく張り詰めていた緊張の糸が切れ、ソファに深く沈み込むように座り込んでしまった。
「……すみません。情けないです」
テーブルに突っ伏し、かろうじてそれだけを呟く。
緊張が一気に解け、全身が鉛のように重くなった。指一本動かすのも億劫だった。
「いや」
向かいに座った蓮が、静かに首を横に振った。
「お前は、本当によくやった。あの場で、あれだけの言葉を紡げる人間は、そういない」
その声には、いつもの冷たさはなく、ただ、深い労いの響きだけがあった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。そして、ずっと胸の中にあった、最大の疑問を、彼にぶつけた。
「一条社長は、なぜ、そこまで私を信じてくださるんですか? 私は、失敗ばかりで、才能があるかどうかも、わからないのに」
蓮は、私の問いにすぐには答えなかった。彼はしばらくの間、窓の外の景色を眺め、何かを思い出すように、目を細めていた。
そして、ゆっくりと、口を開いた。
「お前の言葉を、俺はずっと前から知っている」
「……え?」
「いや、正確には――お前の『書いた言葉』を、知っているんだ」
私は、混乱した。「私の、書いた言葉……?」そんなはずはない。彼と私は、このプロジェクトが始まるまで、何の接点もなかったはずだ。
蓮は、私の混乱を見透かすように、続けた。
「まだ、全部を話す時ではない。だが、一つだけ言えることがある。お前が二年前に書いた、あの企画書は、失敗なんかじゃなかった。あれは、俺が今まで見た中で、最も魂が込められた言葉だった」
彼の声は、熱を帯びていた。それは、氷の皇帝からは想像もできないほどの、静かで、しかし、燃えるような情熱だった。
「だから、俺はお前を選んだ。お前の才能を、もう一度、この世界に証明させたかった。そして――」
蓮は、そこで一瞬、言葉に詰まった。まるで、胸の奥にある、最も大切な言葉を、選び出すかのように。
「お前に、伝えたかったんだ。お前の言葉は、確かに、誰かの心を動かしていた、と」
その言葉が、私の心の最後の扉を、静かに、開いた。
涙が、溢れて止まらない。
二年前、誰にも届かなかったと思っていた、私の魂の叫び。それを、受け止めてくれていた人が、いた。世界でたった一人、この場所に。
「……一条、社長……」
嗚咽の合間に、彼の名前を呼ぶのが、精一杯だった。
蓮は、席を立つと、私の隣に座り、その大きな手で、私の頭を、そっと、優しく撫でた。子供をあやすような、不器用で、しかし、温かい手つきだった。
「プレゼンまで、あと三日だ。明日は、お前が一人で話せ。俺はただ、そこにいるだけだ。お前の言葉を、俺は信じている」
そして、蓮は、初めて、私のことを、ファーストネームで呼んだ。
「莉奈。お前は、もう一人で立てる」
その声は、驚くほど優しく、温かかった。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、彼を見上げ、力強く、頷いた。
「……はい。行ってきます」
カフェを出る時、私は、決意を込めて、蓮に尋ねた。
「一条社長。プレゼンが終わったら、全部、教えてください。私の言葉を、どこで知ったのか」
蓮は、私の視線をまっすぐに受け止めると、その整った顔に、初めて見る、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ。約束する」
その夜、私は一人、ホテルの部屋で、プレゼンの最終資料を見直していた。
もう、恐怖はなかった。胸にあるのは、自分の言葉への、確かな誇り。そして、蓮への、深い感謝と、信頼。
――そして。
彼が語った謎への、抑えきれない好奇心だった。
『私の書いた言葉を、知っている』
一体、どこで? いつ? そして、なぜ?
その答えを知るために、私は、明日、全てを懸ける。
不思議と、明日が来るのが、待ち遠しかった。

プレゼン前夜。
サイネックス・エージェンシーのオフィスは、ほとんどの社員が帰宅し、静寂に包まれていた。その中で、佐藤健吾は一人、自販機の前で缶コーヒーを握りしめたまま、立ち尽くしていた。
彼の妨害は、完璧な失敗に終わった。
グラン・コスメティクスでの緊急会議の結果は、すぐに社内にも伝わってきた。水瀬莉奈が、自らの言葉で、過去の失敗を乗り越え、クライアントの信頼を勝ち取った、と。
そして、その背後には、一条蓮という絶対的な庇護者がいる、と。
「……ちくしょう」
佐藤の唇から、乾いた悪態が漏れた。
嫉妬、焦り、そして、自分でも名状しがたい、敗北感。様々な感情が、彼の胸の中で渦巻いていた。
彼の脳裏に、五年前の記憶が、鮮やかに蘇る。
入社三年目。彼もまた、大きなコンペで、致命的な失敗を犯した。クライアントの意向を読み違え、独りよがりな企画を提案し、長年の取引を失いかけたのだ。
あの時の上司の怒声、同僚たちの冷たい視線。
――心が、折れた。
その日を境に、佐藤は誓ったのだ。二度と、挑戦はしない、と。
クライアントの意向を完璧に読み取り、決して失敗しない、「安全な道」だけを選ぶ。そうやって、彼は「エース」という地位を築き上げてきた。失敗しない自分。それが、彼の唯一のプライドだった。
でも、水瀬は違った。
彼女は、自分よりも、もっと深く、もっと残酷な形で、心を折られたはずだった。それなのに、彼女は、再び立ち上がった。一条蓮という存在がいたとはいえ、最後は、自分自身の力で。
『俺は、間違っていたのか……?』
失敗を恐れ、挑戦から逃げ続けた自分の生き方が、まるで、否定されたかのような気がした。それが、怖かった。だから、彼女を引きずり下ろそうとした。自分と同じ、安全な泥の中に。
佐藤は、缶コーヒーを、ぐしゃりと握り潰した。
明日、水瀬がプレゼンで成功したら、自分のこの五年間の全てが、無意味なものになってしまう。
そう思うと、腹の底が、冷たくなった。
――でも。
同時に、心のどこかで、思っている自分もいた。
あの会議室で、涙ながらに、しかし、決意を込めて語った、彼女の姿。
それは、五年前の自分が、失ってしまった光景だった。
「……頑張れよ、水瀬」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、佐藤は呟いた。
それは、嫉妬でも、憐憫でもない。
自分にはできなかった選択をした、かつての同期へ送る、歪んだ、しかし、偽りのないエールだった。
佐藤は、握り潰した缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨てると、誰にも見られることなく、静かにオフィスを後にした。
夜の丸の内の煌びやかな夜景が、彼のどこか寂しげな背中を、ただ、黙って照らしていた。