プロジェクト開始から二週間が経った頃。
私と蓮の関係は、依然として零度の緊張感を保ちながらも、その内実を少しずつ変えていた。彼はもはや、ただの冷徹な独裁者ではなかった。私の企画の本質を誰よりも深く理解し、その思考の浅さを的確な言葉で抉り出し、より高い次元へと引き上げてくれる、唯一無二の存在となっていた。
「悔しい」という青い炎は、いつしか「もっと知りたい」「もっと応えたい」という、純粋な創作意欲へと変わり始めていた。
その夜も、会議室の時計はとっくに深夜を指していた。企画は佳境に入り、コンセプトを具体的な広告コピーへと落とし込む作業に、私たちは没頭していた。
「違う。その言葉は、まだお前の仮面の上から出てきた言葉だ」
私が捻り出したコピーを、蓮はいつものように、一刀両断にした。
「もっと、心の奥底にあるものを抉り出せ。お前が本当に言いたいことは、そんな綺麗な言葉じゃないはずだ」
「……もう、分かりません」
私は、ほとんど悲鳴に近い声で言った。思考は行き詰まり、これ以上、何も出てこない。
蓮は、そんな私をしばらく黙って見つめていた。そして、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で命じた。
「……二年前の企画を、もう一度プレゼンしてみろ」
その言葉に、私の心臓が凍りついた。
「……無理です。あれは、もう……」
「逃げるな」
蓮の声が、私の拒絶を許さなかった。
「お前の才能は、あの日で終わったわけじゃない。お前が自分で終わらせようとしているだけだ。その呪いを解かない限り、お前は一生、本当の言葉を紡ぐことはできない」
彼は、社内のサーバーから、あの忌まわしい企画書のデータをディスプレイに映し出した。
震える手で、私はマウスを握った。ページを一枚めくるごとに、あの日の記憶が、鮮明な悪夢となって蘇る。
プレゼンを始めた瞬間、フラッシュバックが襲った。
クライアントの冷たい視線。嘲笑うかのような空気。
『あなたには心がない』
『こんな企画、誰の心にも響かない』
脳内で、あの時の声が木霊する。目の前のディスプレイがぐにゃりと歪み、企画書を破り捨てられる幻聴が耳鳴りのように響き渡った。会議室を出た後、誰もいない廊下の冷たい床に崩れ落ち、声を殺して泣いた、あの日の自分。
「……っ、は……っ、ひぅ……」
呼吸が、できなくなる。空気を求めて喘ぐのに、酸素が肺に入ってこない。視界が白く染まり、身体が自分のものとは思えないほど激しく震え始めた。
その時だった。
温かい、大きな手が、私の背中を強く、しかし優しくさすった。
「……水瀬! しっかりしろ! 息を吸うんじゃない、吐くんだ。ゆっくり、俺の呼吸に合わせろ」
耳元で聞こえるのは、蓮の、これまで聞いたこともないほど狼狽した声だった。彼は私の隣に膝をつき、私の背中をさすりながら、自らもゆっくりと、深い呼吸を繰り返している。その呼吸の音が、私の耳に届く。
私は、その声と、背中の温かさだけを頼りに、必死で呼吸を整えようとした。どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく発作が収まり、私が顔を上げると、蓮は安堵と、そして深い後悔が入り混じったような表情で、私を見つめていた。
「……すまない。やりすぎた」
彼はそう呟くと、近くにあったミネラルウォーターのペットボトルを私の手に握らせた。その彼の手が、ほんのわずかに震えていることに、私は気づいてしまった。
この完璧な男が、動揺している。私のために。
その事実が、私の混乱した頭を、少しだけ冷静にさせた。
私が落ち着くのを待って、蓮は静かに語り始めた。
「あの企画には、武装するしかなかった魂の叫びがあった」
その声は、いつもの冷たさではなく、深い共感を帯びていた。
「お前は、心がないんじゃない。心がありすぎて、それを守るために凍らせただけだ。……違うか?」
私は、何も言えなかった。ただ、涙が頬を伝うのを感じていた。二年間、誰にも理解されなかった、私の心の本当の形。それを、この人は、たった一言で言い当ててしまった。
そして、蓮は初めて、彼自身の仮面の下にある傷跡を、私に見せた。
「俺も、昔は感情を表に出す人間だった。だが、ロンドンで大型プロジェクトのリーダーを任されたとき、最も信頼していた部下に裏切られた。彼が競合他社に機密情報を流し、プロジェクトは崩壊。数億円の損失を出した。……あの時、俺は誓ったんだ。二度と、感情で判断ミスはしない、と」
彼の瞳の奥に、深い絶望の色がよぎるのを、私は見た。
「だから、あなたも……氷の仮面を被っているんですか」
私の問いに、蓮は自嘲するように、かすかに口の端を上げた。
「ああ。だからこそ、お前の痛みがわかる。そして、だからこそ言える。心を殺して生きることは、本当の意味で生きることじゃない」
その言葉が、私の心の最後の堰を、決壊させた。
「……私は、もう誰かの心を動かせる自信がないんです」
