蓮の指名から三日後。
あの日以来、私の周囲の世界は、静かだが確実に変質していた。向けられる視線には、好奇と嫉妬と、そして憐憫の色が混じる。「社長直轄プロジェクト」という聞こえの良い響きの裏で、誰もが私の早期の脱落を予測していた。特に、営業部のエースである佐藤さんの視線は、日に日に鋭さを増していた。給湯室ですれ違った時のことだ。彼が同僚に向かって、苛立ちを滲ませて呟いていた。 「なぜ水瀬なんだ。俺の方が実績があるのに」 その声が、嫌でも耳に入ってきた。その声には、純粋な嫉妬だけでなく、何か別の、焦りのような響きがあった。
私は、そんな周囲のノイズを全て遮断し、蓮に命じられたA4一枚の企画案を、ただ無心に作り上げた。感情はない。情熱もない。ただ、彼が提示した『凍った心を、もう一度温める』というコンセプトに対し、最も論理的で、効率的な回答を導き出すだけ。それは、私に唯一残された、思考のゲームだった。
提出期限の朝9時きっかりに、私は社長室の前に立っていた。重厚なドアをノックすると、「入れ」という短い声が返ってくる。
蓮は巨大なデスクで、すでに山のような書類に目を通していた。私が差し出した企画案を受け取ると、彼はその場で立ったまま、数分間、沈黙で紙面を睨みつける。時間が、凍りついたように感じられた。
やがて彼は顔を上げ、私の目を見ずに、ただ一言だけ告げた。
「……悪くない」
そして、企画案をデスクに置くと、彼は内線で秘書に何かを指示した。
「今日の午後から、38階の特別会議室を押さえろ。期間は、コンペ終了まで。入室できるのは、俺と水瀬莉奈だけだ」
それは、二人きりのプロジェクトルームの誕生を意味していた。周囲の憶測や干渉を一切排除するという、彼の絶対的な意志の表れだった。
「異論は?」
「ありません」
「結構だ。午後1時に、現地で」
それだけ言うと、彼は再び書類に視線を落とした。私は、ただ黙って社長室を後にするしかなかった。
その日から、私と蓮の、奇妙な共犯関係が始まった。
38階の特別会議室は、窓から東京の街並みを一望できる、ガラス張りの空間だった。だが、そこに満ちていたのは、絶景とは程遠い、零度の緊張感だった。
蓮との打ち合わせは、過酷を極めた。
彼は、私が作り上げた企画の骨子を、一つ一つ、容赦なく解体していく。
「このターゲット層のインサイトは、どこから来た? 君の想像か、それともデータか」
「このキャッチコピーは、誰にでも言える。君自身の言葉ではない」
「なぜ、このビジュアルなんだ。コンセプトとの繋がりが弱い」
彼の指摘は、常に的確で、私の思考の甘さを容赦なく抉り出した。反論しようとしても、その倍の論理で叩き潰される。まるで、百戦錬磨の外科医に、脳内を隅々まで手術されているかのようだった。
「心を動かせない企画が、人の心を動かせると思うな」
ある時、蓮は冷たくそう言い放った。
その言葉に、私は初めて、感情的な反発を覚えた。
「……では、どうすればいいんですか」
声が、自分でも驚くほど、尖っていた。蓮は、そんな私を一瞥すると、即座に答えた。
「お前自身が、まず心を動かせ。喜び、怒り、悲しみ、その全てを企画に叩きつけろ。それができないなら、今すぐこのプロジェクトから降りろ」
それは、正論だった。正論だからこそ、何も言い返せない。心を殺して生きてきた私にとって、それは最も残酷な要求だった。
深夜までの残業が、何日も続いた。
思考は限界に達し、身体は鉛のように重い。その晩も、私は一人、会議室でディスプレイの光と睨み合っていた。蓮は、数時間前に「少し席を外す」と言って部屋を出て行ったきり、戻ってこない。
不意に、強い眩暈が視界を揺らした。まずい、と思った瞬間には、身体が傾いでいた。倒れる、と覚悟した時、ふと、デスクの端に、これまでなかったものが置かれているのに気がついた。
湯気の立つ、マグカップ。そして、小さな鎮痛剤のパッケージ。
マグカップからは、生姜の、ぴりりとした温かい香りがした。
振り返ると、部屋の入り口近くのソファで、蓮が何事もなかったかのように、分厚い海外の専門書を読んでいた。いつの間に、戻っていたのか。
「……ありがとうございます」
かろうじて、それだけを口にする。蓮は、本から顔も上げずに、素っ気なく返した。
「倒れられると困る。それだけだ」
その声は、いつもと同じ、氷のような温度だった。
だが、私は見てしまった。照明の光に照らされた彼の耳が、ほんのわずかに、赤く染まっているのを。
その瞬間、私の灰色の世界に、ぽつり、と小さな光が灯った。
それは、淡い、淡いオレンジ色の光。
『温かい』
その感覚を、私が思い出したのは、一体、何年ぶりのことだっただろうか。
翌朝、蓮は何事もなかったかのように、いつも通りの「氷の皇帝」として私の前に現れた。昨夜のことは、まるで幻だったかのように。
だが、私が自分のデスクに戻ると、そこには見慣れない小さな栄養ドリンクが、一本だけ、ちょこんと置かれていた。差出人の名前はない。だが、誰が置いたのかは、考えるまでもなかった。
その日の打ち合わせで、私は初めて、自分から新しいアイデアを切り出した。
「……この部分ですが、ターゲット層の深層心理を考えると、別の切り口があるのではないでしょうか」
蓮は、一瞬、驚いたような顔をした。そして、私の言葉に、真剣に耳を傾け始めた。
「……続けてみろ」
私は、夢中で話した。昨夜、蓮がくれたジンジャーティーの温かさが、まだ胸の奥に残っている気がした。その温かさが、凍りついていた思考を、少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。
私の話が終わると、蓮はしばらく沈黙していた。そして、短く、しかしはっきりと告げた。
「……悪くない」
その一言が、私の胸に、久しぶりの達成感という名の熱を灯した。それは、誇らしいような、少しだけ、くすぐったいような、金色の光だった。
その日の打ち合わせの終わり、蓮は立ち上がりながら、私に告げた。
「今夜も残れ。君の『心』とやらを、俺がこじ開けてやる」
その言葉は、いつもと同じ、挑戦的な命令だった。
だが、今の私の胸に宿ったのは、諦めや絶望ではなかった。
『……悔しい』
初めて、その感情に名前がついた。
負けたくない。彼の期待に、応えたい。そして、彼を、見返してやりたい。
私の魂の奥底で、青い炎が、静かに、しかし確かに、燃え始めていた。