涙と共に、二年間、誰にも言えなかった本音が、堰を切ったように溢れ出した。
「また否定されたら、今度こそ、本当に立ち上がれない……。それが、怖いんです」
蓮は、黙って私の言葉を聞いていた。そして、私の涙が少し収まるのを待って、彼は私の目を真っ直ぐに見つめて、告げた。
「俺の前でだけは、その仮面を外せ。お前の本当の言葉を、俺は聞きたい」
彼の真剣な眼差しに、私の心臓が大きく跳ねた。
「いや――」
彼は一瞬、何かを躊躇うように言葉に詰まった。そして、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、続けた。
「俺は、お前の言葉を、ずっと前から知っている気がするんだ」
「……え……? ずっと、前から……?」
私は、驚いて蓮を見上げた。その言葉の、意味が分からない。
だが、蓮はそれ以上何も語らず、「いつか、全部話す」とだけ言って、視線を逸らした。
その瞳が、深い青色をしていることに、私は初めて気がついた。夜の海のように、静かで、どこまでも深い青。私の灰色の世界に、初めて、鮮やかな「色」が灯った瞬間だった。
蓮の真剣な眼差しが、その謎めいた言葉が、私の胸に深く突き刺さって離れない。
この人は、本当に私を見てくれているのだろうか。
私の、仮面の下にある、本当の私を。
期待と恐れが、ないまぜになったまま、私はただ、彼の深い青色の瞳を、見つめ返すことしかできなかった。

翌朝、私は始業時間よりも少し早く出社し、まっすぐに社長室へと向かった。昨夜、あれほどまでに無様に感情を露呈してしまったことへの気まずさはあった。だが、それ以上に、彼にもう一度会って、話をしたいという、これまで感じたことのない衝動が、私を突き動かしていた。
重厚なドアを、意を決してノックする。
「入れ」
中から聞こえたのは、いつもと変わらない、短い声だった。
「おはようございます。昨夜は、ご心配をおかけしました」
部屋に入るなり、私は深く頭を下げた。蓮はデスクでコーヒーを飲んでいたが、その手を止め、私を見た。
「気にするな。お前が倒れられると、俺が困る」
その言葉は素っ気なかったが、彼の表情は、いつもより明らかに柔らかかった。まるで、分厚い氷の層が一枚、剥がれ落ちたかのように。
私は、震える手で持っていた一枚の企画メモを、彼の前に差し出した。
「あの、もし、よろしければ、聞いていただけますか。昨夜、考えた新しいアイデアです」
自分から、能動的に何かを提案する。二年ぶりの、その行為に、心臓が早鐘を打っていた。
蓮は、少し驚いたように目を瞬かせた。そして、ゆっくりと口元に笑みの形を作り、「……座れ」と、向かいのソファを顎で示した。
私が話し始めると、蓮は真剣な表情で耳を傾けた。時折、「その根拠は?」「なぜ、そう思う?」と鋭い質問を投げかけてくる。だが、それはもはや、一方的な詰問ではなかった。対等な議論だった。私も必死に食らいつき、自分の言葉で、自分の考えをぶつけた。
気づけば、二時間が経過していた。窓から差し込む朝日が、部屋を明るく照らしている。
「……悪くない。いや、かなりいい」
蓮が、議論の最後にそう認めた瞬間、私の胸に、温かい光が、ぱっと広がった。それは、久しぶりに感じる、誇らしい達成感。自分の力が、誰かに認められたという、純粋な喜び。温かい、金色の光だった。
「では、私はこれで」
議論を終え、私が立ち上がって部屋を出ようとした時だった。
「水瀬」
蓮が、私を呼び止めた。その声が、いつもより少しだけ、温かい響きを持っているように感じたのは、気のせいだろうか。
私が振り返ると、蓮は珍しく、何かを躊躇うような表情を見せていた。
「……お前は、やればできる。それを、忘れるな」
その、不器用な励ましの言葉。
私の唇から、自然に、笑みがこぼれた。それは、作り笑いではない。心の奥底から、自然に湧き上がってきた、小さな、小さな微笑みだった。
「……はい」
そう答えた私の声は、自分でも驚くほど、明るく響いた。
その瞬間、蓮が、息を呑んだのが分かった。彼は、まるで初めて見るもののように、私の顔を、ただじっと、見つめていた。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟いた。
「……そうだ、その顔だ」
その言葉は、私の耳には届かなかった。だが、彼の表情に浮かんだ、何かを探し求めていたものをついに見つけたかのような、深い感慨だけが、私の心に強く焼き付いた。
社長室を出て、自分の部署へと向かう廊下を歩きながら、私はまだ、胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見る。
そこにいたのは、無表情な「氷の仮面」を被った私ではなかった。
かすかに、本当に、かすかにではあるが、口元に、柔らかな笑みを浮かべた自分がいた。
「……私、笑ってる」
その事実に、驚きと、戸惑い、そして、小さな喜びが、静かに、しかし確かに、私の心を温め始めていた。